私はこうして書いてきた | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 (一)

 私がエッセイを書き始めたのは、四十歳になってからである。今年(二〇二〇年)でちょうど二十年になる。人生の三分の一を占めるようになった。

 きっかけは、元妻が精神疾患を発症し、湧き起こる嫉妬妄想から暴力が始まったことによる。このままではこちらがダメになるという強い危機感が、私を書く方向に向かわせた。結局、十二年半に及ぶ闘病生活の末、妻は同類の病を持つ男性のもとに走ってしまった。だが、私はその後も書き続けている。私にとって書くことは救いであると同時に、生活になってしまった。

 そもそも私は文章を書くような人間ではなかった。高校に入るまで、まるで読書をしなかった。皆無である。北海道の小さな漁村様似(さまに)に生まれ育った私は、夏でも冬でも海や山で過ごしていた。友達と一緒のこともあったが、一人でいることの方が圧倒的に多かった。後に経験する都会生活からみると、ケタ外れの自然環境の中にいた。

 私は、小学校の夏休みや冬休みの読書感想文をなによりも苦手としていた。始業式の前夜は、涙なしに過ごした記憶がない。

「せめて、漫画の本でも読んでくれるといいんだけど……」

 という母の溜め息交じりの言葉を、何度、耳にしたことか。

 私が本を読みだしたのは、札幌の高校に進学してからである。高校では寮生活だったが、その四人部屋のうちの一人が、いつもベッドに寝転んで小説を読んでいた。それにつられて私も読むようになった。現代国語の点数があまりにもひどかったため、受験対策という意味合いもあった。日記を書くようになったのも高校生からである。ベッドに腹ばいになりながら、他人に読まれることのない文章を毎晩書いていた。

 大学では、法学部に入ったことにより、レポートの提出に翻弄(ほんろう)された。書いても書いても合格点がもらえず、ひどく難儀したことを覚えている。数多くの判例を読み、レポートを書いた経験は、内容のバランスを考えながら客観的な文章を書く、そんな習得に大いに役立った。

 就職してからも小説を読み続けていた。往復二時間の電車通勤は、格好の読書の場であった。そんな東京での通勤を、二十八年続けた。日記も書き続けていた。ほかに書いていたものは、仕事上のいわゆるビジネス文書だけだった。

 本格的にエッセイを書き始めたのは、前述の通り妻の発病がきっかけである。小説は書けそうにもなかった。エッセイなら何とかなるのではないかと思い、自宅にあった『ベスト・エッセイ集』(文藝春秋刊)三冊を再読してみた。それから未読の十四冊をブックオフで探し出し、貪(むさぼ)るように読み耽(ふけ)った。つまり、このシリーズの最初、八三年版から直近の九九年版までの十七冊をたて続けに読んだ。

 この『ベスト・エッセイ集』とは、前年に新聞・雑誌などに発表された作品が応募対象になる。文藝春秋内での二次選考を経て、日本エッセイストクラブ内でさらに二次にわたる選考があり、最終的に六十編ほどの作品が選出・収録される。プロ・アマ混在の作品集である。つまり私は、千点ほどの作品を読んで、その勢いで書き始めたことになる。

 何の制約もなかったので、一つの作品に膨大な時間を費やした。そんなことを二年ほど続けていたとき、はたして自分の書いているものが世間一般に通用するのか、という疑念を抱くようになっていた。そこで公募雑誌を眺めながら応募した作品が、優秀賞を獲得した。第八回随筆春秋賞である。これを機に誘われるままに同人誌「随筆春秋」に参加する。

 その翌年以降も、毎年のように何らかの賞に恵まれた。先に挙げた『ベスト・エッセイ集』は二〇一一年版をもって廃刊になるのだが、〇五年版をかわきりに五度の収録が叶った。また、産経新聞の書評でも取り上げられた。私のふるさとでは、ボランティアサークルによる朗読会が何度か開かれた。宮沢賢治や石川啄木の前座である。日能研の全国模試の試験問題に採用された作品もあるが、これもまた嬉しい出来事であった。その問題が難解なのには舌を巻いた。

 自分の人生が、思ってもみない方向に進み始めているのを感じていた。なによりありがたかったのは、プロの作家から直接文章指導を受けられたことである。同人誌に所属したことの恩恵である。当時の随筆春秋の代表であった故斎藤信也氏の添削指導がなければ、今の私はなかった。随筆春秋事務局で舞台演出家の石田多絵子氏、脚本家の故布勢博一氏からも丁寧な指導を受けた。作家の佐藤愛子先生とのお付き合いは十七年に及ぶが、いまだに作品評をいただいている。私が賞をもらった原動力は、これらの方々の文章指導なくしてはあり得ない。現在の私を作ってくれた大恩の師である。

 

 (二)

 私は文章を書くのが苦手である。そういっても本気で受け止めてくれる人はいない。「なに言っているんだ」、という目で見られるのがオチである。ある意味、ありがたいことである。だが、理解されないという無念の思いもあるのだ。苦手である証拠は、私が一作書くために費やす時間が、それを物語っている。とにかくサッサッサーと書けないのだ。だから、これまでの年月の中で培ってきた自分なりの手順を踏みながら、作品を作ることになる。

 まず、ワード(パソコン)原稿を四〇字×四〇行、文字の大きさを一〇・五ポイントに設定し、書き始める。目標は四〇〇字詰原稿換算で五枚だ。この設定では、一ページ半ほどで、原稿用紙五枚になる。この書式でとにかく徹底的に書く。もう、何度読み直しても、書き直せない、というところまで持っていく。そうなって初めて、ワードの設定を二〇字×二〇行、一六ポイントに変える。この書式こそ、四〇〇字詰原稿用紙そのものである。この書式に変えることで、句読点の位置の不具合や文章の縒(よ)れというか捻(ね)じれ、歪(ゆが)みのようなものが見えてくる。そして、近接での同一表現の使用に改めて気づかされるのだ。不思議なものである。

 そんなことをしているうちに、何をどう直していいのかわからなくなってくる。つまり、頭の中がグチャグチャになるのだ。そうなったら作品をいったん離れ、別の作品にとりかかる。次の作品も同じことを繰り返す。行き詰ったところで、前作に立ち戻る。すると、不純物が沈殿したせいか、それまで見えていなかったものが見えてくる。だが、今度はもっと短期間で、また行き詰る。沈殿していた不純物が舞い上がり、ふたたび周囲が見えなくなるのだ。そしたらまた次の作品にとりかかる。結局、三作程度のかけ持ちでの作文になる。

 作品の放置とは、灰汁抜き作業でもある。しばらく放り投げていたものを読み直し、直し終えたら天日干しにする。場合によっては清流に晒(さら)す。あまりに文章を捏(こ)ねくり回していると、作品が熱を帯びてくるのだ。その粗熱を除去しながら「だった」「である」「だ」「する」などの語調を整え、回りくどい表現を修正していく。読み直して澱(よど)みを感じるようならダメなのだ。「ここまでやったんだから、もういいんじゃない?」そんなささやきが聞こえてくる。だが、自分への妥協はしない。

 この段階までくると、パソコンのディスプレイ上での作業ではなく、プリントアウトした紙ベースでの推敲になる。つまり第三段階である。作品をプリントアウトすると、また違った景色が見えてくる。一通り読んで澱みなく読めたら、「最終校正前原稿」と名付けたパソコン上のフォルダーに移し、ほどよい醗酵を待つ。いわば熟成庫である。発表前にもう一度読み直す、という段階になる。

 これが三か月に及ぶ一連の工程である。一つの作品を七十回も八十回も手直しすれば、いやが応にも作品の純度は増してくる。ただ、いくら頑張っても素材がよくなければ、光彩を放つことはない。これが私の作文のスタイルである。

 ただ、これですべてが終わったわけではない。発表した作品は、「既刊エッセイ」というフォルダーに収納される。最終保管庫である。収納する作品は、四〇字×四〇行、文字の大きさを一〇・五ポイントの設定に戻す。容量をコンパクトにするためと、この設定が可読性というか視認性がいいのだ。作品のタイトル表示にも工夫を凝らす。タイトルの先頭に、作品名の最初の一文字を片仮名で振り、原稿換算枚数と完成日を記す。例えば「三億円のおひたし」なら、「サ『三億円のおひたし』8枚 04.12.21」となる。これにより、作品は自動的に五十音順に並び、これが何枚の原稿で、いつ書いたものなのかがわかる。

 現在(二〇二〇年六月)、「既刊エッセイ」の中には、二七五点の作品が収納されている。これらの作品は、ときおり取り出しては見直している。定期メンテナンスのようなものだ。その加筆履歴は、作品の末尾に記している。

 これら一連の作業は、パソコンがなければできないことである。私は、パソコンの普及と時を同じくするようにエッセイを書いてきた。偶然にもそうなったのだが、手書きするしかない時代であれば、私はものを書くことはできなかっただろう。

 ただ、私には、ここまでやってもわからないことがある。自分の作品の良し悪しである。内心、上出来だと思った作品に限って、酷評の一撃を喰らう。逆に、あまり期待していないものや、こんなのでいいのか、と思ったものが褒められたりもする。ますますわからなくなる。

 で、今回のこの作品はどうかって? なんだか体よく自慢話を聞かされたような、文学作品とはほど遠い文章ですな。

 

  2020年7月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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