昭和9年3月21日夕から22日早朝にかけて、
1万棟以上が焼失した函館大火が発生。
その惨事のあとをたどる街歩き、
中尾仁彦さんの「函館ぶら探訪」に参加しました。
火元は立待岬に向かう坂の手前、路地の奥。
強風で屋根が飛んだ家のいろりから出火したのが
はじまりだったそうですが、ここから
中島廉売のほうまで燃え広がることになります。
谷地頭ローソンの斜向かいにあったグラウンドに、
大八車や風呂敷で家財道具を運ぶ人が殺到し、
大混乱。ここでも火の勢いを食い止められず。
正面の八幡宮方面に逃げた人は、
函館山要塞のゲートを開けてくれたおかげで
山に逃げ込み、そこから燃える街を見ていたそう。
函館公園にも300~500人が押し寄せるも、
ここにも火が入り、松や桜の木2000本が焼失。
右のすりばち山展望台から見ると、
電飾で照らされる夜桜のようだったとか。
公園内の図書館の本館と書庫は、
すでに鉄筋コンクリート造りだったため、
扉から火が入らないように水をかけつづけて
焼失を免れたそう。
木造の博物館2棟は、風向きが変わって
燃えなかったということで奇跡のようです。
函館配水場には当時市長公宅があって、英断により
水道の地下施設に女性子供を避難させたとのこと。
火の手が二十間坂まで押し寄せたときに
風向きが変わって、
寺町や公会堂のほうに逃げた人は助かったそう。
当時丸井今井百貨店だったまちづくりセンターは、
コンクリート造でも扉などの開口部から火が入り、
外観は残したものの内部は全焼。
風向きが変わり、大森浜方面に逃げた人に悲劇が。
「火のカーテン」が迫って家財道具に火がつき、
発生した有毒ガスに倒れ、
木製の橋が焼け落ちて冷たい海に投げ出され……
2000人以上のかたが命を落としました。
今の自分の生活エリアがこんな惨状だったことを
改めて痛感した街歩き。先人の知恵と熱意で、
その後大火は起こってないことに感動と感謝です。
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