それなりの覚悟 ~高血圧になって考えたこと~ | こんけんどうのエッセイ

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  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 二〇二一年の暮れのことだった。ふと気になって血圧を測ってみた。すると、最高血圧が一七〇台と表示された。何かの間違いだろうと、呼吸を整えて測り直したら、今度は一九〇台だった。ギョッとした。

 実は、昨年の春、近所のクリニックに胃薬をもらいにいったとき、看護師に血圧を測られた。その数値を見た看護師が「あら? 高いわね」とつぶやいた。一五〇台であった。測り直すと、一四〇台になった。カルテを見た医師も、

「そろそろ血圧の薬を飲む年齢ですよ」

 と言われ、「ゲッ」と思った。「血圧計を買って、毎日、測ってください」と軽いジャブを喰(く)らった。マジメな私は、その後、血圧計を購入した。計測記録を見ると、二〇二一年四月から九月までの数値が記入されていた。おおむね一二〇から一四〇台だった。それで安心して、測るのを止めていたのだ。

 慌てて翌日、会社帰りに病院に立ち寄った。そこで測ってみると、二〇六―九八という数値が飛び出した。スキージャンプの「K点超え」どころではない。バッケンレコード、最長不倒距離だ。そんなに血圧が高くても、自覚症状がなかった。というか、日常的に首回りが重苦しく、それが当たり前になっている。眩暈(めまい)もない。だから気づかなかったのだ。

 かつて、作家の佐藤愛子さんのご自宅でエッセイの講評を受け、雑談をしていたときのことを思い出した。血圧の話になって、最高血圧が二〇〇を超えたことがあり、そのときはさすがに体調が悪かったという話をされた。佐藤さんが八十代半ばを少し過ぎたころのことである。その話を聞いたとき、そんなに血圧が高かったら、いつ血管が破裂してもおかしくないだろう、そう思ったのだった。その二〇〇超えに自分がなった。ためらっている余地はない。さっそく翌朝から血圧の薬を飲み始めた。あわせて、サントリーの胡麻麦茶も。

 私は入社以来、年に一度、健康診断を行っている。そのデータを几帳面にも一覧表にしてある。二十七歳から六十一歳までのデータである。血圧の数値は、上が一〇〇台から一二〇台ほどで、ずっと低空飛行を続けてきた。血圧を気にしたことは、一度もなかった。上が一〇〇を切ることもあり、むしろ低血圧の方が心配だった。それが昨年(二〇二一年)になって一変したのだ。

 母方は、脳卒中の家系である。祖父は五十七歳で発症、おそらく脳梗塞(のうこうそく)だと思うが、寝たきりの生活になり六十四歳で亡くなっている。その祖父の看病をしていた祖母が倒れて亡くなったのが、五十三歳である。祖父が倒れて、ほどなくしてのことだった。私の母が脳梗塞になったのが七十三歳で、同じ年、二歳年上の伯父(母の兄)も脳梗塞を発症している。幸いにして、二人とも軽症だった。

 脳梗塞、脳溢血(のういっけつ)、脳卒中と脳血管系の病気には種々ある。改めてその違いを調べてみた。「卒中」とは、突然の仮死状態になることをいう。「卒」は「俄(にわ)かに」とか「突然」を意味し、「中」は「あたる」だ。つまり、脳卒中の中には、脳の中の血管が破れて出血する脳溢血(脳出血)と、血管が詰まって脳が壊死(えし)する脳梗塞の両方がある。CTやMRI検査の登場によって、初めて血管が破れたのか詰まったのかがわかるようになった。だからむかしは「あたった」でぜんぶ済まされていた。

 次に、血圧とは何か、だ。心臓が血液を送り出すために心臓の筋肉をギュッと収縮させたときの圧力を収縮期血圧、最高血圧という。逆に心臓の筋肉が最も広がった時の圧力の拡張期血圧が最低血圧だ。つまり血圧とは、心臓から送り出された血液が動脈の内壁を押す力のことなのである。

 五十五歳の夏、調子に乗って酒を飲んでいた私は、突然、小便が出なくなった。病院に救急搬送され、「尿閉」と診断された。前立腺肥大症の始まりである。それまで私には持病というものがなかった。強いていえば、胃腸が弱いことくらいだった。そして今回、六十一歳になって高血圧症が加わった。人間は、こうして坂を下っていくのだ。

 私が覚えている私自身の最も古い記憶は、母の実家で大きなストーブの前に座って落花生を食べている場面である。そこにいたのは母と祖母である。祖母が亡くなったのは、昭和三十八年(一九六三)二月二十三日で、私は一月十五日に三歳になっていた。ストーブの前ということは、寒い時期だ。つまり、昭和三十七年十月以降、祖母が亡くなるまでの間の記憶である。大好きな落花生を食べ、とても嬉しいひと時の記憶として残っている。

 次に古い記憶は、祖母の葬儀を行ったお寺の本堂である。祖母の棺(かん)の周りを楽しく走り回っている記憶である。それと、火葬場でお骨となった祖母の骨を拾う場面だ。当時の火葬場の燃料は薪(まき)か石炭だと思うが、お骨が真っ黒だったことを覚えており、

「お母さん、これ頭?」

 祖母の頭蓋骨を見て、母に訊いている記憶である。母の隣には祖母の弟(三十九歳)がいた。当時の母は、二十七歳であった。

 祖父が亡くなったのは昭和四十四年十二月である。七年間の寝たきり生活から逆算すると、発症は昭和三十七年あたりになる。祖父が亡くなった時、私は九歳十一か月で、その時のことはよく覚えている。

 火葬場から戻ってきたとき、お寺の入り口で小皿を持っている人がいた。その小皿には塩が盛られ、お寺に入る際に一人ずつその塩をつまんで体に振りかけていた。私の番になった時、その塩の真ん中に黒い塊があるのが目に入った。なんだろうと思い、それを摘まんでしまったのだ。その黒い塊は、焼けた炭だった。私の左手の人差し指の指紋が斜めに切れているのは、その時の火傷の跡である。

 祖父母には、四男一女がいた。長男の伯父は家業である銭湯を継いでいた。母の弟であるほかの三人の叔父たちは、すでに札幌に出ていた。母親の突然の訃報に、みな血相を変えて飛んで帰ってきていたに違いない。当時は、まだ電話が普及していなかったので、電報で呼び集められたのだろう。伯父が二十九歳、一番下の叔父が十九歳だった。

 現在、私は六十二歳である。すでに祖父母の発症年齢を超えている。二度目の診察時、血縁の病歴を医師に伝えた。

「先生、高血圧家系のスイッチが、突然入ったということでしょうか?」

 そう投げかけると、

「うん……。その可能性は排除できませんがね……」

 と、明言を避けた。高血圧の原因を探るため、様々な検査を行っていたが、すべてクリアーしていた。寒さも血圧が高くなる要因である。考えてみると、これまで私が血圧を測っていた時期は、七月、八月という夏場だけである。加齢とともに、冬場の血圧が高くなっていたのかもしれない。だが、それにしても高過ぎる。

 ある日突然、脳の血管が破れ、そのまま逝ってしまう、そんな光景が俄(にわ)かに現実味を帯びてきた。いつの間にか、そういうお膳立てが整っていたのだ。そもそも最高血圧が二〇〇を超えていて、それに気づかなかったことも問題である。日頃感じている重力以上の重みは、血圧が寄与していたのかもしれない。

 ある日突然、襲ってくるのは、がん宣告だけではない、そんなことを思い知らされた。中途半端に助かって、長患いをするのはイヤである。かといって、予期せぬ時に、間髪入れずにいきなり死んでしまうのもどうかと思う。さて、どうしたものか……。

 敬老の日に浅草で、

「おじいさん、長生きの秘訣は何ですか?」

 唐突にマイクを向けられたジイさん。若造の顔をギロッと睨(にら)んで、

「バカヤロー、死なねぇように気をつけることよ」

 と返され、駆け出しの記者はタジタジになってしまった。かつてニュースキャスターを務めていた久米宏氏が、自身の若いころをそんなふうに語っていた。

 遅かれ早かれ、私たちは皆、死ななければならない。一人の例外もなく、全員が死ぬのである。だからある程度の年齢になったら、それなりの〝覚悟〟をもって生きていかねばならない。そんな覚悟は、もっと先のことだろうと思っていた。だが、いつの間にか、そんな年齢になっていた。そういうことなのである。

 

  2022年5月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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