
2011年4月23日(土)
春真っ盛りだ。春の香しさに釣られて自宅近くの野辺を散策してみたが、あちこちで多くの花たちがその艶やかさを競っているように感じる。
やはり、春はいいなぁ~~~
で、菜の花と蓮華以外は名前を知らない花ばかり、ご存じの方は教えてくらはい。





2011年4月23日(土)
春真っ盛りだ。春の香しさに釣られて自宅近くの野辺を散策してみたが、あちこちで多くの花たちがその艶やかさを競っているように感じる。
やはり、春はいいなぁ~~~
で、菜の花と蓮華以外は名前を知らない花ばかり、ご存じの方は教えてくらはい。





2011年4月17日(日)
シンフォニア岩国(下写真)で村治佳織さんのリサイタルがあったので、行ってきた。
ここのホールはとても音がいいとの評判を以前から聞いていたので、村治さんの演奏と共に楽しみにして行ったが、期待に違わず、チョー感動もののコンサートだった。

二部構成で、前半の約1時間が村治さんのギターソロ演奏、後半がスペインのソプラノ歌手ソレダ・カルドソさんとのデュオ演奏というプログラムだ。
スペインの作曲家による作品が中心で、村治さんの艶やかなのに情熱的な演奏が、とても心地良く響く。オイラ自身はかれこれ30年位前の若かりし頃にバルセロナ港に立ち寄ったことしかなくて、何となく埃っぽい感じの空気感を僅かに記憶しているだけなのだが、あたかもそれを思い起こさせてくれるようだ。
演奏曲目の中でも圧巻はやはり「アストゥリアス」で、正確無比な運指と共に、アルペジオ・トレモロ・セーハ・コードストローク(ラスゲアード)などを華麗に織り交ぜながら、流れるようなベースとメロディラインが心地良く響いてくる。
色々な演奏家のアストゥリアスを過去に聞いていたつもりだが、この日の村治さんの演奏がダントツにやはり素晴らしく、オイラの胸の奥深くにまでギターの音色が染み込んでくる気がする。
一部の最後には、プログラムには無い「アルハンブラ宮殿の想い出」も演奏してくれ、村治佳織ワールドにドップリと填ってしまったのだった。
演奏の合間にちょっと挟むMCがこれまたセクシーで、この人はギター演奏だけでなくて声を使った仕事も向いているのでは…と思ったら、やはりナレーションの分野でも最近は結構ご活躍のようだった。
しかし、流れるようでかつ力強い演奏といい、セクシーな声といい、そしてあの美貌・容姿といい、天は気まぐれに二物も三物も与えることがあるのだなぁと、つくづく思ってしまったノラ。

2011年4月8日(金)
今日は夕方から、職場の転入者歓迎会が湯田温泉であるので、昼過ぎに先に山口市内まで出かけてみた。生憎の雨模様ではあったが、小雨に濡れる桜もまた一興とばかり、まずはタイトル写真のように木戸神社へ向かった。
木戸神社は名前の通り、木戸孝允(桂小五郎)を祀った社だが、明治10年に京都で病没する前に、この地にあった本宅や山林などを地域に寄贈し、この地の子弟育英の資とするよう臨終の際に言い残したそうな。このことに、地域の人々が大いに感謝して建立したのがこの神社らしい。
実際に、当時の糸米村五十余戸の子弟の学費として使われたそうなのだが、遙か何十年も先を見据えて、私欲ではなく有効に財産を使うことのできる先人がこんなに身近にいるのに、その足元にすら及ばない我が身を恥じるしかないなぁ~

と、木戸公に恐縮しつつ国道9号沿いに県庁方向へ歩を進め、普門寺に立ち寄った後で旧県会議事堂周辺の桜を楽しみ、サビエル公園に向かった。ついでに頂上の亀山公園まで上がり、北側の降り口を下って一旦パークロードへ出たが、雨の日の噴水も、それなりに風情があるものだ。
この噴水の周囲(写真の右下)に説明板があることに初めて気が付いたのだが、ここの亀山の謂われと面白い伝説が書いてあった。

で、いよいよ本日メインの一の坂川沿いに出てみると、ほぼ満開模様の艶やかな桜並木に出会える。写真のように河原に降りたってみて、川面から見上げる桜の枝も、また一段と綺麗だ。

また、途中に架かる橋の中程から川面を見下ろすように眺める桜も、これまた品がある。

金曜日だからか或いは小雨だからか、人出も少なくて、ゆっくりと自分のペースで満開の桜を愛でることができるのが、何よりも殊の外嬉しい。地震・津波そして原発被災地の方々には大変申し訳ないことだが、満開の桜を楽しむことのできる小さな幸せを、柄にもなく噛み締めてみる。 ゥン、ホントニ柄でもない………ッテ、ヲイヲイ
米屋町から道場門前へと歩を進めて行くと、安部橋のすぐ手前左手に本國寺の参道が見える。写真のように、小振りのしだれ桜が参道を覆うように綺麗に咲き乱れていたので、ちょっとだけ参道を往き来してみた。

後は、そのまま旧石州街道を辿って湯田温泉へ戻り、歓迎会の会場へは2時間位早く到着したので、ゆっくりと温泉に浸かることにした。いつもの半分位か、3時間余りのプチウォーキングで19,066歩であった。

2011年4月2日(土)
山口市内で所用を済ませてから何とはなしに萩へ行ってみたくなり、そのままマイカーで萩へ向かった。
特に何処へ行こうという当てがあった訳ではなくて、萩市内に入ってから決めようと思っていたら、「萩城跡」の案内標識が見えたので、まずはこちらへ向かった。
この名称だが、以前は確か「萩城址(はぎじょうし)」と言っていたように記憶しているのだが、案内標識をよく見ると、「萩城跡(はぎじょうせき)」と書いてある。大して違いは無いのかも知れないが、どっちが正しいのだろうかネ…、誰か知っていたら教えてくらはい。
ユースホステル側の観光センターに駐車し、毛利輝元公の銅像に迎えられて内堀前で入場券を買い、城内に入る。
天守閣跡周辺の桜を愛でながら散策していると、指月山(しづきやま)の「山頂まで730m」の案内板が見えたので、そう言えば何度も萩には来ているのに指月山に登ったことがないのに気がついて、登ってみることにした。

たかが730mだから…と高を括って登り始めたが、次第に坂道や階段の傾斜がきつくなり、途中で二回ほど小休止しながら登っていくはめになったので、結局30分位かかってしまった。
それでも、山頂からの眺めはなかなかのもので、写真のように本丸の東端からは、橋本川と市内を一望できる。

山頂でゆっくりと下界の景色を楽しんでから下山し、城内の志都岐山神社・福原家書院・東園などを続いて散策する。
しかし相変わらず、この可憐な桜の木の下で、無神経に焼肉・バーベキューなんぞをやらかしている輩がいることには、がっかりした。桜の色香を静かに楽しんでいる人達に向かって、どうして平気で焼肉の臭いを撒き散らすことができるのか、全く理解に苦しむ。
古来から日本人なる民族は、「香り」や「色合い」そして「静寂」などと言うものを、五感と心を総動員して多いに楽しんでいたと思うのだが、いつの頃からかそれらを忘れ果てた日本人ばかりが幅をきかすようになってしまったのだナ。そして、この「桜の木の下で焼肉・バーベキュー」なんぞというハタ迷惑な習慣が、知らぬ間に定着してしまったのだ。
石原都知事が言うような、花見の自粛要請が行政側から出されることにはちと違和感があるものの、今回の大震災をいい機会として、こういう悪しき習慣は日本から追放したいもんだナァ。
統一地方選挙が近いからついでに言えば、あの意味のない選挙カーによる「連呼」も、この際全て禁止にしたらどうだろう。たかが選挙期間中の一週間位とは言え、街中に騒音を撒き散らして、名前だけの無意味な連呼をし続けることが、どうして選挙運動になるのかが不思議でならない…って思うのはオイラだけかい?
志都岐山神社の入り口には、ミドリヨシノと書かれた案内板があり、この花は一見すると梨の花のような趣があるが、萼(がく)が緑色であることからこう呼ばれているようで、国内でも萩市のみで見られる希種とのことらしい。

城の東側(菊ヶ浜側)に残る、二の丸土塀(銃眼土塀)の銃眼から菊ヶ浜を覗いてみた。江戸時代の260年間に、実際にこの銃眼から銃を向ける機会は無かったのかも知れないが、何となく城の警備兵になったような積もりで、暫く菊ヶ浜を眺めていたノラ。

駐車場に戻って、車に乗ろうとしてすぐ横を見ると、「萩八景遊覧船のりば」なる看板が見えたので、橋の上から様子を眺めてみた。そこそこに観光客などが利用しているようで、遊覧船が忙しそうに往き来していた。

本日最後は、萩城跡入り口から少し東へ行ったところにある、萩博物館を訪れてみた。平成16年に開館ということなので、もちろんオイラは初めて来たのだが、資料も展示もなかなか分かり易く、萩の自然や歴史・民族を一度に理解するには格好の場所ではある。
余り期待をせずに行ったからかどうか、吉田松陰や高杉晋作について、今まであまりよく理解していなかったことまで思いがけずに知ることができたのは、とても良い収穫だった。
それにしても、たかだか30歳やそこらで、処刑される(命を絶たれる)のが分かっていつつも、最後まで自分の意見を貫いて、幕政への批判を堂々と述べた吉田松蔭の生き様は、どうだ。
『至誠にして動かざる者は、いまだこれあらざるなり』とは言うものの、ご都合に合わせて柳のように生きてきたオイラとは、雲泥の差があるのぉ …ナント恥ずかしぃ~

…と、我が身の不明を恥じりながら、帰宅したのであった。

2011年3月5日(土)
先週に引き続いて、今週も山口県のダム巡りだ。
残りは、阿武川ダムと、広島県との境にある小瀬川ダム・弥栄ダムで、これのダムカードをゲットすれば山口県は完全にコンプリートとなる。
国道9号の木戸山峠から国道262号へ入り、佐々波から右折して県道10号を北上する。途中から山側へ左折して小さな峠を越えると県道67号へ突き当たり、左折してしばらくのところに、阿武川歴史民族資料館と阿武川ダムが見えてくる。
写真のように水位はかなり高く、充分に貯水されているのが素人目にも分かる。

続いて、県道10号を今度は東進し、更に県道293号へ入って重塀岩などの奇岩が続く長門峡の上流沿いに進み、龍宮淵の少し手前から県道310号へ左折して山道を登り、生雲地区へ出る。
生雲中央で県道11号に突き当たって右折し、三谷で国道9号に出て左折し津和野方面へ進む。
市井原で右折して国道489号に入り、暫く行った先で左の山道に入ると県道123号に出る。柚野木小学校の手前で国道315号に出るので右折して、更に東進する。
柚木のループ道を越えて、旧徳地町から旧鹿野町へ入り、中国道の下を潜って鹿野中央から県道9号に入って金峰峠を越える。須金フルーツランド横を通って、須金で一旦国道434号に合流し、すぐに県道69号へそれて旧錦町へと辿る。
更に旧美川町河山で国道187号に合流して、一路、錦川沿いに南下する。南桑を過ぎ、錦川清流線の椋野駅を少し過ぎたところで左折して県道2号に入る。旧美和町を抜けて国道186号へ突き当たり、ここを左折して国道を北上し、まず先に小瀬川ダムを目指す。
小瀬川オートキャンプ場の先に小瀬川ダムはあり、確かこのダム自体が山口・広島の県境の筈で、国道が走っている広島県側は大竹市栗谷町大栗林てな地名で、その名の通り、栗の木を中心にした雑木林だらけだ。近くには、「マロンの里交流館」なぁんてのもある。
いやぁ~ロマンだなぁ~ ………ダンナ、ロマンじゃなくてマロンです …アッ、ソォ

小瀬川ダムでダムカードをいただいた後は、今度は国道186号を逆に南下して、弥栄(やさか)ダムへ向かう。もう時刻はほぼ17時なので、管理事務所が閉まらないことを祈りながら到着し、何とかセーフ。無事に本日三枚目のダムカードをいただいた。
このダムも、ダム堰堤の中程が山口・広島の県境になっていて、下の写真はちょうど県境の辺りから山口県側を眺めた風景だ。結構水位が下がっていて、水没した弥栄湖の湖岸がむき出しになっているのが分かる。

これで本日のダム巡りは終了したので、本日いただいた三枚のダムカードをパチリ。

帰路は、岩国ICから山陽自動車道で帰ろうかとも思ったが、ま、急ぐ旅でもないし、たまには大竹や岩国の街並みを眺めながらのんびりと帰るのもいいかと思って、国道186号をそのまま進んで大竹で国道2号に出た。
和木、岩国の市街地を抜けて錦見(にしみ)交差点から欽明路道路に入り、玖珂で再度国道2号に合流して、そのまま国道2号を通って帰宅したが、弥栄ダムから2時間半程で帰宅することができ、大した渋滞も無くてスムーズだったのは意外だった。

2011年2月25日(金)
去年の12月に、木屋川ダムと湯の原ダムでいただいたダムカードのことをふと思いだし、他にダムカードを発行しているダムってどこだろうと、ネットで調べてみた。すると、山口県の中部から東部にかけて、比較的近い5つのダムで発行していることが分かったので、マイカーででかけてみた。
国道2号線の周南市土井交差点を左折して県道3号を北上すると、まもなく川上ダムが見えてくる。

国道2号線から分かれて、車で僅か5分余りと言う近さに吃驚したが、貯水率(…でいいのかナ?)が結構低くて、かなり湖底近くまで水面が下がっていたことにも驚いた。そう言えば、しばらく雨や雪が降っていないのかぁ…
と思いつつ、川上ダムを後にして向道ダムへ向かい、管理事務所前まで辿りつくと、路傍には何と雪がまだ残っているではないかっ!

一体、いつ降った雪だよっ…と突っ込みを入れたくなるほど最近降った記憶がないのだが、この辺りではこんな風景があたりまえなのだろうかネ
その雪のお陰なのかどうか向道ダムは満水状態で、綺麗な放水を見ることができた。

長穂から須々万本郷を抜け、一旦中須地区へ大回りをして、菅野湖の東側から菅野ダムへ向かう。ここは川上ダムよりも更に干上がっていて、ざっと見たところ貯水率が50%以下のように見える。

菅野ダムの次は、国道434号、315号、376号と辿って西進し、大道理地区を過ぎて島地川ダムに着く。ここはざっと90%程度の貯水率か。
ここにあった案内板(写真下)は、この辺りの特徴を簡潔に説明してあって、とても分かり易かった。

最後は、国道376号を山口市方面に西進して、中国道徳地IC入り口から国道489号を佐波川沿いに北上し、佐波川ダムに着く。
既に17時に近くなっていたので、管理事務所が閉まらない内にと、急いで事務所の二階へ上がり無事に本日5枚目のダムカードをゲットぉ~

で、ゆるゆると帰路に着こうかと思ってダム堰堤の向こう側を眺めると、何やら怪しいトンネルが見えるではないか!

トンネルの出口が見えなくて、かつトンネル内はかなり暗いのが分かるのだが、こわいもの見たさにそのまま車で進んでみた。すぐにトンネルは抜けて、大原湖の右岸沿いを進む細い道があったので、そのままどこまで行けるのかと行ってみた。
…が、もう少しで大原湖の北岸に着きそうな辺りで、倒木が道を塞いでいて、車から降りて倒木を少し引きずってみたがびくともせず、仕方なくここでUターンせざるをえなかった。
といっても、Uターンできるほどの道幅でもなく、ゆるゆるとバックしながら幾分道幅が広くなったところで、何回も切り返してようやくUターンに成功。…と簡単に書いたが、大原湖側の斜面はガードレールも無くて、ちょっと行き過ぎるとそのまま湖面に真っ逆さまという、結構緊張する場面ではあった。
で結局、本日の5枚と合わせて、山口県下の7枚のダムカードを入手できたので、一応纏めてパチリ

後は、山口県なのか広島県なのかが県境なのでよく分からないのだが、小瀬川ダムと弥栄ダムでもダムカードを発行しているそうなので、その内チャレンジすることにしよう。
2011年2月20日(日)
いよいよ赤間関街道の北浦道筋も、今日が最終回の歩行となる予定で、黒井村駅前にマイカーを駐車してからスタートした。.駅からは前回歩いた黒井市の安養寺へ向かう。
豊洋台団地の裏側(東側)を抜けて田舎道を南下するが、途中で旧道らしき道にちょっとだけ迷い込んだら、何ともう大好きな菜の花が咲いていて、梅の花よりももっと強く春が近いことを感じたのだった。

一ノ瀬地区で左からくる県道に合流するのだが、その合流点のすぐ手前で右側に入る旧道があり、これを往くとやがて右手に一里塚が見えてくる。説明書きによれば、寛保三年(1743年)に設けられたそうで、萩からは20里、赤間関までが4里12丁ほどだそうな。ここから赤間関までがあと5時間足らずだということが分かる。

やがて道はゆるやかな登り坂になり、八本松峠で旧豊浦町から旧下関市域に入る。吉見地区は、吉見上八幡宮や吉見温泉などの山側を往くので、吉見駅近郊の市街地は通らない。
しかしここの県道は道幅が狭くて、おまけに歩道は全く無いのだが、車の通行量は結構多く、またほとんどの車が制限速度の50kmや40kmを無視してビュンビュン飛ばして行くので、危ないことこのうえない。
車に撥ねられたんではこちらが損だから、特に大きめの対向車が向かってきている時は、焦らずに路肩に停止して避難するのを繰り返しながら、慎重に歩いた。
福江地区へ入ると、写真のような役行者(えんのぎょうじゃ)像の道標が建っている。正面には、「右せき道 左長婦(長府?)」と彫ってあるが、今までよくお目にかかった三界万霊像でなくて、役行者像だったのは意外だった。

やがて安岡に入り、観察禅院に参詣して、左に下関球場を見ながら更に南下する。綾羅木に入ると、市立考古博物館と綾羅木郷遺跡公園の看板が見えたので、折角なので立ち寄ってみた。とても見易い展示の博物館(入場無料)と、裏手に拡がる遺跡(古墳の森)は、暫しの休憩にももってこいで、30分くらいはここでゆっくりと過ごしてしまった。
弥生時代前期から古墳時代にかけての貴重な遺跡だが、1969年に珪砂の採掘業者によって遺跡の南側が破壊された悲しい過去も有名だ。まぁしかし、当時の市民運動に動かされた国が、遺跡破壊から3日後の3月11日に、異例の速さで国の史跡に指定したことで、完全破壊を逃れたという希有なエピソードを持つ遺跡でもある。
当時の勇敢な市民や調査関係者は、採掘業者のブルドーザーの前に立ちはだかって、我が身を挺して遺跡を守ろうとしたそうだが、その熱意には感服するしかありません。オイラにはとてもできそうにないので…。
展示品の中では、何千年も前の装飾品である勾玉(まがたま)がやはり、目についた。翡翠(ひすい)を加工したネックレスだそうだが、男心にはなかなか理解できないものの、女性にとってはこれらで着飾ることも生きていくうえでとても大事なことだったのだろうネェ。

一旦、国道191号に合流するが、綾羅木橋を渡ってすぐ左手に旧道があり、綾羅木駅前を過ぎると再度国道に合流して、暫くは国道を往く。
垢田の辻を過ぎて山の田交差点に差し掛かり、地下歩道で交差点を渡ってからJR方向へ斜めに進む旧道に入る。すぐ先の跨線橋でJRを越え、幡生駅の裏手にあたる生野(人丸)神社に参詣する。
この神社の境内にあったのが下の地図で、神功皇后の時代ってんだから西暦100年とか200年とかの時代には、今の幡生駅周辺はこの地図のように入り江になっていたようだ。
また、神功皇后がこの入り江で軍船を揃えて船出したとされていて、その時に軍船に仕立てた数百の旗が、なぜか一夜にして生まれたことから、「幡生」の地名ができたそうな…へぇ~、知らなんだぁ

幡生町から石神町、山の口町を抜けて貴船町の総合庁舎前に出るまでは、道路整備や宅地開発などでかなり旧道が分かりにくくなっている。感応禅寺などのそれらしき道を辿って、総合庁舎前からは「赤岸通り」と書かれた道標があり、道も旧道らしさが残っている。
また更に南下して往くと、「奥小路通り」と書かれた道標もあるのだが、果たしてどこまでが赤岸通りでどこからが奥小路通りなのか、その辺の関連が全く分からず、その説明図も見当たらない。
これらの道標は明らかに最近設置されたものだが、このように「点」でしか通りを見ていないので、外からの訪問者に対しては頗る不親切で用を為さない案内になっていることに、早く気が付いて欲しいものだなぁ。
そしてついに、終点となる亀山八幡宮に到着し、旅の無事を懇ろに感謝して、眼下に拡がる関門海峡の眺めで疲れを癒す。

今日はちょうど6時間の、38,980歩で、これでいよいよ赤間関街道の、中道筋・北道筋・北浦道筋の三ルートを全て踏破したことになったぁ、バンザァ~~~イっとぉ
2011年2月19日(土)
所用で周南市へ行ったので、ちょっと光市まで足を伸ばしてみた。お目当ては、県内随一と言われる冠梅園だ。

梅園の入り口横に冠天満宮なる社があったのでまずはこちらに参詣し、今日の無事を感謝する。
天満宮であるから当然ながら、学問の神様と言われる菅原道真公を祀ってあるのだが、縁起に寄れば、太宰権帥として左遷され、筑紫の太宰府へ下向の際、風波をさけて今の光市の戸仲浦に立ち寄った時に、百姓の神太夫が手厚くもてなしたことへのお礼として、冠を脱いで神太夫に与えられた。
その後、神太夫も亡くなり30数年を経て承平4年(934年)に神太夫の長男の太郎次に夢中のご託宣があり、「東の山の梅の古木に今宵のうちに花を開かしめん、その地に社を建て冠を神体として祀るべし」と。
太郎次が隣家の人々と尋ねて見ると、果たして梅花咲き満ちて春のようであったので、これを瑞祥と見て、承平5年(935年)に神祠を営み、そして梅花を見た10月10日を祭日と定め、氏神として崇め奉ったらしい。
これが冠天満宮の命名のもとで、神社の後方にある冠石はこの時の冠を収め奉ったところと伝えられている。

梅は、満開のものから全てが蕾のものまで木によってそれぞれで、かなり長い期間に渡って楽しめそうだ。とても色っぽい紅梅も、そして清楚な装いの白梅も、共に『もう春はそこまで来ているからねぇ~』と語りかけてくれるようで、気分もウキウキしてくる。


この梅園から南側を望むと、長閑な瀬戸内の眺めがこれまた素晴らしく、暫しの間ぼぉ~っと景色に見とれていた。

2011年2月6日(日)
前回と同じくマイカーで自宅を出て、長門二見駅前に駐車させてもらってから、続きを歩き始めた。
長門二見駅の少し北側から山側へ入って行く道が街道なのだが、この道に入ってすぐに分かれ道があってその先から次第に道が険しくなり、もう少し往けば下峠(しもとう)ではと思しき辺りでついに断念して、脇道から一旦、国道191号に出ることにした。途中で行き交う人もなく、また最近人が歩いた形跡もないことから、残念ではあるが仕方がない。
そのお陰と言う訳ではないが、いつも車で通り過ぎるだけだった二見浦の「夫婦岩」を、間近にゆっくりと眺めることができた。
由来によれば、この岩の背後にある馬路山に住む龍が、大時化の日にはこの岩の間を通って、沖にある壁島の龍権社にお詣りするそうな。この伝説を元に、豊漁と海上安全を祈願して、嘉永年間に注連縄を渡す神事を始めたらしい。
毎年1月2日の夜明けと共にこの神事が始まるそうだが、地元の漁師さん達の心意気がビンビンと伝わってくるような、見事な注連縄だ。

宇賀本郷駅を右に見て大専寺前の街道を往くと、民家の庭先に蝋梅がふくらんでおり、独特の香りを辺りに漂わせていた。唐梅とも呼ばれる蝋梅は、確か、普通の梅とは違う種類だと聞いたことがあって、帰宅してから調べてみたらやはりそうで、普通の梅が「バラ科サクラ属」なのに対して、蝋梅は「ロウバイ科ロウバイ属」なのだそうな…へぇ~。
そんなことを聞かされると、思わず「狼狽」するなぁ~ …ナンチッテ

宇賀小学校の手前、左手の小高い所に宇賀八幡宮が見える辺りで国道から右に逸れ、JRの踏切を渡ると、旧街道は往時の趣をよく残しており、鳥居峠と呼ばれる小さな峠を越えると湯玉地区に入る。
街道右手の善念寺入り口辺りに、写真のような「宇賀本陣板場跡」と書かれた標識が建っていたのだが、説明書きが何も無いので、折角の標識も意味のないものになっているのは、善念…ではなくて、残念。
「板場」って、現代では調理場や調理人のことなのだが、ここに本陣があった頃の「板場」って何を指していたのだろうかネ。知っている人がいたらおせぇ~てくらはいぃ~

湯玉地区の長閑な街並みを抜けると、右手に犬鳴岬が見えてくる。岬すぐ手前の広場には、九州ナンバーの車が10台近く駐車していて、確かに岬の先には多くの太公望が釣り糸を垂れているのが見える。
福徳稲荷の下を過ぎ、クリーンセンター響(清掃工場かな?)の入り口も過ぎたその先に、右手に旧道があるはずなのだが、国道からの分かれ道が分からない。
ならび松海水浴場が見える所まで来ると小さい脇道があったので、JRの線路を無理矢理渡って旧道に出て、再度もと来た道の方向へ戻ってみたが、300m位先で道が無くなっていた。これでは国道からの分かれ道が分からない筈だ。
後浜海水浴場の入り口を過ぎた辺りで見かけたのが下の白梅で、10本位あった梅の木の中で此の木だけが綺麗に花を咲かせていた。ちょうどこの場所はすぐ北西側に小山があるので、冷たい季節風が直接あたらないのではないかと思う。
しかし毎年のことながら、寒風が吹き荒む中でも梅が咲き始めるのを見ると、体はまだ冬真っ盛りでも、心の中で春をほんの少しだけ感じることができるのは、とても嬉しいもんだ。

小串も、JRよりも西側(海岸側)に旧道が残っており、小串海水浴場や小串駅や豊浦済生会病院などを過ぎるともう川棚地区に入る。
ナフコの手前で国道と合流してからは、開発が結構進んだからか旧道はほとんどどこかが分からない。市役所支所の横から旧道らしき道を抜けて、吉永八幡宮へ立ち寄ってみた。
下のように、拝殿から裏へ回ってみると、なかなか立派な造りの本殿に出会える。材木の寄せ方や、ほんの小さな彫刻まで、実に丁寧な造りが見事だ(…と思う)。

この、吉永八幡宮を出たところで出会ったお爺さんに赤間関街道のことを聞いたら、これがとんでもなく詳しくて、萩から歩いてきたオイラの道程を、注釈を交えながら全部事細かにコメントしてくれた。
何でも、このお爺さんも親から聞いた話では、明治時代の後半までは宇賀から先(北側)は荷馬車が通れる程の道が無くて、舟で荷物を運んでいたそうな。
つまり、赤間関街道とは言いながら、人馬がようやく通れる程の細い道でしか無く、物資の運搬は海上輸送が頼りだった訳だ。長門二見からの山道が、えらく細かった訳がようやくこれで分かった。
このお爺さんにこの付近の街道筋を教えてもらい、更に南下して黒井市へ向かう。
黒井市のほぼ中程には、よくある庚申塔にこれまた見事な注連縄が架けてあった。この街道筋で見かけた数十の注連縄の中では、デザイン・ボリューム共にピカイチだ。今日の無事を、心から感謝しておいた。

今日はここまでにして、安養寺の先から黒井村駅に戻り、山陰本線に乗ってスタート地点の長門二見駅へ向かう。いつもより少し短めで、4時間半の31,307歩であった。
次回は、黒井村駅からスタートして、終点の亀山八幡宮前まで一気に行けるかな?
2011年1月23日(日)
昨夜は滝部温泉でゆっくりとしたのだが、宿に到着してまず温泉に浸かり、夕食後にまた浸かり、寝る前にも浸かり、そして朝起きてまた浸かりと、温泉を満喫したのであった。お陰で足腰の疲れも無く、快適な目覚めをもたらしてくれたのは、とてもありがたいことだ。
宿からは再度マイカーで長門粟野へ向かい、今日は阿川ルートを歩いてみることにした。昨日と同じく、長門粟野駅前に車を置き、今日は一路西進する。
駅から歩き始めて僅か5分足らずの道沿いで、何やら田圃の中に動物がチョロチョロしているのが見える。よく見ると、猿の親子連れが田圃で稲の櫱(孫生・ひこばえ)を食べているようなのだ。
昨日は粟野峠で鹿の親子連れに出会ったが、今日は猿だ。鹿の親子連れはオイラの視線を感じるとサッと逃げ出したが、この猿達はオイラをチラリと一瞥しただけで逃げようともせず、無心に櫱を啄んでいた。
人間を舐めているのか、それとも空腹の方が優先しているのかは分からないが、そんなに腹の足しになりそうにもない櫱でも食べなければいけない程の食糧事情が、あるのだろうかネェ。

粟野川を過ぎてから、国道191号はここから少し山側に入るが、街道は山陰本線に沿って海側を往く。モータリゼーションの時代になるまではこの海側の道が旧国道だったようで、山陰本線の踏切を渡ってからは少し山中に入る。
やがて再度国道と合流し、阿川の海岸が見えてくる手前辺りから、街道は左の旧道へ入る。
途中に「阿川毛利氏館跡」と書かれた案内板があったので立ち寄ってみたが、写真のような石碑が建っているだけで、何の説明も書かれていなかったので、謂われも何も分からないのはちょっと不親切だなぁ。
因みに阿川毛利家は、毛利元就次男の吉川元春の次男毛利元氏を始祖とする家系で、江戸時代には毛利家に六家あった「一門」と呼ばれる家老の内の一つだったらしい。
また、七代目当主の毛利広漢(ひろくに)は、阿川の領内に郷校「時修館」を創設して、大いに学問を奨励したらしい、………てなことぐらいはせめて案内板には書いて欲しいなぁ~

阿川地区のほぼ中心部にある阿川八幡宮は、左奥の参道へ進むと、鬱蒼とした「イヌマキ巨樹群」(県指定天然記念物)が迎えてくれる。

阿川小学校を右に見て更に国道を西進するが、途中から旧道らしき道が国道の左に見えるので辿ってみるのだが、いずれも途中で行き止まりになって引き返すはめになった。
そうこうする内にもう肥中に入り、国道左手の誓念寺裏へ回ると、往時の石畳がまだ残っている。これから暫くは旧街道の趣が色濃く残る道筋で、これまた立派な道祖神が旅人を安心させてくれる。

肥中から特牛までの間は肥中街道と赤間関街道は重複しており、特牛で肥中街道と分かれて南下すると、右手に響灘を眺めながら和久地区に入る。
その先の右手が土井ヶ浜海水浴場で、夏場には海水浴客で賑わうのだが、今の時期はチョー閑散としており、かといって、冬場の大波を好むような根性のあるサーファーがいる訳でもない。
神玉小学校を過ぎ、波原交差点先の小川を渡ったところで国道から分かれて左折し、山沿いの街道を通って矢玉地区を目指す。更に矢玉から津波敷(つばしき)を経て二見へ抜けるのに、街道は杖坂峠を越えて行く。
ところが津波敷で道が分からなくなり、畑で農作業中のお爺さんに聞いたところ、『杖坂峠はナ、ここ最近人が通っちゃぁおらんから、やめた方がエエ』と言われ、この爺さん杖坂峠の通行監視をしている訳でもなかろうに…とも思ったが、まそこは、年寄りの言うことを素直に聞くオイラは、津波敷の海岸へ戻って国道を二見まで行くことにしたのだ。……エライッ!

そして昨日と同じくゴールの長門二見駅に到着し、JRでまたまた長門粟野駅まで行ってマイカーに乗り換えて帰宅した。今日は約6時間余り歩行の40,179歩だった。