北泉岳寺までの長い道程 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 私は学生時代の四年間を京都で過ごした。住んでいた場所は、伏見区深草なので、京都市の南部、大阪寄りの方向になる。

 深草という地名が、とても気に入っていた。藤原俊成の代表歌に、

 

  夕されば野辺の秋風身にしみて鶉(ウズラ)鳴くなり深草の里

 

 というのがある。その地域に住めると思っただけで、ワクワクした。俊成が歌った当時は、うらぶれた京都のはずれ、いわゆる「洛外(らくがい)」だった。実際に今でも中心部からは外れている。一山越えた向こう側は、山科(やましな)である。江戸期の狂歌師四方赤良(よものあから)(大田南畝(なんぼ)、別号蜀山人(しょくさんじん))の歌は、この俊成の歌をパロディー化したものである。

 

  ひとつとりふたつとりては焼いて食う鶉なくなる深草の里

 

 元も子もない。

 伏見といえば、大阪と京都を結ぶ要路であった。幕末の志士たちが、鳥羽街道や竹田街道などをもの凄い形相で行き来したことは、容易に想像できる。地元の人からは、夢枕に甲冑(かっちゅう)をつけた武将が立った、という話をよく聞いた。鳥羽伏見の戦いの地である。成仏していない武将の怨念が、私が学生だった四十年前までは確かに語られていた。

 京都人の得意な話がもうひとつある。大学の授業でも複数の先生から聞かされた。

「先の大戦で、京の街は灰燼(かいじん)に帰しました。社寺仏閣がぎょうさん焼けはった」

「え? だって、第二次大戦では、米軍は京都を攻撃しなかったんでしょう?」

「いやいや、太平洋戦争とは違います。応仁の乱(一四六七年)ですぅ」

 というものである。 

 実はこの話を十八番(おはこ)としていた人がいた。第七十九代内閣総理大臣細川護熙(もりひろ)氏である。護熙氏は、かつての熊本藩五十四万石の藩主、細川家の十八代目の当主に当たる。この護煕氏が首相就任時、流布されたジョークである。

「細川家には、昔はもっとよい宝物があったんですが、戦争でかなり焼けてしまったんですよ。いやいや太平洋戦争ではなく、応仁の乱ですがね」

 このジョーク、実際は護熙氏の父である護貞(もりさだ)氏の十八番で、護貞氏の義父近衛文麿が近衛家の陽明文庫を評した発言が元だといわれている。ちなみに細川家には伝来の美術品や歴史資料を収蔵・展示している永青文庫が東京の目白台にある。理事長は護煕氏である。

 

 話はガラリと変わる。

 北海道の東部、道東の中標津町(なかしべつちょう)にあるジャスコの案内板が、一時期ネットで話題になったことがあった。そこには次のように記されていた。

「ジャスコ釧路店 直進一一〇キロ P四〇〇〇台」

 北海道の広大さを物語る看板として、「伝説の看板」と称されていた。ジャスコがイオンに変わって、残念ながらこの看板はなくなってしまった。残しておいた方が、圧倒的な宣伝効果があったと思うのだが。

 私が札幌に住むようになって、相方のえみ子の仕事の関係で、何度か稚内(わっかない)まで出かける機会があった。稚内は日本最北端の地である。宗谷海峡を挟んで、ロシアと国境を接する町でもある。札幌からの距離は約三三〇キロで、東京―名古屋間に匹敵する。

 途中、留萌(るもい)市から先は日本海に沿った道になる。このオロロンラインと称される道をひたすら北上する。地平線が続く道を走っていると、ナビがしゃべっていないことに気づく。ディスプレイに目をやると、「七十七キロ先右折」とあった。

 

 北原白秋作詞・山田耕筰(こうさく)作曲の歌に「この道」がある。次のような歌詞である。

 

  この道はいつか来た道/ああ そうだよ/あかしやの花が咲いてる

  あの丘はいつか見た丘/ああ そうだよ/ほら 白い時計台だよ

  (後略)

 

 国道十二号線は、札幌を起点として旭川まで伸びる全長一六〇キロほどの道である。その起点が札幌の北一条通であり、「この道」のモデルである。この十二号線は、一般道で日本一の直線道路区間があることでも有名である。その距離は、二十九・二キロに及ぶ。私も何度かこの区間を走ったが、気絶しそうになるほどの直線が続く。北海道の北へ向かうメイン道路は、明治期に監獄に収監されていた囚人によって造られている。

 当時の囚人は、その多くが思想犯だった。つまり、明治新政府に反旗を翻した旧士族たちである。一度収監された者は、二度と生きては帰れないといわれるほど、過酷な労働が待っていた。そんな彼らが造る道を通って、屯田兵や開拓団が未開の地へと入植していった。

 この直線道路の終点に近い場所に、北泉岳寺がある。所在地は、砂川市空知太(そらちぶと)四四四-一で、浄土宗のお寺である。

 道路建設などの過酷な労働や病に斃(たお)れた数多くの囚人を慰霊するため、篤志家(とくしか)が初代北海道長官岩村通俊(みちとし)から墓地用地の払い下げを受ける。そこに浄土宗説教所「無常堂」が建立された。それが北泉岳寺の開創(かいそう)である。

 熱心な義士崇拝者であった初代住職が、東京の泉岳寺(曹洞宗)に義士墓の建立と寺名を泉岳寺にしたい旨を陳情する。だが、泉岳寺からの許可は下りなかった。住職は、様々な困難に遭っても自分たちの信念を貫いた義士の精神を開拓者の精神になぞらえ、泉岳寺に相談を持ちかけたのだった。住職は、やむなく寺号を「泉学寺」として公称した。

 時は下り、第二次世界大戦後、社会の混乱と道義の混迷から義士の精神は当地でも必要という機運が高まっていた。義士墓建立の動きが再燃する。そこで先代住職の意思を受け継ぐ形で、二代目住職(先代住職の孫)が、泉岳寺に対し粘り強い交渉を再開した。その熱意が容れられ、昭和二十七年(一九五二)十二月に泉岳寺より内諾を得る。

 泉岳寺から「北泉岳寺」と名乗る承諾書が届いたのは、翌年二月四日のことだった。その時、義士の墓の土を四十七個の木箱に分けて持ち帰ることが許された。義士が埋葬されてから、すでに二五〇年の歳月が流れていた。義士の遺骨が土に還っていることから、分骨ではなく分土という形をとった。奇(く)しくも二月四日は、大石内蔵助以下四十六名が、お預け先の大名家で切腹をした日に当たる(諸説あるが、吉良邸討入り後、寺坂吉右衛門の離脱によりお預けは四十六名となる。泉岳寺には寺坂吉右衛門の供養墓を含め、四十七名の墓がある)。

 義士たち四十六名は、大名四家に分散してお預けとなっていた。大石内蔵助以下十七名は、熊本藩下屋敷(東京・高輪)にて切腹をしている。その時、私の母方の直系に当たる米良市右衛門勘助(米良家二代)が、堀部弥兵衛(安兵衛の父)の介錯を行っている。たまたま、前年に藩主細川綱利の参勤のお供を命ぜられ、熊本を発って江戸へ上っていた。

 昭和三十一年(一九五六)、念願であった墓所が完成し、盛大な開眼、入魂祭が執り行われた。宗派を越えた熱い思いが、北海道に泉岳寺を誕生させた。改名前の「泉学寺」という名称からして、初代住職の並々ならぬ思いが伝わってくる。現在の住職は四代目に当たる。

 私が初めてこの義士の墓を詣でたのは、何年か前のゴールデンウイーク少し前、四月下旬のことだった。ところが墓域全体が深い雪に埋もれ、墓所に近づくことすらできなかった。結局、墓参が叶ったのは、七月中旬の滴(したた)るような新緑の季節だった。その墓所のあまりにも完璧なコピーに思わず息を呑んだ。本家泉岳寺の墓域が、そっくり写し取られていた。遠い北の地で遭遇した、意表を衝く光景だった。

 国道十二号線の敷設工事に携わった囚人の慰霊が、北泉岳寺の開創であることは前述した。これら囚人は、現在の月形町にあった樺戸集治監(かばとしゅうちかん)に収監されていた者たちである。明治新政府に反発する旧幕勢力の士族たちだ。その中には、西南戦争にかかわっていた者も数多くいた。

 明治新政府に反発した旧幕勢力は、慶応二年(一八六六)の鳥羽伏見の戦いから明治二年(一八六九)の函館戦争までのいわゆる戊辰戦争を経、明治七年の佐賀の乱(佐賀)、明治九年の神風連の乱(熊本)、その三日後には秋月の乱(福岡)、さらに翌日の萩の乱(山口)と次々に飛び火していく。最後の大反乱は、明治十年の西南戦争(鹿児島)であった。

 私の曾祖父米良四郎次(しろうじ)(十一代)は、明治二十二年に屯田兵として熊本から札幌の篠路兵村に入植している。その兄亀雄(十代)は、神風連の乱で自刃し、翌年の西南戦争では、曾祖父の叔父左七郎(九代)が戦死している。

 これらの戦いで死にきれなかった者たちが、樺戸集治監に収監されたのである。北海道開拓の礎(いしずえ)となった彼らは、抗(あがな)いきれない時代の流れに翻弄(ほんろう)され、ボロ雑巾のように使い捨てられ、無念の中で果てていった。そんな彼らの慰霊の役割を担ったのが、後の北泉岳寺であった。

 

 毎年、十二月十四日の討ち入りの日には、北海道義士祭が盛大に行われている。墓前祭の後、市街地で四十七士によるパレードが挙行される。極寒の中でのお祭りであるが、この地に暮らす人々にとっては特別な一日となる。その様子は、毎年テレビや新聞で大きく取り上げられ、北海道の風物詩の一つとして定着している。

 残念ながら、昨年、二〇二〇年の第六十五回北海道義士祭は、コロナウイルス感染症拡大のため、中止となっている。

 

  2021年5月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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