人間50年・前編 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 人間50年、化転(けてん)のうちにくらぶれば、夢幻の如くナリ

 うろ憶えながら、古くは織田 信長、
近世では昭和48年に『アストロ球団』に登場したリョウ 坂本(ロッテ・オリオンズ)が、
好んで舞った謡曲(?)「敦盛(あつもり)」(の一節?)である

 信長の時代にはまあ、人間って云うか、日本人の男子の平均寿命がそんなもんであり、
信長自身も確か49歳でその生涯を閉じているものの、現代では人間70年ぐらい?
もっとも、最後の10年間なんかどうなっているのか、わかったもんじゃないからね
その数値をそのまま計算に入れるわけにはいかないので、半分の5年と想定すると、
人間65年辺りが妥当ではないだろうか

 お陰さまで両親は父親76歳、母親70歳で目下健在である
だが、このひとたちは石油文明なんか出現する遙か以前の両親を持ち、有機野菜で育ち、
戦乱の中を逞しく生き抜いてきた強靱な肉体と精神力の持ち主である
 母親は云う
“あんたたちがあたしたちみたいに長生きできると思ったら大間違いよ”(何て親だ・笑)

 だが、確かにそう思う
医療の進歩は目覚ましい限りではあるものの、そもそも医療とは病後の措置であり、
病気になりにくい肉体そのものを形成しているのは、食生活と環境にほかならない
それが両親の時代とぼくたちの時代では圧倒的に異なっている
 従って、人間65年(笑)

 ぼくには主にその親元に居た保護監察期間が約25年間もある
それは全生涯の約38.5%にも達し、まるで蝉だ(笑)
 Player社に在籍していた期間は約10年間・・
その後、基本的にはフリーのグラフィック・デザイナーや編集者でありながらも、
そんなもんだけでは喰っていけないので、何やかんやで10年過越してきてしまっている
 つまり、

 蝉25年 + Player10年 + 何やかんや10年 = 約45年

 既に2006年現在、全生涯の約69.2%、約7割を消費してしまっていることになる
反対に云えば、残りはあとわずか20年間・・、1/3すら残っていないのだ

 このような、ごくごく基本的な資産とも云えるご自身のご生涯の消費の実態について、
果たして皆さんはご認識されていたり、一度でもお考えになったことがおありだろうか?
 ぼくはいままでに一度もなく、それがいまの状況(負け組)の最大の元凶とも思える
人生とは、そう何度もやり直せるものでも、それほど長いものでも絶対にない

 それには親の教育も一因している
どこの親でもそうなのかも知れないけど、幼少の頃、両親(特に母親)は、
ぼくが“たとえば ぼくが 死んだらさー”なんて話しをすると異様に怒った
根が素直なもんだから、それを忠実に守って現在まで来てしまったわけである(笑)
 そんな幼少期ならともかく、少なくても少年期から遅くても青年期辺りまでには、
せっかく森田 童子の「たとえば ぼくが 死んだら」なども聴いていたのだから、
一度は自分の寿命とその使いかたについて、しっかり考えておくべきだったと思う

 こんな事例がある
大学1年のときの芸術祭終了後、ボクシング部の1回生だけで行った打ち上げの際に、
同じ1回生だったけど年齢もひとつ上で、やけに大人びて(フケて)いたSに、
やや思い切ってやや神妙な心持ちで“ぼくはどうしたらいいんだろう?”と、
部活動はもちろん、大学生活や広く人生全般も含めたつもりで尋ねてみたことがある

 S曰く“サスケ(大学時代のぼくの別称)は、
もっと自分を大事にしたほうがいいんじゃないの?”・・

 実のところ、その真意は現在でもわからない

“だからさ、サスケはボクシング部のサスケなのか? それともサスケはサスケなのか?”
“ぼくがボクシング部だっ!”
“そこが違うんだよなー、全然”

 当然、1回生だけの打ち上げの前には、全部員はもちろん、OBまで含めた納め会があり、
Sもぼくもしこたま飲まされていた上に、前後の話しのいきさつもよく憶えていない
だが、Sはただ大人びて(フケて)いただけではなく、温厚で思慮深く、
当時のぼくの浅はかさだけは見抜いていたようだった
 つまり、

 自分を大事にしたほうがいい = 自分を大事にしていない

 今回、自分の人生があと20年間しか残っていないことを改めて意識してみて、
それは同時に、いままでの45年間という膨大な時間を浪費してきた実感を伴っている
 即ち、いままで如何に自分(の人生)を大事にして来なかったか?
ポイントはその目的意識や計画性、そしてその実効力(の欠如)ではなかったかと思われる

 ボクシング部の話しを思い返してみても、
ぼくは、Sも含むほかの部員たちの“絵ばっかし描いていると身体がなまるから”という、
美大生として至極当然の入部の動機を“不純”と捉えていた
そこには確かに、ボクシングというスポーツを何らかの代替と捉えていることに対する、
ごくごく純粋なアンチテーゼも含まれてはいたものの、
それでいて、ぼく自身はそれほど熱心にボクシングに励んでいたわけでもナイ・・
 つまり目的(動機)も計画性も実行力もすべて支離滅裂だった
(ボクシングに限らず、ぼくの人生は大方がこんな感じだ)

 正式名称、多摩美術大学拳闘部に入部したとき、ぼくはまだ19歳だった
それでもまだ46年もの生涯を残していたのだから、そのうちの大学生活4年間を、
如何にして過越すか?を真剣に考えることこそ、先ず自分を大事にする初歩だったのだ


 つづく

※文中敬称略