酔っぱらいの家路 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 酒での失敗談は数知れず。なかでも、電車の乗り過ごしでは忘れがたい思い出がある。

 私は結婚して二年ほど東京の杉並にいたことがある。ある月曜の夜のこと。その日はいつも以上に疲れていたうえに、会合が二次会に及んだ。なんとか無事に自宅のある明大前駅にたどり着いてホッとした。

 アパートが近づくと、二階の我が家の明かりが見えるのだが、その日は電気が消えて真っ暗だった。遅く帰っても、明かりが消えていたことはなかった。娘に何かあったのかと心配になった。そのころ娘はまだ二歳で、夜中に高熱を出すことがしばしばあった。まだ携帯電話のない時代である。

 イヤな予感がして足を速めたのだが、急ぐほどに足が絡まる。描いたような千鳥足で、やっとの思いでアパートにたどり着いた。外階段を駆け上がり、ドアの前に立って愕然(がくぜん)とした。貼紙があったのだ。干からびたミミズのような筆跡は、紛れもなく私のものだった。「転居しました」とあった。「なぜだ?」と思った瞬間、状況が呑み込めた。

 二日前の土曜日に、我が家は練馬の社宅に引っ越していたのだ。その日から、都営新宿線の浜町駅から三つ目の小川町駅で丸ノ内線に乗り換えなければならなかった。だが私は、例のごとく電車に乗ったとたんに熟睡してしまった。ハッとして飛び降りた駅が、それまでの明大前駅だった。

 休み明けの月曜日、ただでさえ疲れているところに、土、日の引越しが加わっていた。しかも二次会……。その泥酔が一瞬にして吹き飛んだ。長居は無用、顔見知りに見つかったら言い訳の言葉が見つからない。親しかった人たちに見送られて転居していた。

 階段の降り口まで戻ったところで、背広姿の男が上ってくるのが目に入った。眼を凝らすと隣のご主人だった。逃げ場がない。相手もかなり酔っていた。急ぐふりをして駆け降りるしかない。正面突破だ。数段駆け降りたところで、ご主人が顔を上げた。

「ああ、コンドーさん」

 ひどくロレツが回っていない。

「あ、どうも。それじゃあ、いってきまーす」

 咄嗟(とっさ)にそんな言葉が口を衝(つ)いた。

「いってらっしゃーい」

 ふだん無口で不愛想なご主人から、なんともトンチンカンで陽気な声が返ってきた。ホッと胸をなでおろした。振り返ると階段の上り口に立ったご主人が、こちらに向かって大きく両手を振っていた。

 家に入ってから、「今、そこでコンドーさんに会ったよ」と遅くなった口実の前に、私のことを口にしたに違いない。

「なにを寝ぼけたこと言ってンのよ。一昨日引っ越したでしょ、コンドーさんは。あなたもいたじゃない。こんなになるまでどこで飲んできたのよ、ホントにぃ」

 そんな夫婦の会話を想像しながら、私は新居を目指し、再び駅へと向かったのであった。

 

   2022年9月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

 

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