エッセイ賞の選考 | こんけんどうのエッセイ

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  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 選ばれる側、挑戦する立場から、選ぶ側に回ったのは、いつのころからだったろう。気がついたら選ぶ方にまわされていた、というのが正直なところである。

 所属している同人誌のエッセイ賞の選考に本格的に携わっている。以前にも下読みと言われる予備選考にかかわっていたことはあった。

 エッセイ賞などの文学賞の場合、多少の違いはあるが、だいたい似たような選考過程をたどる。全国各地から集まってきた原稿を何人かで手分けして読んで、評点の高い順から採(と)っていく。第三次または第四次選考が最終選考となり、最優秀賞、優秀賞、佳作が決まる。場合によっては、特別賞や奨励賞などを出す。

 作業は単純である。いい作品とそうでない作品を選別していく。水揚げした鮭を瞬時に雄と雌に選り分けていく。または、ひよこの尻をみながら雌雄を選別していくのと作業的に大差はない。十数名で分担して千本ほどの作品にとりかかる。その中からまず百本程度を選び出す。

「悪い作品を採ることはあっても、秀作をとりこぼすことはない」

 どこかでそんな文章を読んだことがあるが、実際に携わってみると納得がいく。いろいろな人が様々な思いで書いてきたものである。万が一にも見落とすことは許されない。いい作品を採りこぼさないためには、複数人での選定が求められる。

 この百本からさらにもう一段絞り込んで二十本にする。二十本を選出する作業も、さほど難しいことではない。各自がいいなと思って選別した作品を数えてみると、だいたい二十作前後になっている。不思議なことだが、この数は大きくぶれることはない。応募作品が五百本だったころも、千本になっても、一定の完成度の作品として選び出されるのは二十本なのである。

 問題は、選定した作品が十六本だったり二十五本になった場合、限りなく二十本に近づける作業を行う。この二十本が「入選作」になるからだ。この選別が難しい。正直なところ、十六位と二十五位に大差はない。それでも読み比べて優劣をつけていく。応募者側の真剣さを思うと、こちらも生半可な気持ちでは臨めない。誰もが納得のできる優劣差を見つけ出していく。

 人にもよるが、私の場合は、作品を読みながら五段階評価で点数をつけている。五段階といっても、1はない。2もすでに予備選考の中で篩(ふるい)にかけているから、これもない。5は文句なしに次のステップへ上げる。問題は3と4である。3下、3、3上、4下、4、4上と細分化する。最終選考では、5も上中下に仕分ける。選定の基準は、自分の感覚である。自らの感性が問われることになる。

 選考に当たって難しいのは、この二十本前後の作品の選定と、そこから五本選び出した時のそれぞれのボーダーライン周辺の作品の選定である。実は、二十本の選定を行っている過程で、上位五本は早々と決まってしまっている。二十位周辺を選ぶのに難儀する。先頭集団は、すでに独走態勢に入っているのだ。この五本が最終選考に残る作品となる。ただ、ここでも六位の作品、七位の作品は納得のいく形を見つけて切り落とす。五位と六位が拮抗している場合は、六位までは採るが、七位は落とす。

 ここまで絞られてくると、作品の純度もそれ相応に増してくる。この作品を選外にしていいのか。自分の判断は間違っていないか。そんな葛藤が始まる。飛びぬけて秀逸な作品があれば、選考は簡単に終わってしまう。優劣のつけがたい作品が残った場合、これが厄介なのだ。

 客観的に見て、自分が選んだものは本当に優れた作品なのか。そもそもすぐれた作品とは何だ。自分が関心を持っているもの、好みの作品を無意識のうちに優先して選んではいないか。落とした作品の中に、いい作品を取りこぼしてはいないか。強迫観念に駆られ、いったん落とした作品群を何度も掘り返してみる。

 AとBでは明らかにBが優れている。その優れた部分は、自ら光を放つまでに磨き込まれているか。自分の好み、自分の価値観に近いものを選んではいないか。作者の職業や社会的地位、学歴、業績、年齢、性別などが評価の邪魔をしてはいないか。海外からの応募作品を特別扱いしていないだろうか。自問自答が延々と繰り返される。Aを読んだときにはまだよかったが、Dの段階ではすでに疲労困憊であった、では公正で客観的な判断ができない。均一な体調で一気に読むことが求められる。

 予備選考の段階で、選考委員が推薦する作品にはコメントがついてくる。自分が選んだものは、各委員の推したものと合致しているか。誰も推していない作品を自分一人が推す、そんな状況になっていないか。恐れる場面である。自分が間違っているのではないか、といった負のスパイラルに陥る。そうなることを極端に怖がっている自分がいる。だから、採った作品の理由づけより、選外にした作品の合理的な言いわけ探しに躍起になる。明確な論旨で、誰もが納得する形にしておかなければならない。だが一方で、なにもそれほどに他者に迎合する必要はないじゃないか。もっと自信を持て。自分を信じろ。そんな檄(げき)が飛んでくる。試されているのは、オノレの力量である。

 いい作品というのは、原稿自体がいい雰囲気を醸し出している。読む前から書き手の気迫が感じられる。凛とした気概のようなものだ。そんなレッテルを貼って一概に決めつけてはいけない。だが、そんな作品は、応募規定の書き方ひとつとっても、他の原稿とは一線を画している。作者の祈りにも似た強い思いが漲(みなぎ)っているのだ。

 読み手の琴線にそっと触れる、そんな作品に出くわしたとき、救われる思いに包まれる。いくら体裁をとり繕っても、実体験に基づかない作り物は、リアリティーをもって人生の葛藤を衝(つ)いてこない。闇を突き抜ける光を描いた作品、そんなものに出会うことを夢見ている。

 

  2020年11月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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