タブーを越える | 谷口礼子オフィシャルブログ「じゃこのおもしろいこと」
独創的であることはすごいなあと思うのだけど、
それはただ単純に物を知らないだけであることもある。

これは普通こうやるでしょう、という「普通」が存在しないことによって、
はじめから常軌を逸しているので、「独創的である」という評価が下る場合がある。

その場合、ごく常識的な、物事のそもそもの出発点を知った上で、あたらしく独創的なことを提案できることのほうがすごいのか、どうなのか?
結果として「独創的」なものを生み出すことができるならいいのだろうか?

私は「独創的」な考えをちっとも持ち合わせていない上、祖父母に育てられたので、「普通ならこうだろう」という考えに縛られて、ちょいちょい損なことばかりしている。

たとえば、「打ち水」。

先日、商店街で「打ち水イベント」というのがあった。
「打ち水」というのは、バケツに汲んだ水を少しずつ手かひしゃくで地面にかけていくものだろう、という、自分の中の常識に基づいて、せっせと打ち水を始めたところ、背後で、「よいしょ!」と、バケツいっぱいの水を地面にぶちまけているメンバーがいた。

水しぶき、ばしゅああー!

つい、目をとんがらせて、「打ち水ってそういうもんじゃないでしょっ!」と怒ってしまったけども、その勢いや思い切りに、ちょっとしたおもしろさがあって、楽しそうで、「打ち水はこういうもんだ」という考えに沿って行動していた私はなんだか自分を見失ったようだった。
まあ、いいじゃないの。涼しくなれば。
そういう時は、うらやましいし、結構悔しい気分になる。

聞いてみたら、水をぶちまけたメンバーは「打ち水」という文化についてあまり知らないのだった。
「知らない」ということの、自由。
なんて強烈なんだろう。

そういえば、一昨年、アジア舞台芸術祭に参加し、韓国の演出家、朴さんのチームで芝居をしたとき、「常識はずれの人」という設定の登場人物がいた。
朴さんは、お葬式のシーンで突然現れるこの登場人物に、「もっと常識はずれな行動を!」とリクエストしたのだけど、仏壇の前で常識はずれな行動をする、というのがなかなかうまくいかなかった。
そこで、朴さんが自ら立って、「こんな感じで」とやって見せたのが、傑作だった。
・「ちーん」と鳴らす鈴の中に、棒を入れっぱなしにする。
・線香を立てる灰の入れ物の中に、香典を入れる。
↑これらを真顔でやって、故人を心からお参りするという人物は、いかにも常識はずれで、(見ていて冷や冷やするけれど、)キャラクターとしてとても強烈だった。

でも、これができたのは、まず朴さんが日本の葬式のしきたりを圧倒的に知らないからで、逆に言うと、日本人の俳優にこれができなかったのは、葬式というしきたりのタブーがそれだけ強いことを意味するのだ。
そのタブーを乗り越えられることがあれば、それはある意味すごい能力なような気がする。

世の中には、というか、自分のなかには、数え切れないほどのタブーが存在する。
私は人よりタブーが多い。それは、ある意味とても有利で、ある意味とても損だ。
祖父母がおしえてくれたしきたりは、普通社会で生きていくのにとても役に立っている。
「刃物をまたいではいけない」だとか、「神社でお参りする際の手水の使い方」だとか、「あかなくなった瓶のふたの開け方」だとか。それを知っていることで人に信用されたり感謝されたりもする。
そういうものに助けられて暮らしていることを実感しながら、しかしそれだけを信じて生きてしまうことは、見えるかもしれない世界を見ないようにすることなのかもしれない、とも思うのだ。

結局、既に知っていることについて知らない振りをしたり、無視したりするのではなくて、そこに知らないうちに存在しているタブーについて、私はもう少し詳しくなりたいと思う。
「無知」の爆発力や破壊力には、敵わないかもしれないけれど、
なんとなく、その「ドッカン」な感じは、私の個性にはうまく当てはまらないような気もしていて。

常識に縛られている凡人であることが私の出発点であることは仕方がないのかもしれないが、その「タブーの存在に対する教養」の分量が、私にはもう少し必要だ。
「無知の智」も必要だとは思うけれども。

何事もバランスだなあ。