2011年6月18日(土)

早朝4時半過ぎに目が覚めたが外は既に明るく、日の出の時刻になっていた。通り過ぎた駅名は蟹田となっていて、時刻表で確認すると津軽半島の中程で、もう間もなく青函トンネルに入る頃だ。
青森側が「竜飛海底」、函館側が「吉岡海底」という、それぞれ海底駅があるよなぁと思いつつ、ウトウトしてそのまま二度寝に入ってしまい、次に目覚めた時はもう、函館に到着して機関車を後と前とで付け替えている最中だった。
函館からは列車の進行方向が逆になり、大沼国定公園や内浦湾そして太平洋を右手に見ながら、列車内のレストランで朝食を摂ると、いよいよ札幌に到着だ。
ちょうど昼飯時でもあるので、札幌駅からすぐ近くにある「一粒庵」へ向かい、札幌ラーメンをいただくことにする………と思ったら、既に開店前から並んでいる行列に遭遇。30分程待って入店し、ようやく着席。
オイラは「みそチャーシューめん」(写真上)、奥様は「元気のでるみそラーメン」を小盛りで注文。共にみそ味なのだが、あまり味噌っぽくないと言うか「味噌風味の、旨い出汁」とでも言えばいいのか、みその旨味だけが麺にギュンと染み込んでいるような、何ともまろやかな味だ。
そして、分厚いのに箸でポロンとほぐれるほど柔らかいチャーシューも、これまた絶品 ………チョイトそこのアァタ、ヨダレが出てますけどぉ~

札幌ラーメンを満喫した後は、これも奥様のリクエストで駅に直結した「JRタワー展望室」なるところへ行ってみた。札幌市内で一番高い建物だそうで、地上160mから札幌市街が360度見渡せるのはなかなかいいもんだ。
ここで一番感激したのは男子トイレ(写真下)で、大変に失礼ながら、まるで札幌市内に向けて放尿している気分になれる、お薦めの場所だ。残念ながら、女子トイレは建物の内側にあるので、このような興奮(?)は味わえない。……って、中に入って確認した訳ではない


北海道での二番目のお目当てである函館に向けて、今度は札幌駅から「スーパー北斗」に乗る(写真下)。この旅行の前までは、札幌と函館との間はそんなに距離が無いのだろうと思っていたが、実は距離が300km位あって、特急でも約3時間かかることを初めて知った。


そしていよいよ函館に到着。まだ18時過ぎで明るいのだが、駅前からバスに乗ってロープウェイ山麓駅前に行き、そこからロープウェイに乗って函館山に上がる。山頂の展望ハウスは、まだ明るいというのに既に夜景見物の人垣ができていて、撮影スポットを確保するのに骨が折れる程だ。19時半過ぎになると、どうやら夜景らしくなってきたので、どさくさに紛れて1枚パチリ(写真下)。左側の函館湾と右側の津軽海峡に挟まれたお馴染みの夜景だ。


帰路はロープウェイではなくて山頂からバスに乗り、急な下り坂をクネクネと降りて函館駅方向へ向かう。駅の少し手前にある、赤レンガ倉庫群近くでバスを降り、「函館ビヤホール」なる店で夕食を摂る。なかなか美味しい一品揃いのお店であったが、特に写真のイカは生ビールともピッタリ合う一品であった。


後は、このまま駅まで歩いても15分位なので、港の夜景など(写真下)を楽しみながら、ぶらぶらと散歩がてら駅に向かう。いろいろなところが綺麗に整備してあり、また電飾もしてあったので、それらの眺めを楽しみながらの散歩ができた。


そして再度、寝台特急「北斗星」に乗り込み、またまた青函トンネルを潜って今度は一路、大宮を目指すのであった。今度こそは青函トンネルの中で渾身の一枚を撮ろうと列車の最後尾で構えていたが、大した写真も撮れずに(写真下)そのまま眠りについてしまった。


三日目に続く

2011年6月17日(金)

二年振りに、フルムーンパスを使って奥様との旅行に出かけた。
まずは、朝から新幹線で東京へ。東京駅からは山手線で上野へ出て、上野駅のコインロッカーに荷物を預け、地下鉄銀座線で浅草へ。小雨がポツポツと降っていたので、雨宿りがてら仲見世通りの一つ東側のアーケード街で昼食を摂る。
昼食を終えると、うまい具合に雨も止んでいたので、仲見世通りをぶらり。通りの中程で、浅草寺に向かって右側の方向に、雨雲の合間からスカイツリーがひょっこりと見える(写真上)。塔の上にはまだクレーンが二基ばかり残っていて、最後の仕上げ工事真っ最中というところか。

浅草散歩の後は再度銀座線で上野に戻り、奥様のリクエストで、東京国立博物館の「ブッダ展」に行く(写真下)。
手塚治虫というマンガ家は、オイラの中では、横山光輝やさいとう・たかをや青柳祐介などと比べると、今一つ入り込めない部類の絵だったのだが、このブッダは、釈迦の生涯を手塚治虫なりの解釈も混じえて、とてつもなく壮大なドラマとして見せてくれている。そう、奇想天外かつ安直な公共放送の今年の大河ドラマより、遙かにこちらの方が重厚感に溢れている。
誕生から苦悩・苦行、そして悟りの後の涅槃に至るまでを、オリジナル原画とそのストーリーに関わる本物の仏像や壁画などと一緒に展示してあるので、とても見応えがある。また、入口で貸し出してくれる「水樹奈々さんの音声ガイド」が、これまた聞き易くて分かり易い説明で、予備知識を持たないままで入場しても、すんなりと手塚治虫の世界へ没入できるのは、ありがたい。


国立博物館を後にして、大回りをしながら上野の寛永寺に参詣し、時間潰しで上野駅構内をぶらぶらしていると、奥様が奇声を発するではないか。何事かと見れば、あの「こごめ大福」の竹隆庵岡埜を、めざとく見つけたみたいだ。早速買い求めて、夜行列車の中でゆっくりといただく楽しみとにする。

上野駅の東北本線ホームは行き止まり型になっているので、終着駅の趣がもろにあってなかなか宜しい。定刻の15分位前に寝台特急「北斗星」(写真下)が入線してきたので、やおら乗り込んでみる。


個室寝台「デュエット」のベッドはそこそこゆったりしていて(写真下)、身長169cmのオイラにとっては、軽く寝返りも打てる程の充分の広さだ。かくして旅行初日の夜は暮れ、夜行列車の小気味良い振動に揺られながら、夢路に着くのであった。


二日目に続く

2011年6月4日(土)

「第一石畳」付近を歩いている時に南側に高い煙突が見えていて、その方向と、船木側からの通行止め区間の方向が何となく一致しているような気がして、煙突を目指して脇道に入ってみると、写真上のような施設に出会した。
入口に「宇部市楠清掃センター」と書いてあるが、今はもう使われずに廃墟になっているようだ。当初は楠町の清掃センターだったようだが、平成16年に宇部市と楠町が合併した後に、何らかの理由で使われなくなったのだろうか。年金資金の融資で建てられたとも書いてあるが、税金や年金が有効に使われたのならいいけど…。

で、とんでもなく寄り道をした挙げ句に漸く船木に到着。旧山陽道を踏破した際にも既にここは訪れているが、今日はその山陽道を横切って、もう少し北へ向かってみる。
舟木街道沿いに「不二醤油」なる大きな看板と旧家が見えたので、中を少し覗かせていただいた。土間と上がり框(かまち)、それに帳場格子と、多分百年前と変わらないであろう重厚さと端正さを見せてくれる。


ここまでで、万歩計はもう4万歩を越えていたので、どこかで足を休めようかと思っていると、「楠こもれびの郷」と書かれた看板が目に入り、ここから歩いても10分程度みたいなので歩きついでに行ってみた。

入浴料600円を払って入り、約1時間たっぷりと温泉を堪能した。簡単なジャグジーもあるので、例によって、男にしか分からない「タマブクロ刺激」も味わう。ジャグジーの水流と共に、タマブクロが縦横無尽に飛び跳ねる快感は、『男に生まれて良かったぁ~』と思える瞬間だなぁ。
ま、女性にもそれなりの楽しみ方があるのかも知れないが、男のおいらにゃぁ分からなぁ~い

舟木街道(船木⇒十文字)へ続く

2011年6月4日(土)

船木ゴルフクラブの少し手前、道の右手に「宇部市指定史跡 千林尼棚井山田石畳道」と書かれた道標が、草むらの中に僅かに見える。先程の石畳とはまた違うものだろうかと思い、これまた寄り道をしてしまったのがウンのつきで、この先ここだけで約1時間半を要してしまうことになる。
興産専用道路を潜って更に進むと、直進方向は通行止めになっているので仕方なく道なりに左折し、その先で漸く本当の(笑)石畳入口が見えてくる(写真上)。道標の左手奥に見える登り坂が、………ソォレダァ~~~

僅かな藪を掻き分けながら進むと、宇部市教育委員会が建てた石畳の説明板とその先に「第五石畳」が見えてくる。そして更に進むと、道祖神と共に「第四石畳」が現れる(写真下)。

この道は船木から宇部市棚田を経由して厚東地区へ抜ける街道だが、先に立ち寄った舟木街道の石畳とは、石の数や大きさも異なり、かなり大規模な工事であったことが窺える。

更に、「第三石畳」「第二石畳」と抜けて、最も南東側(厚東側)の「第一石畳」が終点になる。片道約1.6kmの山道だが、雨上がりだったこともあって何せ藪蚊が多く、カメラを構えた途端に『ウゥィ~~ン』と顔や手にまぶれついてくるのだ。ここを訪れる方は、時期を晩秋から初春にかけての季節にすることをお薦めする。


「第一石畳」のすぐ先には、写真下のような厚東郷土史研究会による案内板もあり、こちらは、宇部市教育委員会のものと違って、案内図付きで分かり易い。


結局は、この石畳道を往復してしまったのだが、船木側にあった通行止めの箇所が何となく気になり、石畳道を往復した後に、ついでに寄ってみた。

その4に続く

2011年6月4日(土)

小さな峠に差し掛かる登り坂の途中に、「千林尼の石畳道」と書かれた説明板(写真上)があり、右手に登る道は明らかに旧街道の趣を残しているので、これを辿ってみた。
暫く往くと「石畳道入口」の標識が見え(写真下)、千林尼石畳保存会が建立したと思しき『千林尼、人のためにと敷いた石、教えし道に、残るあし跡』なる歌碑もある。


更に登って行くと、それらしき石畳が路面から僅かにのぞいている(写真下)が、その石が苔生していることを見れば、ここを訪れる人がついぞ無きことも分かる。

ただしこの道は、峠近くで今は行き止まりになっていて楠地区へは抜けられず、来た道をまた戻るはめになる。
しかし、この石畳が完成したのが文久二年と書いてあるから、黒船が来港して以来の幕末争乱の時代ではある。険しい坂道を往き来する人馬の苦しみを見かねて、自ら托鉢して浄財を集め、石畳を敷いたり橋を架けた千林尼なる人が居たことを初めて知った。
ごく地元の方以外にはほぼ無名と思われる千林尼であるが、今はもう僅かに残るこの道でしか、その遺徳を偲ぶ由もないのかと思いつつ、楠地区へ向かう………
と、ナント、もっと大規模な千林尼の足跡が、楠地区(正確には船木から棚井にかけて)には残っていたのだ。

その3へ続く

2011年6月4日(土)

「瓶垣」の寄り道を終えて舟木街道に戻り、小野田駅横から歩き始める。有帆郵便局辺りの道は、どうみても最近できたような道なのだが、旧街道筋が見当たらないので、仕方なく県道30号沿いを歩く。
山陽自動車道の高架を潜ったところに、写真上のような大きな看板が建っていて、「霊験日本第一」の熊野神社と書かれているではないか。「日本一」と「日本第一」の違いがよく分からないが、それほど大口を叩くのなら、ちょいと立ち寄ってみるべぇとばかり、寄り道をしてみた。
(宇部)興産専用道路を潜り、更に坂を登って行くと漸く本殿に到着(写真下)。本殿にかけられている注連縄は確かに大きめではあるが、「日本第一」との謳い文句には少し肩透かしを食らわされる気もして………、まぁそこは神様のことであるから、素直に参拝するがよかろう。

例によってお願い事やお祈りはせずに、今日の無事をただただ感謝するのみ。オイラの先にも後にも、結構続いて参拝客が往き来していたところを見ると、オイラが知らないだけで、それなりに信仰を集めているのかも知れないナ。

ついでに、近くの別府八幡宮にも立ち寄って、結局1時間近くの寄り道になったが、再度、舟木街道に戻ると「有帆一里塚」の標識と庚申塚、それに三界万霊のお地蔵様が、仲良く並んでいた(写真下)。
一里塚標識のすぐ向こうに見える未舗装の道がどうやら旧街道筋みたいだ。県道29号の東側を通る小さな舗装路の、そのまた東側の小径だ。


旧街道筋を船木方面に向かうと、まもなく旧厚狭郡楠町(現:宇部市楠地域)に入るのだが、ここからまた、壮大な寄り道が始まるのだ。

その2へ続く

2011年6月4日(土)

4月30日の続きで、小野田から舟木街道を船木方面に歩き始めようとしたところで、ふと硫酸瓶のことを思いだし、ちょっと寄り道をしてみた。
小野田駅からは南東の方向になるのだが、有帆川を旦橋で渡って旦・皿山地区へ入る。この地区に今も残る「登り窯」の案内板が見えたので先にそちらへ行ってみようと歩きだしたら、すぐに目に入ったのが硫酸瓶を堆く積んだ塀だ(写真上)。どなたかの屋敷の入り口らしいが、瓶の底を外に向けて、まぁよくもこれだけ積み上げたものだと感心!。

ただ、有名な「瓶垣」と呼ばれているものとはちょっと趣が違うようなので、通りすがりの人を探そうとしたが、なかなか人が通りすがってくれない。本来オイラは、オバサンには道を尋ねない主義なのだが、やっとこさ出会った人がたまたまオバサンだったので、今回だけは仕方なく(?)主義を曲げて、「瓶垣」を尋ねてみた。
『知ってるよぉ』の返事には小躍りしたのだが、『あそこはねぇ、三好さんちゅうて百年位前からある家でね、今の当主の方が………』と、瓶垣とは全く関係の無い話を延々と始めたので、ちょっと不安を覚えながらもオバサンの後を着いて行くと、写真(下)のような見事な瓶垣に巡り会えた。

こちらは一度ばらして補強後に元通りに復旧したようで、瓶の口を外に向けて何とも綺麗に並べてある。この景観は日本広しと言えど、ここでしか見られないものだと思うが、辺りに生繁った草花とも既に充分溶け合って、独特の雰囲気を醸し出している。


説明書きには、これまでの経緯が簡潔に記されていて、経産省の「近代化産業遺産」にも指定されていることが分かる。
ただ、この場所へ行くには案内標識が見当たらないので、通りすがりの地元の人を見つけて、何とか教えてもらうしかない。因みに地図ではここ

それにしても、道を尋ねておいてこんなことを言うのは大変気が引けるのだが、どうしてオバサンって、相手が尋ねたことや知りたいと思っていることとは全く関係の無い事柄を、あんなに一方的に喋りまくることができるのでせうか?  ………謎だなぁ~www

約1時間の寄り道を終えて小野田駅前に舞い戻り、漸く舟木街道を船木に向けて北上を始めた。

その1に続く

2011年5月22日(日)

20日(金)の夕方、所用で約1年ぶりに尾道へ行った。翌21日(土)に所用と夕食を済ませた後、尾道駅そばのホテルからぶらぶらと海岸沿いを散歩してみた(写真上)。
ウッドデッキの向こうに見える高い建物がホテルで、その右の円形の建物は「しまなみ交流館・テアトロシェルネ」とか言う舌を噛みそうな名前だ。そのすぐ右手が尾道駅なので、ホテルも駅に近く、とても便利なところだ。
尾道水道沿いの遊歩道が写真のようにウッドデッキできれいに整備してあるので、尾道市役所を過ぎて尾道大橋の手前までぶらりと歩いてみた。帰路は国道2号南側の旧道や、北側の社寺に立ち寄りながら、約2時間程でホテルに舞い戻った。夜の独り散歩もなかなかいいもんだ。

22日(日)は午前中が空き時間だったので、雨上がりの裏通り(写真下)をゆったりと散策してみた。石畳小路と書かれているように、尾道ではほんの小さな短い路地でも、こうしてちゃんと標識を建ててあるのが、余所者にとってはとてもありがたい。


昼飯は、例によって尾道ラーメンとしたが、今日いただいたのは尾道新名物「ベッチャーらーめん」なるもので、確か「磯のり」と書いてあったもの(写真ではネギの手前の黒いもの)が載っていた。テーブルに置いてあった説明書きには、「尾道やくみ」を好みに応じてかけなさいと書いてあったので、二口目から結構ドバドバとふりかけてみたが、これがコショーと違って意外に旨かった。

とは言え、コシの強い太めのストレート麺に木耳や揚げにんにくの入った、コッテリ豚骨の「熊本ラーメン」が最強と信じるオイラにとっては、尾道ラーメンはやはりもう一つ物足りないのだ。
ま、これはあくまで好みですからネ…

2011年5月17日(火)

チャリで帰宅時に眼に入るのは、山口市南部名田島の田園に拡がる麦秋風景だ。
そう、季節はもう麦秋を迎えている。麦秋と言えば、…♪この道ぃはぁ~、いつか来た道ぃ~~、♪あぁ~そうだよぉ~ …って、そりゃぁ(北原)白秋ジャィ  m(_ _)m


秋の稲穂の収穫時にも、この田圃は同じように黄金の波となるのだが、周りの風景というか色合いが、秋と違って今の季節は「萌えるような緑」に囲まれた中なので、一層、黄金色が映えて見える。
もう間もなく、この一面の麦畑が刈り入れを迎え、そして今度は水田に生まれ変わるのだナ。いやぁ、お百姓さんご苦労様です。そしてありがとう。

とは言え、東日本大震災でのあの惨状を見るにつけ、自分がこうして季節ごとに農作物や自然の移り変わりを肌身で感じることができることの幸せに、改めて感謝する。

2011年4月30日(土)

頗る爽やかな初夏の陽気に誘われて、今日は小野田方面へ出かけてみた。
山陽本線の小野田駅で小野田線に乗り換えて雀田駅で下車し、続いて本山支線に乗り換えようと思ったが、時刻表を見ると朝夕の5便しかなく、これは諦めた。でも何だか悔しいので、そのまま小野田赤十字病院の側を通って本山支線沿いに歩き、終点の長門本山まで行ってみた。
そこからまた戻って竜王山公園方向へ歩き出し、途中の萬福寺や耳観音、子持御前などに参詣しながら竜王山へ登り始める。生憎と春の霞がかかっていて、周防灘の向こうに拡がるはずの九州の山々は見えなかったが、それでもなかなか良き眺め(写真上)ではある。


山頂近くの駐車場からさらに登って行くと、写真のような狼煙台を復元したものが説明板とともに建っていた。最初に造られたのは約1500年前の天智天皇の時代らしいのだが、狼煙は、当時では唯一の高速通信手段であった訳だ。また、朝鮮半島からの侵略への備えであったことから、その通信の可否が国の命運をも左右する重大な任務を帯びていたことになる。

山頂付近の公園を一通り散策した後、ゆるゆると海岸まで降りて行き、「きららビーチ焼野」なる海岸に着く。初めて来た海岸だが、こんなに綺麗に整備してあるとは知らなんだ。夏にはさぞや海水浴客で賑わうであろうが、今は散歩やジョギングをする人がちらほら程度だ。


海岸沿いの県道354号をそのまま北上するが、左手は工場街で右手はラブホ街という、まぁ面白い風景ではある。
やがて小野田漁協が見えてくるが、この辺りは刈屋浦・木戸浦と呼ばれた古くからの漁港で、また、舟木街道の終点でもあったようだ。民家は殆どが山側に建ててあり、尾道のように小さな急階段が延々と続く街並みだが、悲しいかな現代人は車が無いと生活ができなくなってきているので、このような昔ながらの街並みはやがて無くなっていくのだろうかネ。

それにしてもこれだけ高台に住居を建てているなら、少々の高潮や津波にも大丈夫なことが素人目にも分かるのだが、そう考えると昔の人は偉いなぁと思うと同時に、自然や災害に対して何と謙虚であることかとつくづく感じる。
現代人が中途半端な科学や知識を持ったことで、自然や災害を克服できると勘違いして尊大になり、その結果、「防災」優先に走ってしまったのとは、大きな違いがあるなぁ。石原都知事は個人的には嫌いだが、先の東日本大震災を「天罰」と言ったことも、支持はしないけど大外れとも言い切れないところが悔しいのだ。

中国電力小野田火力発電所の横を過ぎて、小野田線沿いに今度は北上する。南小野田駅を過ぎると地名が「セメント町」になり、この辺りが旧小野田セメント発祥の地であることが分かる。
今は太平洋セメント(株)に社名が変わったようだが、明治初期から大正時代まで使われた「徳利窯」を一度見ておきたかったので、立ち寄ってみた。工場正門の横から、見学用の専用歩道が整備してあり、案内板に沿って暫く歩くとやがて見事な釜が見えてくる。

この窯は、平成16年に国指定重要文化財となった産業遺産で、明治時代の殖産政策を如実に反映したものと言えるだろうか。案内板によれば、当時、7昼夜かかって約10トンのクリンカ(セメントの半製品)を製造できたそうな。現在では、1日で3000トンが製造できるそうだが、当時は貴重品かつ最先端の製品であったろうセメントを製造する職人達の意気込みさえ感じられる、堂々とした風貌だ。一見の価値ありぃ~。

南中川駅の手前から県道223号へ入り、日産通りを北上すると「硫酸町」と書かれたバス停が見えるが、恐らく国内でも、こんな物騒な名称の町も珍しいのではないだろうか………と思ったが、隣町の厚狭には「火薬町」なんてぇ更にアブナイ町名もあったなぁ。
以前から気にはなっていたのだが、どうして「硫酸」なのだろうかと思案しつつ有帆川にかかる小野田橋に差し掛かると、橋の手前の小さな広場でその秘密が解明された。

明治時代にこの地で硫酸を製造していた日本舎蜜製造会社(現在の日産化学工業株式会社)に因んで名づけられたようで、かっては、セメント町商店街とともに硫酸町商店街として小野田の中心地であり大いに栄えたようだが、今はその面影は見当たらない。
住居表示としての硫酸町の地名も既に消滅したようで、今ではバス停にのみその名を留めているみたいだ。
で、その製造した硫酸を出荷・運送するための容器として用いられたのが、有帆川のもう少し上流にある旦の皿山地区で作られた陶器の硫酸瓶(写真上)らしい。昭和初期に、市内には30近くの工場と登窯があって、年間百数十万個の硫酸瓶を製陶していたというからすごい。そう言えば、ここの少し南側の小野田労災病院近くに「須恵」という地名があるが、陶器の「すえ」と何か関係があるのかも知れないナ。
今でもここ皿山地区には、既に使われなくなったこの硫酸瓶を大量に並べて積んだ「瓶垣」が残っているそうで、次回は是非これも見に行くことにしよう。

後はそのまま県道を北上し、山陽小野田市役所の横を通って小野田駅までまた舞い戻ってきた。次回は舟木街道の続きで、小野田駅から船木を目指し、更に万倉、吉部、十文字、大田と辿る予定。

舟木街道(小野田⇒船木)へ続く