織田信長の弟・有楽斎「逃げた男」の真の姿 | ・・・ 瀬戸の夕凪 ・・・

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織田信長の弟・有楽斎、「逃げた男」の真の姿

茶の湯を通して人と人をつなぐ

 

<写真>、、、「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」

展示風景 織田有楽斎坐像 一軀 江戸時代 17世紀 正伝永源院 【通期展示】

 

<写真>、、、「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」

展示風景 松平陸奥守書状 織田有楽斎宛 一幅 江戸時代 17世紀 正伝永源院 【展示期間:1/31~2/26】

 

<写真>、、、「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」

展示風景 蓮鷺図襖(部分) 狩野山楽 十六面 江戸時代 17世紀 正伝永源院 【通期展示】

 

<写真>、、、「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」

展示風景 重要美術品 大井戸茶碗 有楽井戸 一口 朝鮮王朝時代 16世紀 東京国立博物館 【通期展示】

 

信長の弟という宿命を背負って生まれた武将・茶人の織田有楽斎(おだうらくさい)。

その人物像を探る展覧会「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」がサントリー美術館にて開幕した。

文=川岸 徹 撮影/JBpress autograph編集部

 

400年遠忌を機に有楽斎の真の姿を探る

 

 1547(天文16)年、天下人・織田信長の13歳年下の弟として生まれた織田長益。

兄と同じく武将として活躍したが、同時に茶人・織田有楽斎の名でも広く知られている。

 

 有楽斎は千利休に一目置かれるほどで、彼の茶風は武家茶道の流派のひとつ「有楽流」として今も受け継がれている。

晩年には京都・建仁寺の塔頭「正伝院」を再興し、正伝院内に有楽斎が建てた茶室「如庵」は国宝に指定されている。

 

 そんな織田有楽斎が2021年に400年遠忌を迎えたことを記念し、企画されたのが「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」。

展覧会の開催について、正伝院の流れを汲む京都「正伝永源院」の住職・真神啓仁氏はこう話す。

 

 「四百年遠忌にあたり当寺院の文化財を再調査したところ、有楽斎の人物像がより鮮明に浮かび上がりました。

これまで有楽斎は“逃げた男”として語られることが多かったが、その短絡的なイメージを払拭したい。

展覧会を通じて、有楽斎の本当の姿を知っていただけたらと思っています」

 

 住職の言葉にある通り、織田有楽斎に “逃げた男”というイメージを持っている人は多いのではないか。

1582(天正10)年、明智光秀が起こした謀反“本能寺の変”により、織田信長は本能寺にて自刃。

 

 その知らせを受けた織田長益(有楽斎)は主君であった信長の息子・信忠とともに誠仁親王がいる二条御所に移り、明智軍と交戦した。

信忠は誠仁親王を逃走させることに成功したものの、戦いには勝てずに自害。

主君を失った織田長益(有楽斎)は城から脱出し、安土を経て岐阜へ向かったなどと伝えられている。

 

汚名を背負ってでも生き延びる

 

 主君が自害したにも関わらず、戦地から逃れた織田長益(有楽斎)。

京の人々に「逃げた男」と揶揄され、当時の風聞書などにも悪評が記された。

だが、“逃げる”という行為は本当に恥ずべきものだったのか。

 

 「脱出という行為は生きるための本能的な動き。一歩引いて客観的な視点で戦況を見直し、誇りをもってその場を立ち回ったのでしょう。

あの時代は、生き抜くことのほうが苦難の道。

その行動は恥ずべきことではなく、勇気ある生き方だったと思います」(正伝永源院住職・真神啓仁氏)

 

 本能寺の変の後、織田長益(有楽斎)は乱世の時代に重要な役割を果たした。

小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉と徳川家康を和睦させる折衝役を担当。

ほかにも織田長益(有楽斎)は調整役としての能力を発揮し、数々の和議調停を成し遂げたという。

 

茶の湯を通して人と人をつなぐ

 

 人と人との間を取り持つことに才を発揮した織田長益(有楽斎)。

その取り持ちの場として大切にしたのが茶席だ。

 

 織田長益は秀吉に仕えていた頃に剃髪し、「有楽斎」と号し、茶の湯を重んじた。

茶を通して築いた交友関係の広さは、展覧会に出品された数々の書状や「有楽亭茶湯日記」などの茶会記に明らか。

 

 細川忠興、伊達政宗、徳川家康などの武将や、金地院崇伝をはじめとする高僧、古田織部や千道安(千利休の長男)といった茶人や商人など、様々な立場の人々と交流があった事実を知ることができる。

 

 これらの書状から、有楽斎の人柄が見えてくる。

「本年の茶葉は出来が悪いが、すぐに詰めて贈るので、あなたの台所茶にでもしてください」(「織田有楽斎書状 伊勢屋道七宛」より)、「方々から茶の誘いがあるが、いずれも同心はしないが、あなたのところへは参ろうと思う。

秘密になさって、通りかかった風でうかがいます」(「織田有楽斎書状 東心老宛」より)。

相手を気遣いながら、決して堅苦しくなく、ユーモアを交えてメッセージを伝える。

有楽斎は穏やかで気配り上手な人物だったのではないか。

 

東京・有楽町の地名は有楽斎が由来?

 

 関ヶ原の戦いの後、70歳を過ぎた織田有楽斎は荒廃していた京都・建仁寺の塔頭「正伝院」を再興

敷地内に茶室「如庵」を建て、茶の湯三昧の生活を送る。

如庵は現在、愛知県犬山市に移築され、国宝茶席三名席のひとつとして現存。

有楽斎が集めた茶道具は孫の織田三五郎に受け継がれたが、三五郎の遺言によって形見分けされ、現在は行方知れずのものも多いという。

 

 展覧会ではかつて有楽斎が所持した、あるいは好んだと伝わる茶道具の名品を紹介。

重要美術品「大井戸茶碗 有楽井戸」「唐物文琳茶入 銘 玉垣」などに、数寄者としての有楽斎の姿を見ることができる。

 

 江戸時代には家康に仕え、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領した織田有楽斎。

東京・千代田区の公式ホームページによると、「その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代にその一帯は有楽町と名付けられた」そうだ。

この件については異論もあるが、有楽斎の名から有楽町という地名が生まれたとする説にロマンを感じる。

 

 「逃げた男」と呼ばれながらも本能寺の変を生き延びたからこそ、歴史にその名を残し、東京の町名となり、織田家の家名を現代へと受け継がせることができた。

織田有楽斎の人生に、しぶとさ、逞しさ、そして知性を感じる。

<記事引用>