【ご報告】 | be happy

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旅行と食べ歩きが大好きなソウル在住会社員の日記。
韓国ソウルのお出かけスポットとグルメ情報を中心に
お届けします。(^0^)/

ブログ記者団を始めてから、私のブログにいらっしゃる方は韓国の話を読みに
訪問されていると思うのですが・・・もともとは私の日常を記録する場が
このブログでした。
私は過去のことをよく忘れてしまうタチなので・・・
そのための備忘録として使っていました。

なので、突然のご報告に驚かれるかもしれないのですが、
大事なプライベートの話を記録に残しておきたいと思い、
忘れないうちに書かせていただきます。
(以下、長文、失礼いたします。)

父のガンが見つかったのは、今から約2年前。
母から「お父さん、ガンが見つかった。ステージ4だって。」と連絡を受け、
それから、父の病である「スキルス胃ガン」とは何か、「ステージ4」とは何か
ひたすらネットで調べました。

わかったことは、「スキルス胃ガン」は元フジテレビアナウンサーの逸見さんが
患っていた病気で5年生存率が低く、完治は難しい病気であること。
普通の胃ガンと比べて予後の悪いガンであること。
ステージ4というのは末期であるということが、あちこちに書かれていました。

あまりにもショックで当時、毎晩泣いていたのを思い出します。
しかも父のガン発覚と私のリストラ宣告(職場都合による)を受けた時期がほぼ同時期だったので、
私は人生のドン底に陥っていました。

「これは一旦帰国して親孝行をしながら、新たな人生を考えたほうがいい」と思い、
親孝行&リセット休暇として2ヶ月ほど日本に帰国していました。
2012年の年末から2013年初めの話です。

一時帰国中は農作業の手伝いをしたり、一緒に旅行したり、マラソンを見に行ったりと
父との時間を大切に過ごしていました。

父はガン治療(抗ガン剤治療)を頑張るというので、
夫を韓国に残しているため、私は韓国に戻りました。

主治医の先生には手術は無理だろうと思われていましたが、
2013年夏に手術をし、胃を全摘出。その後も抗ガン剤治療を続けていました。

私はその間、長期の休みがあれば、帰国し、農作業を手伝うという生活。

父の様子が変わったのは、今年の夏。
抗ガン剤治療で白血球が激減したり、食事ができなかったりで激やせしていました。
夏休みに帰国して会った時、骨と皮だけの姿になっていて、涙を堪えるのに必死でした。
「修行僧になっちゃったね」と冗談を言っちゃいましたが・・・。
本人も自分の痩せ細った姿がとてもショックだったそうです。
夏休みは父、私の夫、私の3人でサツマイモの手入れをしました。
フラフラになりながらも、私たちに手入れの指導をしていた父。

倒れたと知らせを受けたのは10月30日。
急いで母に電話をした時は父が救急車で運ばれている時でした。

私は次の日の朝イチの便を取り、帰国。
意識はありませんでしたが、父に会うことができました。
夏に会った時よりも更に痩せていて、誰かわからないほどでした。

10月31日の夜は呼吸が安定していてスヤスヤ寝ていた父。
目を覚ますかなと期待していましたが、主治医の先生には
「今晩、越せるかどうかです。」と。夜は母と私で泊まることにしました。

11月1日になり、朝も呼吸が安定していて、父のお気に入りという看護師さんも
お見舞いにきてくれました。しかし、お昼頃、急に呼吸が乱れ始め、
父は家族全員が見守る中、眠るように亡くなりました。

家族全員がいる間に息を引き取ってくれてよかったと思う反面、
「お父さん、亡くなるの早すぎだよ!」と叫びたくなりました。
そして、亡くなる時はよくドラマで見ていたシーンのようだったので、夢を見ているかのよう。
正直、今も父が亡くなったことが信じられず、現実として受け止めることができずにいます・・・。

退職後の生活を夢描いていたのに、その生活をガン治療で満喫できないまま
退職後3年も経たずに天国へ。

「一番悔しいのはお父さんだよね」と母。
悔しいのは私も同じ。
もっと親孝行したかったし、父は仕事熱心で大きくなってからは一緒に過ごすことが
少なかったから、もっと旅行したり、農業を手伝ったりしたかったのに・・・。
本当に悲しいです。

きっと頑張りすぎたんだね。いい人過ぎたんだよ。せっかちだったのかな。と思うようにしています。

亡くなってからは怒濤の日々でした。

病院で看護師さんにきれいにしてもらってから、お別れをし、
霊柩車で父と一緒に帰宅。

父を仏間に寝かせてもらいました。

それから、猛スピードで後片付け。
その後もひたすら家の大掃除をしていました。

次の日の朝に葬儀屋さんと打ち合わせ。
葬儀までにすることリストに20項目ぐらいの内容が・・・。
その時、いろんなことを決めました。
棺、骨壺、返礼品、料理などなど。父の好みのものをと選んだつもりです。
葬儀屋さんがおじいちゃんの葬儀の時のデータがあるのでそれを元に準備させていただきますとのことで、それに従い大分楽に進められたのですが、それでも目が回るくらい大変でした・・・。
告別式の挨拶を考えたり、遺影の写真を探したり、メモリアルコーナーの準備をしたり・・・

一番困ったのは、どこに連絡をするのか?
父は体力が限界まで来ていたのに「生きること」しか考えていなかったので、
遺書も亡くなった後どうするかなども全く残していませんでした。
しかも、交友関係が広かった父。
取りあえず、思いつくところを手あたり次第、連絡しましたが、連絡漏れがまだあるだろうなと。

納棺式、お通夜、告別式と儀式はあっという間に過ぎていきました。

棺には父が気にしていたレモンを入れ、抗ガン剤で髪が薄くなってしまったのでバンダナをし、
在職時代に来ていたスーツ、いとこが頑張って折ってくれた千羽鶴、色紙、新聞などを入れました。

お通夜にはうちの野菜をいつも買ってくださっていた市長さんが弔問に訪れ、
告別式には父の高校時代の担任の先生に弔辞を読んでいただきました。
父の高校時代の思い出から、最近のこと、いろんなエピソードを交えながら、私たち家族を励ます内容になっていて、感動して号泣しました。父は本当に素晴らしい先生に巡り合ったんだなと。
他にもすぐに弔問に来てくださった方、号泣していた前の職場の方、ご近所さん、父の同級生など本当にたくさんの方々にお見送りいただきました。
父は本当に幸せ者です。

遺骨は抗ガン剤治療のためにボロボロなんじゃないかと心配していましたが、
そういうことはないらしく、職員の方に「しっかりしていますね~」と言われました。

大きいながらもしめやかに葬儀を執り行うことができ、ホッとしています。

無事葬儀を終え、亡くなって一週間後が父の誕生日でした。
私は誕生日プレゼントを準備していたんですが、直接渡すことができませんでした。
父が大好きだったチョコレートケーキを買い、祭壇に供えました。

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お父さん、一緒に食べたかったよ!

そして、父と一緒に育てたサツマイモができていました。

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こんなに大きく育ったんだね。これも一緒に味わいたかった。

父との思い出のものを見るたびに、涙があふれてきますが、
父のことを忘れないために、涙を流したいと思います。

父とのことを思いつくままに書き連ねてしまいましたが、また思い出したら、時々ブログに書こうと思います。

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

韓国に戻ったら、夫の家族が温かく迎えてくれ、職場の人たちが心配してくれて嬉しかったです。

昨年は最愛の祖母を亡くし、今年は最愛の父を亡くして、精神的に辛いですが(もっと辛いのは母ですが・・・)、
父のように辛くて苦しいことがあっても、明るく、前向きに一生懸命生きていこうと思いますので、
これからもよろしくお願いいたします。