作文のダメな男 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 私は作文がまったくダメだった。「ダメ」というのは、死ぬほど嫌いだったという意味である。それはもう苦手中の苦手で、まるで書けなかった。だから、小学校の夏・冬休みの最終日は、涙なしに過ごした記憶がない。宿題の読書感想文が書けず、どれほど母を煩わせたことか。

「せめて、マンガでもいいから、読んでくれるといいんだけどね……」

 そんな母の嘆息が耳に残っている。

「私は高校生まで本も読んでこなかったし、そのせいで作文はからっきし苦手でした」

 そんなことを言っても、自分の声がむなしく返ってくるだけで、誰も取り合ってはくれない。「よくもまあヌケヌケと……」「……謙遜にもほどがある」と言う顔を向けられる。それだけ拙作を評価してくれている、という意味ではありがたい。だが、理解されない寂しさが胸底に静かに沈殿している。滑稽(こっけい)な話である。

 私がエッセイの同人、随筆春秋に入ったのは、二〇〇三年の春である。随筆春秋賞をもらって、誘われるままに入会した。賞をもらった手前、断れなかったのだ。「まあ、一、ニ年も入っていれば、義理も立つだろう」そんな思いで入会した。

 それから十六年、二〇一九年の冬に随筆春秋は法人化し、私は表向きの〝代表〟に据えられた。本意ではない。だが、そうすることで運営が円滑に回るというので、やむなく受けた。

 随筆春秋は、会員、スタッフ合わせて百人の所帯である。本部は東京にあるが、会員は日本各地に散らばっている。海外在住者もいる。今の時代、どこにいようが関係ないのである。現に私は北海道だ。そんな会員の大方は、若いころに文学青年であったり、文学少女と言われるほど、作文が得意な子供だった過去を持っている。そもそも作文のダメな男がいるような場所ではないのだ。だから、終始腰が落ち着かず、常にソワソワしている。

 私は、高校、予備校、大学と寮生活を送ってきた。大学はアパートだが、寮とほぼ同じであった。そんな中に文学かぶれの友達もいた。文学を熱く語っている場面に、幾度となく出くわしてきた。私にはまったくのチンプンカンプンの世界で、ただ蚊帳の外から傍観しているだけだった。いまだに文学談義などできない。

 私が本を読みだしたのは、高校一年からである。六十点台で低迷する現代国語の点数を引き上げるのが目的だった。高校三年で受けた全道模擬試験の現代国語の問題に、斎藤茂吉の『赤口(しゃっこう)』の短歌が出ていた。私はその歌にいたく感動して、問題を解くのを止め、以降の試験をボイコットして試験会場を出てしまった。あまりにも心が震え、バカらしくて試験などどうでもよくなったのだ。私は他人よりも感情量が多い部分がある。後日、担任から試験結果を訊かれ、受けていない旨を伝えると、

「冗談は顔だけにしてくれよ」

 と言われた。

 私の読書は、就職してからも続いた。二十八年に及ぶ東京でのサラリーマン生活の中で、往復二時間の通勤電車は格好の読書の場だった。どんなに混んでいても、数センチの隙間を見つけて本を読んでは心震わせ、涙していた。

 そもそも私が作文を書き出したのには、やむにやまれぬ事情があった。三十八歳のとき妻が精神を患い、妄想からくる暴力でこちらがダメになりかけた。それを救ってくれたのが作文だった。残業も出張も転勤もできなくなった私は、子会社へと出向になった。そこでノートパソコンを貸与され、処理しきれなかった仕事を自宅でやっていた。やがて仕事に慣れるとパソコンは不要になったが、それを利用して作文を書きだした。もちろん妻の前では仕事を装っていた。

 一つの文章を何日も何日も書いては書き直す、そんな生活を送っていた。思いの丈を納得がいくまでとことん書き直した。それが私の精神を救った。一作品を作るのに三か月も四か月も費やす。もうこの辺でいいだろう、という妥協をしなかった。そんなことをやりだして二年が経過したころ、私の書いているものは、世間一般に通用するのだろうか、そんな疑念が頭をもたげだした。それで応募したのが、第八回随筆春秋賞だった。四十歳を機にエッセイを書き始めて二年目のことだった。

 当時の代表は、斎藤信也先生だった。斎藤先生から受けた添削は、四十本を超えた。この添削指導がなければ、今の私は存在しない。彼の指導により、私はコペルニクス的転回を遂げた。そういう意味では、大恩の師である。同じころ、同人の石田多絵子氏からも添削を受け、さらに作家の佐藤愛子先生、脚本家の布勢博一先生からも文章指導を受けてきた。佐藤愛子先生からは今でも折に触れ、作品の講評をもらっている。一介のサラリーマンが、プロの作家から長期間にわたり文章指導を受けるなど、極めて稀有なことである。

 そんな流れの中で、現在は私がエッセイの添削指導に携わるかたわら、会員の自費出版本の校閲・監修までさせてもらっている。私は一九九五年から一年半にわたり、通信教育で校正の勉強をしていたことがあった。これが今になって大いに役立っている。

 何よりも苦手としていた作文の世界にどっぷりと浸かって二十年が過ぎた。妻は十二年半の闘病生活ののち、私が五十歳の時に家を出て行った。同類の病を患う入院仲間の男性のもとに走ったのだ。人生とはどこで何が待ち受けているか、まったく読めたものではない。塗炭の苦しみの中に腹をくくって居座る。必死に何かに熱中していたら知らぬ間に道は拓けていた、そんなことを身をもって体験した。「だから人生は面白い」と言うのだろうが、面白いなどと思える余裕は、いまだに持てずにいる。

 私は作文がダメだった、そんな一端が今でも窺えるのは、一作品を書きあげるスピードに現れている。作品に費やす時間は、人の三倍から五倍、実際にはもっと多いかもしれない。書いては直し、削ってはつけ足し、また削る、そんな作業をアホのように延々と繰り返している。十年前に書いたものを、これまでに何度、手直ししてきたことか。おそらく私は、死ぬまでそんなことを続けるのだろう。

 数年前、某学習塾が主催する全国模試の試験問題に拙作が採用された。難関中学受験の問題になったのだ。その中に「……作者の気持ちの変化を○○字以内で記せ」という問いがあった。とてもじゃないが時間内に解けるものではなかった。私の国語力は、いまだそんなレベルである。

 正直言って作文は苦手だ。だが、書くことは救いである。私の人生に彩(いろどり)を添えてくれている。

 

  2021年2月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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