90年前の函館大火のあとをたどる街歩き | 函館・青柳町暮らし

函館・青柳町暮らし

2010年4月、函館暮らしを始めました。
風景、食、イベント、街のあれこれ……、
愛する函館の日常や
季節の移ろいなどをお伝えします。

昭和9年3月21日夕から22日早朝にかけて、
1万棟以上が焼失した函館大火が発生。

その惨事のあとをたどる街歩き、

中尾仁彦さんの「函館ぶら探訪」に参加しました。

火元は立待岬に向かう坂の手前、路地の奥。

強風で屋根が飛んだ家のいろりから出火したのが

はじまりだったそうですが、ここから

中島廉売のほうまで燃え広がることになります。

 

谷地頭ローソンの斜向かいにあったグラウンドに、

大八車や風呂敷で家財道具を運ぶ人が殺到し、

大混乱。ここでも火の勢いを食い止められず。

正面の八幡宮方面に逃げた人は、

函館山要塞のゲートを開けてくれたおかげで

山に逃げ込み、そこから燃える街を見ていたそう。

 

函館公園にも300~500人が押し寄せるも、

ここにも火が入り、松や桜の木2000本が焼失。

右のすりばち山展望台から見ると、

電飾で照らされる夜桜のようだったとか。

 

公園内の図書館の本館と書庫は、

すでに鉄筋コンクリート造りだったため、

扉から火が入らないように水をかけつづけて

焼失を免れたそう。

木造の博物館2棟は、風向きが変わって

燃えなかったということで奇跡のようです。

 

函館配水場には当時市長公宅があって、英断により

水道の地下施設に女性子供を避難させたとのこと。

 

火の手が二十間坂まで押し寄せたときに

風向きが変わって、

寺町や公会堂のほうに逃げた人は助かったそう。

 

当時丸井今井百貨店だったまちづくりセンターは、

コンクリート造でも扉などの開口部から火が入り、

外観は残したものの内部は全焼。

 

風向きが変わり、大森浜方面に逃げた人に悲劇が。

「火のカーテン」が迫って家財道具に火がつき、

発生した有毒ガスに倒れ、

木製の橋が焼け落ちて冷たい海に投げ出され……

2000人以上のかたが命を落としました。

今の自分の生活エリアがこんな惨状だったことを

改めて痛感した街歩き。先人の知恵と熱意で、

その後大火は起こってないことに感動と感謝です。

 

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