サラブレッドの群れが、あちらこちらで草を食(は)んでいる。その中を一両編成のディーゼルカーが、のどかな響きを立てて走っていく。苫小牧発様似(さまに)行きのJR日高本線は、山と海の間を縫いながら、ひたすら牧場を走る道程である。
平成二十一年(二〇〇九)七月、私は特別な思いを胸に、ふるさと様似を訪れた。この町は、北海道の太平洋岸に面した小さな漁村で、一帯は、日高昆布とサラブレッドの一大生産地となっている。
前年の八月、実家でひとり暮らしをしていた母が脳梗塞になった。七十三歳だった。二か月半の入院の後、札幌の妹のもとで加療生活を送っていた。ところが、翌年三月、室内で転倒して大腿骨(だいたいこつ)を骨折した。暖かくなったら実家に戻るつもりでいた母は、やむなくひとり暮らしを諦めた。ふるさとを離れて生活することは、母にとって初めてのことだった。
様似は、札幌から車で三時間半の僻地である。東京からは、最短でも九時間かかる。当時、私は練馬に住んでいた。いつまでも実家を空き家のままにしてはおけなかった。
「お前に全部まがせるから……。すまないね」
と母に言われていた私は、親類を通じてやっとの思いで実家の処分先を見つけた。母は脳梗塞になって以来、一度も実家には帰っていなかった。札幌から往復八時間の道のりに、体力的な自信がなかったのだ。
「かあさん、持ってきて欲しいものないか」
「……いやー、もうなーんにもいらない」
預金通帳や印鑑、父の位牌など大切なものは事前に妹が引き上げていた。だが、母は着の身着のままで札幌へきていたので、洋服など身の回り品は、すべて実家に残したままだった。何もいらないはずはない。子供たちの手を煩わせたくない、そう思っているのだ。私はアルバムなど、最低限のものだけを確保し、あとは近所に住む伯父(母の兄)夫婦に処分を頼むつもりでいた。
始発電車で練馬を出て、様似に到着したのは昼過ぎだった。様似で汽車を降りたのは、私を含め五人だけである。もう何年も前から無人駅となってしまったこの駅だが、思えば若い日々、進学、就職と、私の人生の節目を見守ってくれた駅であった。
駅前に広がる広い空を眺めながら、大きく深呼吸をした。かすかな潮の香りが鼻腔(びくう)を衝く。帰ってきた、という思いが胸に満ちた。同時に、切なさが胸に溢(あふ)れた。
実家で伯父夫婦と合流した。玄関を開けると、ひんやりとした空気が澱(よど)んでいた。位牌のない父の仏壇に手を合わせ、休む間もなく、アルバム探しを始める。押入れを開けると、もらい物のタオルや石鹸、食器類が、ぎっしりと詰まっている。ポケットティッシュは、大きなダンボール箱から溢れ出していた。昭和十年生まれの母は、何も捨てられない世代なのだ。その量は想像を超えていた。
やっとの思いで押入れの奥から古いアルバムを見つけ出した。そのひとつ、真紅のベルベット地のアルバムを捲(めく)ると、結婚式の写真が目に入った。若き日の父と母が、神妙な顔で神主のお祓(はら)いを受けている。結婚式は、母の実家である銭湯の二階で行われた。私が生れた場所でもある。
傍(かたわ)らにいた伯父に、
「おじさん、ほら、こんなのが出てきたよ」
と指し示すと、「おお……」と言いながら、懐かしげに見入っている。この伯父も母が倒れた三か月後、脳梗塞で札幌に運ばれていた。
アルバムには、私や妹の赤ん坊のころからの夥(おびただ)しい写真があった。その傍らで、若き日の父や母が笑っている。五十年も前の記憶が甦(よみがえ)り、ページを捲るたびにそのときの匂いや感触までが呼び起こされた。ここには確かに家族がいたのだと思った。すっかり時間が止まってしまった。
だが、現実の時間は容赦なく過ぎていく。夕暮れに急(せ)き立てられ、荷物の整理もそこそこに、私は親類の家を訪ね歩いた。冷たい雨が降り出し、七月中旬というのにどこの家のストーブにも火が入っていた。
「ケンかい。いやー、よくきてくれたね」
何年かぶりの突然の訪問にもかかわらず、みんな温かく迎え入れてくれた。翌日も可能な限りの人々を訪ね、その足で札幌へと向かった。ふるさとを懐かしむ時間は、残されてはいなかった。
「すまなかったね、大変だったでしょう」
神妙な表情で母が頭を下げた。
「アルバムだけは、ちゃんと見つけてきたから。今度、美香がもってくるよ」
仕事の都合で一緒にいけなかった妹が、翌週、私が探し出したものを回収してくることになっていた。私は二時間ほど母のもとで過ごし、その日の最終便で東京へ戻った。
後日、妹が写真を持ち帰ると、母は古いアルバムを抱きかかえるようにして自室に消えた。扉の向こうから子供のような嗚咽(おえつ)が、しばらく続いていたという。その話を聞いたとき、「もう、なーんにもいらない」と言い放った母の言葉が胸に迫り、涙が溢れた。
2009年11月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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