2014年11月29日(土)

前回、ガチガチにフェンスを作ったつもりだったが、その後変化が無いので、やっとタヌキも諦めたかと安心していたところ、今日見てみるとタイトル写真のように、見事に破られていた。
ここまでするには相当な力と知恵が必要な筈だが、タヌキの力をちょっと侮っていたようだ。

こうなると、これと同じような仕掛けでは、また同じ結果になりそうな気がしたので、今度は方針を大転換することにした。
ホームセンターを三軒ハシゴして、何かいいものは無いかと探してみたが、最後に目に止まったのが写真下の「のら猫よけ」だった。

つまり、ここを通ろうとすると、写真のような上向きの尖った部分がタヌキの肉球(・・・あるのか?)にチクッと当たり、思わずタヌキが『アイタッ・・・ヌキ』と叫ぶ筈なのだが。
さてこれで上手くいくかどうか、乞うご期待。

タヌキとオヤジの(タヌキオヤジ・・・ではない)長い戦いは、まだまだ続くのであろうか・・・

2014年10月16日(木)

アンテナアナライザーの製作が完了したので、まずは小手調べに市販アンテナの改造にチャレンジし、この測定器が実際にどれだけ役に立つのかを検証してみることにした。

ダイヤモンド社製のHF15CLなる、21MHz用センターローディングアンテナの上部エレメントを取り外して、ここにローディングコイルを更に追加することで、18MHzで使えるようにできないかという姑息(hi)な企みだ。
タイトル写真がローディングコイルを巻く部分で、決して横笛の出来損ないではないっ!
10mmΦで1mm厚のアルミパイプ、8mmΦのアルミ棒、それに10mmΦの木製棒を細工して、写真のように一本ものにした。材料は全て、いつものグッディ(ホームセンター)で揃うものばかりで、値段も皆百円単位のものなので知れている。

アルミパイプには、タイトル写真のように3mmの貫通穴を4個ずつ空ける。4個の内の中程の2個の穴は抜け防止と強度不足対応で、3mmのビスナットで貫通締めする。一番内よりの穴は、ここにラグ端子を共締めして、ローディングコイルの端を半田付けする。
両端からは、エレメントを挿入する3mmの穴を空けるのだが、ボール盤で作業すればそう難しいものでもない。4個の穴の内の一番外よりの穴は、4mmのタップネジを切り、両端に接続するエレメントの締め付け用に、4mmのビスを取り付ける。
ローディングコイルは、1.6mmのスズメッキ線を適当にスペース巻きして、上下で半田付け。巻き終えてから巻き数を数えてみると30Tだった。これらの出来上がりが、写真下だ。


まずはこの状態で、車に取り付けてアンテナアナライザーで共振周波数を測定してみると、最上部エレメントの長さが1mの状態で、何とほぼ18MHzに共振していることが分かったので、早速SWRを測定してみた。
当然のことながら、バンド内全てでSWR1.0という信じられない値に、オー・マイ・ゴォ~
試しに、わざと最上部エレメントを長いものや短いものに変えて、共振周波数が18MHzよりもずれていることをアンテナアナライザーで確認した後にSWRを測定してみると、やはり2や3の値を示すので、間違いないことも確認できた。
つまり、SWRを測定する前に、アンテナの状態がほぼ完璧に分かるというのが、このアンテナアナライザーのすごいところなのだと、当たり前のことだが確信できたのだ。作ってみて良かったぁ~。

外観はまぁこのままでもいいのだが、やはり見映えと耐久性を考えて、熱収縮チューブで全体を覆うことにして、15mmΦのチューブをグッディや他のホームセンターでも探してみたが見当たらず、これだけはネットで購入した。長さ1mものでも数百円で、これを装着すると、そこそこに性能のいいアンテナらしく見えてくるから不思議だゎ(写真下)。

写真の上部に見えるのは、アンテナアナライザーのダイヤル目盛りと共振周波数の対照グラフで、実測値をExcelの対数グラフに落としたもの。このグラフのお陰で、周波数カウンターが手元に無くても、凡その共振周波数がダイヤル目盛りから分かる。

いよいよこれを車に取り付けて、18MHzで電波を出してみた。国内外共に結構コンディションは良くて、沖縄(JS6TEY)、室蘭(JF8TMD)と快調に交信ができたことでつい頭に乗って、ギリシャ(SV3AQR)、東オーストラリア(VK9DLX)とも難なく交信を完了。
僅か2m余りの長さのこんなやっつけアンテナでも、そこそこ電波は飛んでいくものだと、満足感に浸ることができたのであります。

HF15CLの上部に取り付けると写真下のようになり、市販品と比べても(並べても)そう遜色の無い出来上がりではないかと、自画自賛・・・ハハハ。


18MHzへの改造が思ったよりも簡単にできてしまったので、次は、同じ手法でローディングコイルを更に太く(多く)して、14MHzや10MHzにもチャレンジしてみよう。

アマチュア無線に興味の無い方には、全く意味不明の記事でスンマッセン!!!

2014年9月30日(火)

久し振りに、モービルでアマチュア無線を再開しましたが、車載用の自作アンテナを作ってみたくなり、その手始めにまずは測定機とばかりに、アンテナ・アナライザーの製作に取り掛かったのであります。

ウン万円を工面すればメーカー製が手に入ることは分かっていますが、その中身は値段ほどの大したものでもないし、50Ωかそれとも60Ωなのかが問題になるほどにシビアな数値や精度は必要無いし、ざっと計算しても部品代は5千円程もあれば作れそうなので、作ってみることにした。

ケースの穴あけから始めて、一週間ばかりでタイトル写真のように出来上がり。
電池(単四ニッケル水素電池×4)は内蔵せずに、ボックスに入れてケースの背中に取り付けたので、写真のようにスマホより一回り小さなケース(タカチSW-120B)に納めることができた。・・・と言っても、ケースの中は各部品で結構ひしめき合ってて(写真下)、部品の向きや配置を決めるには、少々の手間がかかったのは確か。

写真の上部に見えるのが、フリーの回路図描画ソフトの「BSch3V」で作図した配線図だが、LTC-1799モジュールを使ったその筋ではよく知られた回路で、特に変わったことはしていない。
がしかし、これまた久し振りに、2.54mmピッチのユニバーサル基板に半田付けをしたのだが、夜間は目がよく見えないことが分かったので、この基板作成だけは昼間に行うはめになったのは、年のせいで仕方がない・・・ハハハ。

全体が出来上がれば、スイッチを入れればすぐに使えるので、試しに自作の50Ωダミーを写真のように取り付けて測定してみたが、下部右の青いツマミで抵抗分が、その左の少し大きいツマミでリアクタンス分ゼロの点が、簡単に探知できるのは、当たり前だが嬉しいもんだ。
発振周波数は右下のバーニアダイアル付き多回転ボリュームで設定するのだが、タイトル写真のような韓国製の安価なデジタルマルチメータで周波数を確認できるので、バーニアダイアルの目盛り数値を覚えておけば、実際のアンテナ測定時にはデジタルマルチメータは必要無い。
ニッケル水素電池を使ったことで電圧が安定しているからか、周波数の安定度も頗る良く、ウン万円のアメリカ製品のように、ちょくちょく周波数を微調整する必要も無いのは、ありがたい。

さぁ、これで次は、アンテナの自作にとりかかることにしよう。

で、何で「ドライザー壱号」なる命名をしたかと言えば、

そもそもが、アンテナ・アナライザーなのだが、正面から見てみると、何となく「どらえもん」のように見えた・・・ただそれだけのことで「ドライザー」にしたと言うことで。
余り芸が無くて、すんまっせぇ~ん    \(~o~)/

2014年8月3日(日)

前回が2011年だったから、三年ぶりに開催された「山口薪能」に奥さまと出かけてきた。
昼過ぎの三時頃までは下関で仕事があったので、仕事はさっさと片付けて、自宅には寄らずに野田神社へ直行した。季節がら、当然雨は承知の上で、チャリ通勤時代に揃えていた雨合羽を小脇に抱えての観能だ。
開演前(タイトル写真)も演能中も、パラパラと何度も小雨が落ちてきたが、いざそれぞれの演目が始まってみると雨も気にならないもので、やはり一流の演者には能舞台上からビンビンと伝わってくるものがあることが、良く分かる。

いきなり、粟谷明生師の舞囃子「敦盛」が始まる。「敦盛」と言えば、織田信長が桶狭間の戦いの前に謡い舞ったと多くの方が勘違いされているようだが、実はあれは能ではなく幸若舞の方で、題材は同じく「平敦盛」なのだが、能の「敦盛」では、どこにもあの有名な詞章は出てこない。
そう、「人間五十年、化天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、一度(ひとたび)生を亨け、滅せぬもののあるべきか」と、源氏の猛将熊谷直実が読んだ一節だ。

ことのついでに書いておく。一の谷の合戦で源氏に押されて敗走やむなしとなった平家一門だが、笛の名手でありながら愛用の笛を持ち出し忘れて退却船に乗り遅れた平敦盛は、通りがかった熊谷直実に一騎打ちを挑まれる。しかし、百戦錬磨の猛将に敵う筈もなく、ほどなく捕らえられてしまう。
直実がいざ首をはねようとして、僅か数え年16歳(!)の若武者である平敦盛と知り、刃先が一旦怯んでしまう。なぜなら、直実自身も、16歳の我が子を、この一の谷で亡くしているからだ。それでも心を鬼にして首をはねるが、これ以後、直実の心を苦しめることとなり、結局、翌年の屋島の戦いには参戦せずに出家して、世を儚むこととなる。
そこで直実が記したのが前述の一節だ。人の世の50年などという歳月は、仏世界では僅か一瞬のことであり、世上や人生なんぞがいかに儚いものかと悟ったのであろう。

で、舞囃子に戻るが、後シテの敦盛が一ノ谷の合戦の有様を物語り、熊谷直実に討たれた場面を再現する。粟谷明生師の謡と仕舞は、凛とした若武者を演ずるに余りある風情が絶妙で、法師となった直実に回向を頼んで終わる部分では、その無念さに秘めた悟りの境地を存分に演じていただいたと感じた。
しかし、能のことを余り知らない観客にとっては、能と舞囃子がどう違うのかが、よく理解できなかったのではないかと思う。パンフレットに、実行委員長の挨拶などは要らないから、この辺の解説を少しだけでも入れておくと、親切なんだがなぁ~。主催者側主体でなく、もう少し観客側主体で考えて欲しいもんだ。
もっと言えば、挨拶に名を借りた、市長の売名行為も止めて欲しいゎ。大人しく末席で観能していれば尊敬するのだが、こう出しゃばってしまうと山口市民として恥ずかしいことこのうえないし、興醒めも甚だしぃ。

で、気を取り直して、続いて仕舞が二番。粟谷幸雄師の「高砂」と、友枝昭世師の「天鼓」だ。
粟谷幸雄師は、既にかなりのご高齢(確か80歳超え?)の筈だが、舞台上ではその年齢を感じさせないキリッとした佇まいは、流石だ。自分がその齢になった時に、こうできるかと言えば、全くもって自信が無いのがお恥ずかしい。
そして言うまでもなく、今日の一番のお目当てである友枝昭世師の仕舞をようやく目にすることができたのだ。もうこれは、言葉にするのが憚られるくらい見事な仕舞で、僅か10分程度の短い演目であっても、全身全霊で舞っておられるのがひしひしと伝わってくる。足運びや腕の振りはまるで風に舞う如く、そして、ぴたっと止まった時の「静」の美しさと端麗さ。永く厳しい稽古に支えられた超一流の演者だけが持つ雰囲気には、いつも圧倒される。
EXILEダンスやヨサコイ踊りもいいけど、600年かけて培ってきた、日本人が本来持っているこういう本質的な身体表現による芸術を、もっと見直してもいいと思うなぁ。

続いて、今日の観客の半分近くを占める比較的若い年齢層の女性客お目当ての、野村萬斎師による「蚊相撲」だ。揚幕が上がって萬斎師が橋掛かりに出た途端に、大きな拍手。そして、本舞台の正先で正面を向いたところで、また大きな拍手。これは、関東で何度も萬斎師の舞台を見させていただいた際には決して見られなかった、面白い光景だった。
ま、山口の田舎ですからご愛敬ということでいいのかなぁ・・・とは思うが、拍手を貰った萬斎師も、『えぇっ?ここで拍手?』と、さぞや戸惑ったのではなかろうか。それとも、最近はこういうのが当たり前になってきてるのかな?

10分間の休憩を挟んで、本日のトリは粟谷能夫師による「羽衣」だ。よく知られている三保の松原における天女伝説が題材だが、ストーリーの簡潔さと天女衣装の豪華さ、そして、序ノ舞から破ノ舞にいたる艶やかな舞いと囃子方との駆け引きなど、見どころは多い演目だ。
ただ今回は、ワキツレがいないことから、序盤のワキとワキツレによる三保の松原の長閑で美しい情景描写が省略されたのは、ちょいと残念。また、天女の衣は、舞台正先に置かれた松の作り物にではなく、一の松辺りの橋掛かりの欄干に掛けられた演出であったのも、私としてはちょいと不満であった。
とは言え、シテの粟谷能夫師は、おいらと同年とは思えない伸びのある謡と貫録さえ漂わせる流麗な仕舞はやはり見ていて気持ちがいい。また、「敦盛」の時には音が今少し伸びきっていなかった三王清師の大鼓は、ここでは本来の味わい深い音色に変わっていた。
更に、友枝明世師を地頭とする、洗練されかつ大迫力の地謡は、やはり喜多流ならではの武家式楽的アンサンブル(なんじゃソレ?)を存分に味わえる。

とまぁ、小雨にあたりながらも無事に全ての演目を鑑賞した訳だが、前回も指摘したように、PAのセッティングは相変わらずお粗末だった。今回は特に、野外でありながら風の影響を考慮していないという不手際で、ビュービューと吹きすさぶ風の音が、演者の声をかき消してしまうほどの大きさでスピーカーから聞こえるという有様。こんなPAなら、いっそ無い方がはるかにいいのだがネ・・・。
更に、前回同様、マイクを舞台上に設置したために、演者の足音や踵を返す音が、不必要なまでに強調されるという具合で、もう少し能のことを理解しているPA業者に依頼して欲しいもんだとつくづく思った。次回は頼みますヨッ!!!

2014年6月26日(木)

一か月位前から、タヌキが床下に潜り込んできて、夜な夜なゴソゴソしまくってて奥さまの安眠を妨害しているみたい。
で、床下に潜り込めないように網を取り付けたのだが、一週間後に見てみたら、見事に破られていた(タイトル写真)。

タヌキって、結構力があって器用なんだということが分かったので、今度は木の棒で補強をして(写真下)、ちょっとやそっとでは潜り込めないようにしてみた。


果たして効果や如何に。
タヌキとオジサンの、「知恵くらべ」または「根くらべ」の様相を呈して参りました。
皆さま、乞うご期待!!!

2014年6月19日(木)

車で無線を再開するにあたって、電源の取り出しの次に難儀をしたのが、(高周波的)アースだ。50MHzや144MHz以上の周波数なら、ノンラジアルのアンテナを使うことでアースは特に必要ないのだが、28MHz以下のHF帯では波長が長くなるのでどうしても短縮型の1/4波長アンテナになることから、(高周波的)アースが必須になるはず・・・理屈では。

ダイヤモンド社製のHF15CLなるセンターローディングのアンテナを入手して、まずはアンテナ基台部分のお手製ルーフキャリアを、30cm程度(構造上これ以上短くできない)のリード線でリアドアから車体アースに落としてやってみたが、これが大失敗。
基台と車体間は、直流的にはしっかりと、限りなくゼロΩになっているのが確認できているのだが、SWR値は2以上となって使い物にならない状態。
カーオーディオやエンジンのボンディングなら、これ(直流抵抗≒ゼロΩ)で何も問題ないのだが、無線(高周波)の場合はそう簡単に問屋が卸してくれない。

ならば、高周波的なアースの出番ということで、できるだけ大きな銅板は無いかといつものグッデイ(ホームセンター)で探してみると、350mm×600mm×0.1mmの、それも接着剤付きのものがあったので、これに編組線を圧着端子にカシメた上で半田付けすることにした(タイトル写真)。
銅板への半田付け部分は写真下のとおりで、編組線も気休めながらヒシチューブで防水もどきにしてみた。ま、3年くらい持てばいいか、程度のノリだ。


このまま車のルーフに張り付けると、銅板のキンキラキンがあまりに派手に目立つので、車体と同系色に塗装してカムフラージュ(笑)を図ることにした(写真下)。


いよいよこれをルーフに張り付けてみる(写真下)。0.1mmという薄さで、かつ、両面テープではなくて銅板自体に接着剤が塗布してあるので、ルーフにピッタリと張り付くのはなかなかグッドである。銅板の面積や密着度から計算しても、車体との間でかなりの静電容量を稼いでいるのが、見ただけで分かる。
編組線の端子を基台部分に共締めして、これでようやく完成ぃ~。


車のフロント側から眺めると、こんな感じ(写真下)。後方に見えるのは、144/430MHzのノンラジアルホイップアンテナだ。


早速、無線機内蔵のSWR計で値を確認してみた(写真下)。21.200MHzを中心周波数として50kHzステップでプロットしてみると、ナントッ!!!、バンド内が1.2以下という、あまりに出来すぎの結果となった。


無線機内蔵のSWR計の指示値が実際より多少甘い気はするけども、アンテナの先端側エレメントを、あと1cmか2cm切断すれば、更に良くなることがこのグラフ数値で分かる。
まぁでも、多少の手間がかかっても、セオリーどおりにやればちゃんとそれなりの結果が出るということは、当たり前だが嬉しいことではあります。

自宅近辺で、車の中から交信をするのもちょいと小っ恥ずかしいので、近くのきらら浜(山口市阿知須)まで出かけて、プチ移動運用をしてみた。
今日は、Eスポによる良好な国内コンディションにも助けられて、僅か1時間半の運用で九州から北海道まで全てのエリアの局とフツーに交信できたのには、自分でもチョー吃驚。
図に乗って、21.300kHz付近をワッチすると、DU(フィリピン)とYB(インドネシア)が聞こえていたのでパイルアップに参加してみたが、流石にこれは応答が無かった・・・アタリマエカ。

ま、当初の目的は100%達成したので、今日はこれでよしとしよう。

2014年6月8日(日)
次女からお下がりの車が、日産モコからキックスに替わったのを機に、ルーフにアンテナを立てる算段を試みてみた(タイトル写真)。
写真のように、ルーフキャリア用のレールに、横に三本ほどアルミのアングルを渡し、縦にもう一本のアルミアングルをUボルトで共締めして、これにアンテナ基台を取り付けてみた。
因みにこれらの材料は、すべてグッデイ(ホームセンター)で揃うものばかり。アングルの端に嵌めこんであるのは、椅子用のゴム足・・・ハハハ。
取り敢えず、144/430のノンラジアルアンテナを取り付けてみたが、見た目もそこそこ決まっているし、電波の飛びも非常によろしい。SWR値も当然ながら完璧。
ノンラジアル型のアンテナならこのままでもいいのだが、4分の1波長の接地型アンテナの場合は車体への良好なアース接続が必須なので、HF帯の運用は別途対応を考えよう。

で、アンテナ設置作業は割と簡単に済んだのだが、難儀をしたのが電源の取り出しだ(写真下)。

昔の・・・と言っても30年40年前の車だと、エンジンルームと車室内との間に、いくらでも簡単に電源コードを通すことができていたのだが、最近の車では防音や防振対策などで、なかなかこれが素人では難しい。一応プロの意見も聞いてみようと思ってディーラーに行ってみたが、『コードを通せるところは無いですねぇ』の一言で終わりだった。
ま、期待はしていなかったのでいいのだが、そこから悪戦苦闘が始まった。
エンジンルームのいろいろな部分に手を差し込んだり覗き込んだり、車体の下に潜り込んだりもしてみたが、細いコードならまだしも、30Aのヒューズが取り付けられた4SQのコードとなると、なかなか見つからない。
こりゃぁ、車室内のイグニッションキーかヒューズボックスから分岐するしかないかなと諦めかけたところで、一晩頭を冷やして翌日再チャレンジ。
エンジンルームの車室側ばかりを見ていたので、今度は違う角度から見てみようと思って、まずはバッテリーの周辺を見渡すと、バッテリーのすぐ左側ボディの側面に穴があいているのを発見(写真の左下)。まさか、と思って運転席側ドアを開けてドアヒンジの奥を眺めてみると、前方に向かって隙間があるではないですか。
『これだっ!!!』と確信して固めのワイヤを先に通してみると、見事にこの穴の部分に突き当たることが分かり、無事に電源コードを通すことができて、写真のようにバッテリー直結の電源を取り出せたのだ・・・フゥ。

ここまでくればもう完成したも同然。あとはリグのコントロール部を車室内のグローブボックスに取り付けて(写真下)、制御ケーブルをシート下の無線機本体と接続すれば、見事にモービル局の出来上がりでござる。

行きつけ(笑)のゲーセンから、我が愛車においでになったブラウン君も、なぜか嬉しそうであるナ・・・ハハハ

写真の、コントーロール部を取り付けたグローブボックスは奥側がへこんでいるので、ここを平らにするために100円ショップで探してきたのが、小型のブックエンドだ。
これがちょうどピッタリで、マジックテープで奥側を固定して、更にこのブックエンドとコントロール部とを同じくマジックテープで固定して、カッチリと据え付けた。
ブックエンドの頭がちょっとだけ見えるのが、ピンク色の「I ❤ HELLO KITTY」だが、これはご愛敬・・・と言うことで。

2014年5月21日(水)

雨も上がったし、平日だし、午後1時頃なら多分空いているだろうと推測して、出かけました。
・・・が、さにあらず。やはり大人気のようで、入り口の行列こそ無かったものの、会場は多くの客て賑わっておりました。
まぁ、それでもニュースでやってたような大混雑ではなかったので、じっくり時間をかけさえすれば、一つ一つの銘品をたっぷりと鑑賞することができました。

有名ドコロの菱川師宣、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳などはもちろん、それ以外の絵師も含む高名で秀逸な作品ばかりを、よくもこれだけ一堂に会することができたと感心してしまう、圧巻の展示です。
出展元をざっと見ても、国内の主要な美術館・博物館は言うに及ばず、大英博物館、ギメ東洋美術館(パリ)、ベルリン国立アジア美術館、ホノルル美術館などから、海外に流出した逸品までもがこれだけ揃っているのは、なかなか見応えがあります。
展示品が多すぎて(全439点)一度には展示できないみたいで、週替りで少しづつ入れ替えをしているようです。従って、今回の全作品を見ようと思えば、二ヶ月の期間中に最低4回は行く必要があるみたいです。
つまり、二週間おきに行けばいいってこと・・・カンタンニ言エバ

展示は、ほぼ時代順によく整理してあり、浮世絵の創成期から発展期、そして円熟期から明治時代に入ってからの転換期までもが、とても理解しやすく展示してあります。
多分、これだけの多くの作品を一度に展示することができたことによって、時代の流れによる浮世絵の変化も浮き彫りにすることができたのだと思います。これが、有名ドコロの作品だけを展示したのでは、こう上手くはいかなかったことでしょう。

行かれる方は私のように、直前にローソン(セブン・イレブンでもいいけど)に立ち寄って前売券をお買い求めになると、200円浮きます(写真下)。

2014年4月29日(火)

あの事故から既に二週間が経とうとしているが、行方不明者が未だに100名近くいることに、私だけでなく多くの方がとても切なく感じていると思う。そして、その多くが高校生ということも、より一層悲しみを増幅させてしまう。

ただ、これまでのマスコミの報道やネットの情報を見た限りで書かせていただくなら、起こるべくして起こった「人災」であると言わざるをえないことが、悲しいけど現実のような気がする。
私自身、元船乗りという立場から、一般の方からとは少し違った目線で、この事故を振り返ってみます(順不同)。

1.船首の腹(下部)を上にして、仰向けに転覆・沈没していった画像

まず、この画像がテレビから流れた時に、とても違和感を覚えました。小型船と違って、大型船が転覆する際に、あの様に船首の腹を上にすることは、通常はありえないはずだからです。
大型船では通常、船体の下部には、燃料・清水(飲料水)・バラストの三種類のタンクがあり、それぞれが何層かの隔壁に分けられて、その量を細かく調節できるようになっています。
仁川出港時には、燃料と清水は当然満タン状態であったはずですが、報道されているように過積載であったとすれば、バラストタンクをほぼ空の状態近くにしないと喫水が深くなり過ぎて(船が沈み過ぎて)、港長から出港許可を得られません。
ぎりぎりの喫水で出港したであろうと推測できますが、仁川出港から半日を過ぎて、燃料や清水が減ってくるので、本来ならバラストタンクに海水を入れて船体の安定を図るはずで、通常は船内では「一等航海士」がきめ細かくこれらを管理します。ところが、この画像です。私には、バラストタンクが空のままで航行を続けていたとしか思えませんし、それならば、この画像が納得いきます。
と言っても、一等航海士が単独で、バラスト水を不法に操作して喫水を誤魔化したとは考えにくいので、船長も当然知っているし、仁川港の港湾管理者、荷主、船主などの関係部署の人々も一様に知っていたはずです。
・・・それは、(日常的な)違法運航だと言うことを。

2.韓国船員の一般的な「質」について
仁川と釜山、蔚山に何度も入出港した経験から言いますと、港が近づいて更に港内に入ってから、陸上との通信手段としてVHFの無線を使うのですが、通常の呼び出し連絡及び緊急時の聴取チャンネルである16chで、韓国語の長々とした私語通話は当たり前で、中には口笛を吹いたり挙句には音楽を流したりと、全くの無法地帯化しているのにはほとほと閉口します。
日本では勿論、他の国でも滅多に遭遇しないこのような状況がなぜ起こるのか、当時はあまり深刻に考えませんでしたが、今改めて思えば、船員を含む海運業界関係者において、海上の人名の安全に対する意識が根本から違うのではないかと感じています。
その一端としてネットからの情報ですが、韓国の兵役法第8章(兵役義務の延期及び減免)第65条(兵役処分変更等)の⑤には、三年間船員として従事すると兵役を免除することが書かれてあり、兵役逃れのために不本意ながら船員になっている者がいることが、充分に想像できます。
勿論それだけが原因だとは思いませんが、実際に、韓国船員が乗り組む船舶の事故率が異常に高いという公式の文書が、ネットで検索すればわんさと出てくるので驚きます。
韓国国内の池や川を運行するだけの船なら勝手ですが、外洋に出る船舶に、もし兵役逃れを理由に船員になった乗組員が乗船していたとすると、乗船している乗員・乗客だけでなく、他国の船舶にも影響をおよぼす重大なことだと、私は思います。とても、韓国の「内部事情」で片付けられることではないでしょう。

3.膨張式救命筏(いかだ)はなぜ投下されなかったか

これは韓国海洋警察の巡視艇が最初に到着した時の画像と言われているものですが、デッキ上に見える白いカプセル型のものが救命筏で、消火栓と同様に、ピンを外してレバーを引くだけでカプセルが洋上に投下され、洋上で直ちに膨らんで安全な筏に変身する仕掛けになっています。
外洋を航行する客船では、画像のように船が傾いた時を想定して、「片舷だけで」救命筏と救命ボートを合わせて乗船可能な定員分が装備されることになっています。つまり、両舷合わせれば乗船定員の二倍分ある訳です。
画像のように、ここまで船が傾くと救命ボートはもう降ろせませんから、後は救命筏が唯一の避難手段になります。この画像のタイプの救命筏だと定員は10名程度で、14基装備されていますからこれだけでも140名分の避難が可能です。画像のような海上の状態(ほとんど波が立っていない)ならば、最悪1基に15名程度が乗り組んでも、じっとしていれば大丈夫ですから、約200名分収容できることになります。
しかし、この画像をよく見ると不思議なことに気が付きます。画像の中程に乗組員らしき一人が救命筏のレバー付近を操作しています。そして、その下の海上には、投下したと思しき救命筏が2基浮かんでいますが、膨らんでいないので筏として役に立っていません。これはどういうことなのでしょうか。
そもそもの話ですが、多くの一般乗客がいることを考えれば、ここまで傾く前に救命ボートや救命筏を海上に降ろしておくのが通常で、仮にごく短時間で傾いたとしても、その間に少なくとも全ての救命筏を投下することは可能で、また何よりも最優先されるべきです。
つまり、「船室に留まれ」ではなく「デッキ上に出なさい」の指示を乗客に出して、直ちに救命筏を洋上に投下すれば、これほどの大惨事にはならなかった可能性は非常に高いと考えます。ところがこの画像の状況なんですね。
今回の事故の状況では、救命筏はあまり役に立たなかったかもしれませんが、それにしても疑問は一杯あります。
 ①救命筏を投下しようとした乗組員は、たった一人だったのか?
 ②例え一人でも、14基の救命筏を迅速に投下することは可能なのに、なぜそれができていないのか?
 ③投下の努力はしたが、投下できなかった何か別の理由があったのか?
 ④投下に成功した2基の救命筏は、なぜ膨らまなかったのか?
 ⑤購入後の増築・改造で定員が100人以上増えたが、それに見合った救命設備は整っていたのか?

4.船底にいた機関部乗組員は救助されたのに・・・(下図は単なる参考です)

一般乗客よりもはるかに低い(深い)階層で勤務している機関部乗組員の全員が救助されたと聞いて、「おや?」と思ったのは私だけでしょうか。
事故直後、主エンジンは停止したようですがそれから一時間程度は船内の電気が活きていたことから、発電機はまだ動いていたと考えられます。となれば、船内では発電機は「二等機関士」の管轄ですし、その指示の下に機関部員が、発電機を止めないようにギリギリまで必死の対応をする・・・はずです。
なのに、その職場を放棄して(多分)、さっさと救助船に乗り移ったと言うことは、どういうことでしょう。
考えられるのは、仁川出港以来、機関部乗組員は、燃料・清水・バラストなどの状態から船の安定性(復原性)に何かしらの不安を抱いていたということではないでしょうか。
船が傾斜を始めた際に、船長から退船の指示があったかどうかは分かりませんが、例え退船指示が出なくても船がもう危機的な状態であることは、機関部乗組員だからこそ分かることもあるはずです。
当然、機関部乗組員は、救命筏を投下するなどの保安業務は義務的業務ではありませんから、さっさと救助される側に回る訳で、これを責めることは難しいでしょう。
でも、多くの乗客がまだ船内にいることも、多分知らずに・・・

5.船齢18年のフェリーなら、本来は廃船でスクラップになってもいいのですが
貨物船なら船齢20年を越えても現役で運行していますが、客船やフェリーとなると、競争相手や船客の評判などから概ね船齢20年程度で廃船となり、後はスクラップ(鉄くず)になるのが通常です。
2012年10月に売却した元船主の日本のマルエーフェリーもまさか、約11億円余りという低価格で売却したスクラップ寸前の船に、3億円もかけて増築改造し、それを実際に運航するとは思っていなかったでしょう。
横浜の氷川丸のように、港内に係留して水上ホテルとして使う、なんていうのならアリですが。

6.パンツ姿で救助船に乗り移った船長・・・ヲイヲイ
事故時に、船長が操舵室を離れて船長の自室にいたこと自体は、まぁあり得るかも・・として。
と言っても、当該海域の潮流、島の間を縫う航路、当直は経験の少ない三等航海士、などという状況を考えれば、日本人船長なら操舵室を離れることは有り得ないのは断言できます。
ただ、私が気になるのは、船長が救助船に乗り移った時にパンツ姿だったということです。これはどう判断すればいいのでしょうか。なぜなら、例え事故時に自室にいたとしても、事故の状況を感じて直ちに着替えて操舵室に向かうはずです。どう間違っても、パンツ姿のままで操舵室へ入ることはありませんから。
報道では、事故直後から船長は、船主と電話のやりとりを何度もしていたとのことです。ということは、事故が起きても船長は操舵室へ向かわず、自室で電話の対応に忙殺されていたことが容易に想像できます。
それなら、パンツ姿のままで救助船に乗り移った状況も納得がいくのです。勿論、その行動に納得する訳はありませんが。

とまぁ、取り敢えず思い付くだけでも、これだけいろいろ不思議なことがあるのですが、韓国だからとか、日本だったらとか決めつけてしまうのもいくらか気が引けます。
日本でも、腐敗しきった産官学の「原子力ムラ」然り、杜撰過ぎる安全管理のJR北海道然り、我々の国だって状況は多少違っても、人命を軽んじていることには、大きな差は無いように思います。
決して「対岸の火事」と見てはいけないことを、肝に銘じるべきだと思います。

☆☆☆続報☆☆☆
今日(5月4日)の各社の報道によれば、上記3.で書いた救命筏のほぼ全てが使用不能だったようで、そのことを船長以下乗組員は知っていたようです。
これで、乗客に対して「船室に留まれ」と指示した理由やその他の謎が解けました。つまり、「デッキ上に出なさい」と指示しても、避難する救命筏がそもそも使えなかったのです・・・嗚呼
船長の責任は当然重大ですが、それ以前に、今年2月に韓国の船舶安全検査に合格していたことの方が、より事態は深刻なのではないでしょうか。
救命筏が使えるかどうかなんぞは、検査官なら一目見ただけで判別できますから、見落としは考えられません。ならば、使えないことが分かっていながら、検査機関が検査を「合格」としたことになり、船主(運航会社)側との間で何らかの癒着があったと見られても仕方がありません。
検査機関も船主も、乗客の人命なんぞは全く無視したことになってしまいます。
この記事の最初に書いたように、文字通り「人災」であった可能性が益々濃くなってきたことは本当に悲しいことですし、船員だけでなく社会の根の深いところまでの原因究明が必要でしょう。

2014年3月19日(水)

久し振りに、長編のノンフィクションを購入してみた。船橋洋一氏の著作である「カウントダウン・メルトダウン」だ。書名で分かるように、福島第一原発事故をめぐる政府・東電・その他関係機関の事故対応を振り返りながら、綿密かつ詳細な取材に基づく、克明な記録である。
序章から終章まで、全部で23章にも及ぶ大作だが、あの日も、そしてそれ以後も、マスメディアでは国民に知らされなかった「重大な真相」の余りに多いことに、ただただ愕然とするばかり。

今回の事故では、ほんの一つでも対応を間違えば、少なくとも日本の半分は滅びたかも知れないことを考えれば、日本の歴史に残る大事件であったことは間違いない。
つまり、元寇襲来の文永の役・弘安の役、幕末の欧米連合艦隊襲来、日清・日露戦争、そして太平洋戦争と並ぶ、日本という国が存続できるかどうかの大きな瀬戸際の一つだったことが、この本を読んでみることで改めて実感できる。
尤も、前四つはその全てが外国からの圧力による危機であったのに比べ、今回の危機は国内の問題で、大震災の驚異だけでなく、政治・行政・電力業界・学会などの癒着や腐敗がその根本原因だから、余計に根が深くてかつ深刻なのは、もう国民も気が付いていると思う。
単純に、『原発はんたぁ~い』と叫ぶだけでは、問題は何も解決しないのも明白だ。

本の内容をあまり詳しく書いてしまうと差し障りがあるかも知れないので控えるが、例えば、前半の序章から第2章までというほんの一部分だけでも、私もそして多くの人が知らなかった次のような「重大な真相」が見えてくるのだ。

★事故直後に、東電・協力会社社員・自衛隊・消防・警察などが命を懸けて死に物狂いで危機対応に奮闘しているさなかに、原子力安全保安院の保安検査官が、現場から真っ先に退避(逃避)した。このことは、職業倫理と使命感を著しく欠いた明らかな「敵前逃亡」であるにもかかわらず、それを許可した上層部も含めて、未だに誰も処罰されていない。
米NRC(原子力規制委員会)からは、『米国なら、即刻クビだ』と厳しく指摘されている。

★事故直後から約一週間程度は、現地と現地以外とを結ぶ通信手段は、東電社内のテレビ会議システム以外は全て不通となり、唯一、衛星回線を使った電話のみがかろうじて使用できた。従って、政府や行政機関への情報は、そのほとんどが東電経由とならざるを得なかった。つまり、政府・行政においては、重大危機にあたっての通信手段確保は全くできていなかった。

★3月12日午後の1号機水素爆発は、現地も政府も、何が起こったのかが分からず、福島中央テレビの望遠映像からそれを推測するしかないという、情けない状態であった。

★自衛隊員は、入隊する際に全員が、「日本国民の為に命を捧げる」という宣誓をしている。今回の事故対応にあたっても、文字通り最前線で決死の注水作業などを行い、仮に最悪撤収する際にも最後尾にあたるべく指示を出していた。
参考:「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います」‥服務の宣誓

★事故半年前の平成22年10月に、政府主催の「原子力総合防災訓練」を実施している。浜岡原発3号機において、冷却機能喪失で放射性物質が外部に放出される事態を想定した訓練だが、状況は福島と同じなのに、福島の事故に対しては全く役に立たないおざなりで「形骸化」した訓練だった。
但し、訓練後の反省会で、「電源が回復しなかったらどうするのか、その場合、住民避難はどうするのか」などの意見も出たが、保安院が「それは、地域に不安を与える(つまり、原子力推進がやりにくくなる)ので、言えない」と制してそれまでとなった。・・・でも、危機の際は真っ先に逃亡するのが保安院

★事故当日の午後7時に「原子力緊急事態宣言」が公布され、枝野官房長官がそれを記者会見で発表し、民主党政府の総力を挙げて緊急事態に対応していると思っていたが、枝野はテレビで繰り返し放送される東京の帰宅難民(推定650万人)ばかりを気にしていた。
細野首相補佐官から、「帰宅難民は一晩放っておいても死なない、今の危機は東京よりも福島だ」と諭された。

★電源の回復には、電源車の配備が最も有効だが、ヘリでの空輸ができないため陸路をパトカーの先導で駆けつけた。しかし時遅く、既に空間放射線量が上昇していたため原発現場には入れなかった。他方、九州電力と自衛隊は過去に電源車空輸の訓練を行い、実際に奄美大島の集中豪雨の際にヘリで搬送したが、東京電力とはその訓練をしていなかったのが、空輸できなかった原因。

★それでも何とか、現場近くに30台もの電源車が駆けつけたが、今度は接続のケーブルや変圧器が大量に必要なことが分かり、電源車を待機させたまま、今度はそれらの手配に奔走するはめになった。原子力発電所には、そもそもそんなものは配備していないことがこの時点で分かった。

★事故当日夜に、保安院の中村審議官が「炉心溶融(メルトダウン)が進んでいる可能性がある」と記者会見で発言した(状況としては事実)。官邸はその報告を聞いていなかったことから激怒し、事前連絡の徹底を保安院に厳命した。その後、保安院の広報役は、中村→野口→根井→西山と目まぐるしく交代し、その結果、保安院だけでなく関連各省庁全てが、官邸への事前連絡に多くの手間暇をかけざるを得ないような状況(情報の遅滞)になってしまった。
 

今回の事故を単なる歴史の一ページとして捉えるのではなく、事故から学ぶべき教訓は何なのか、そして、未来の子孫の為に大人がこれから何をすべきかを、日本国民皆で考える必要があると思います。
別にこの本に囚われることはないのですが、この事故のある程度の真実を国民全員で正しく共有するのは、日本人としての義務でもあると思っています。
是非、皆様もご一読されることをお薦めします。