人間50年・後編 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 ともあれ、過ぎたことを云っても始まらナイ

 当初\650持っていたものの、\450は水洗便所に流してしまった
しかし、幸いまだ\200ある
今度こそ無理なく遂行できるその使いかたを計画して、着実に実行していくしかないだろう
 20年なんか、もうそんなに長い時間ではなく、しかも、

“ジャネーの法則”って、知ってる?
例えば1年間という時間の長さを、10年の人生経験しかない10歳のガキは、
それまでに経験した全生涯の1/10くらいの長さとして捉える
だが、70歳の老人には70年にも及ぶ人生があるため、
同じ1年間という時間の長さでも、1/70程度でしかない
 云う迄もなく1/10は1/70の7倍であり、1/70は1/10の1/7である
つまり、同じ時間でも、70歳の老人には10歳のガキの7倍速く感じられる、という・・

 45歳の1年間は10歳のガキの4.5倍の速さで過ぎ去っていることとなり、
それは実感としても何となく頷ける
しかも、その速度は年齢を重ねるほど加速度を増していくわけだから、
これからの45歳から65歳までの20年間を、
これまでの10歳から30歳までの20年間と同等に見積もっていたら大間違いである
 体力や健康の減退も考えると、可能性はさらに狭められてくる

 残り時間が少ないことで気が楽になっている面もある

 例えば、住居だとかくるまだのといった物欲に対してだ(笑)
何と云っても、あと20年しかないんだから、そこに住めたり乗り廻したりできる時間は、
(20年)-(それを手に入れるために必要な時間)の残りの時間に限られる
1年に50万ほど貯金すれば、18年後にポルシェぐらいは買えるかも知れないけど、
乗り廻せる時間は2年しか残っておらず、しかも63歳になってイル
ポルシェどころか車椅子の可能性を考えていたほうが現実的でしょ、まじな話し・・
車椅子そのものは900万円もしなくても、それを転がす住居の改装費用が必要になる
 こんなんは諦めの境地でも何でもナイ

 たまには10代や20代のひとに(ありがたい)忠告もしておいてやろう
常に(65年)-(そのときの自分の年齢)から、自分の残りの寿命を算出して、
その残りの寿命で無理なくできる可能性を模索しろ
(え?当然もうやってる? やってなかったバカはぼくだけ?笑)
 25歳のキミやアナタが1年間に50万貯金して18年後にポルシェを買ったとしても、
まだまだあと22年も乗り続けられるわけで、どちらかと云うと、
水平対抗エンジンの寿命のほうがそれだけもつかどうか・・(笑)

 時はカネなり、オダはノブなり、ではあるものの実は、
“カネは時なり”でもあるのだ

 毎日、ご自宅と駅の間を自転車で往復30分通勤しているひとと、
タクシーで10分で済ませているひとでは1日20分、1年間280日勤務なら93.3時間、
それを10年間続けたら933時間=約39日間もの時間を算出できることになる
もっともワン・メーターだったとしても10年間で369万6千円ほどかかるけど(笑)
 このカネを使って浮いた39日間の1日辺りの値段は\94,769.2・・
9万5千円も使って1日という時間を買うか?買わないか?はそのひと次第である

 オダはともかく、カネと時こそ現代を生きる最大のキー・ワードに違いない
それ以外の価値観に価値を見出そうとしているやつは、はっきし云ってバカである
(何を隠そう、ぼく自身のことを云ってイル・笑)
 いまや世界の価値観が、旧イラク(宗教)や北朝鮮(絶対的指導者)を除けば、
資本主義で統一に向かっている以上、カネは万国共通の価値観になりつつある
それを産むために最低限絶対に必要なのが、時間という資本なのだ

 ああ、15歳のときに、何でこんな簡単なことがわからなかったのだろう・・

 小学校6年の終わりから高校1年の夏ぐらいまで、
当時、三浦半島地区で一世を風靡していた(いまでも、か?)N塾に通っていた
その塾は国公立大学の医学部または東大を目標に掲げた超進学塾ではあったものの、
ぼくはむしろ教会や寺院に通う心持ちで、N塾長の訓戒に心酔していた
 この塾の話しはまた別項で記すが、その中で、
“やるべきことはたくさんあるっ! だが、時間は限られているんだぞっ!”は、
まさに現在までのぼくに欠落してきた最大の認識だと思う
せっかく久里浜まで週2回、定期試験期間だろうが何だろうがお構いなしに熱心に通い、
その度ごとに(ほとんどの訓戒は毎回同じ・笑)叩き込まれてきたというのにね

 ほかにも、
“クラブ活動なんかやめろっ! スポーツなんかバカがやることだっ!”とか、
“恋愛か? あれもバカほどはまるっ!”などと始終吠えていらっしゃったものの、
何てことはナイ・・、ぼくの人生はその有り難い訓戒をことごとく裏切り続けている
 いったい、親でもその塾長でも、その子の幸せを真剣に考えるなら、
やはり現実に正直であるべきだと思う
即ち、カネほどその実現に友好的な手だてはない、とかね
N塾のN塾長は当時としては希有な、真の教育者だったと思う

 ぼくには、スポーツを続けていても、レンアイに励んでいたとしても、
最終的に東大(ひとの身体に触れたり触れられたりすることがもの凄く嫌いなので、
医学部は学力以前の問題で最初から念頭になかった)に入ればいいんだろう・・
ぐらいに考えていた、相変わらず現実無視でお門違いの欺瞞があっただけだった
 さらに、ええかっこしいもある

 大学4年の就職活動時に、多摩美術大学からの就職はそれほど易しくない、
(株)ロッテや某大手広告代理店に受かっていたのに、
それが男ぞ!などという、1銭にもならない価値観から当時の就職規定を遵守して、
こともあろうに弱小編集プロダクションに就職してみたり、
広告は嫌いだの音楽雑誌を創りたいだのと、手段の好き勝手をほざいてみたり・・
 理想や体裁で渡って行けるほど、世の中は甘くなんかないのだ

 目的があるのなら、その達成計画を立てて、残りの生涯(年数)で割れば、
1年間の達成目標(ノルマ)が自ずから算出され、その実現の可能性も見出されて来よう
どうしても達成できなければ、目的のほうを調整(ランク・ダウン)すればいい
ポルシェじゃなくて、パッソにするとかさ(笑)
 それが当たり前のことなのに、
長嶋 茂雄や梶原 一騎や水島 新司だけでしか育ってこなかったぼくには、
成せば成るみたいな、無計画であやふやな精神論だけでしかなく、
それは人生を甘く考えるどころか、考えることのサボタージュのような気さえしている
 
 で、ようやくいま考えてみているのが、人生の軽量化である

 あれもやろう、これもやろうと想い描いてみたところで、それこそ時間は限られている
だからもういい加減、デキナイことは諦めて、無駄な時間の削減に努めるべきだろう
例えば、ロバート・プラントのように唄えるようになりたい、とか?(笑)
膨大な量に及ぶパソコン雑誌の記事をいちいちスクラップして整理する、とか?
LEGACYに手掛けでワックスをかける、とか?
 できたところで結果がない努力はもちろん、想い描いている時間すら無駄だ

 実はここしばらくブログの更新がままならなかったのは、本稿に苦戦していたためだ
それだけよく考えて、苦労して記してみてはみたものの、ひょっとして、
ここに記したことは、誰もが知っているごくごく世間一般的な常識・・?(笑)
 だったとしたら、今後ぼくのことは“類い希な天才”だと思ってクダサイ


※文中敬称略