南蛮医栗崎道有との接点を求めて | こんけんどうのエッセイ

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 栗崎道有(どうう)は、江戸中期の南蛮医である。

 私は、平成十七年(二〇〇五)から祖母(母方)の家系を調べている。祖母方は姓を米良(めら)といい、熊本藩主細川家の下級藩士であった。赤穂義士研究家の佐藤誠氏との知遇を得て、十四代前まで遡ることができた。二代米良市右衛門重但(しげただカ)が、元禄十六年(一七〇二)に東京・高輪の細川藩邸にお預けとなっていた赤穂義士堀部弥兵衛金丸(あきざね)の介錯を行っている。これが義士研究をする佐藤氏と出会うきっかけとなった。

 あるとき、赤穂義士関係の本を眺めていて、「栗崎」という姓が目に留まった。私はハッとして米良家の除籍謄本を捲(めく)った。曾祖父米良四郎次(しろうじ)の次女照が、昭和三年(一九二八)に嫁いだ先が「東京市本所区柳島梅森町二十六番地の戸主、栗崎近之助」とある。ドキッとした。曾祖父は、明治二十二年(一八八九)に屯田兵として熊本から北海道に渡っている。

 その本は以前に佐藤氏からもらった『忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声』(野口武彦著、ちくま新書)である。最初この本を読んだときは、米良四郎次の除籍謄本の入手前だったこともあり、「栗崎」の記述は読み過ごしていた。

 栗崎道有は、江戸中期の蘭学医で、諱(いみな)を正羽(まさゆき)といい、道仙と号した。寛文四年(一六六四)に長崎で生まれている(寛文元年生まれ説もある)。

 道有の祖父、道喜がルソン(マカオ説もある)へ渡航し、南蛮流の外科医術を取得して以後、栗崎家は代々長崎で開業している。道有の代の元禄四年(一六九一)に幕府に召し出され、将軍徳川綱吉に拝謁、二百石で江戸城に勤め、元禄十五年に旗本寄合に列している。

 道有は江戸参府のオランダ使節にもたびたび接触し、紅毛(オランダ)流外科医術を習得し、当代随一の外科医との名声を博していた。

 この道有が、元禄十四年の刃傷松の廊下事件(元禄赤穂事件)にかかわっている。刃傷松の廊下事件とは、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)が、江戸城松の廊下で高家(こうけ)筆頭吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしひさ)に斬りつけた事件である。幕府の沙汰は、浅野内匠頭に対して即日の切腹、吉良上野介は何らお咎(とが)めなしという不条理なものだった。翌年、主君の無念を晴らすため、赤穂義士四十七名が吉良邸討ち入りを果たしたのが、いわゆる忠臣蔵である。

 この刃傷事件に際し、老中の命で急遽登城し、吉良上野介の治療に当たったのが栗崎道有である。その後も道有は、しばしば本所の吉良邸に出向き、上野介の予後の処置を行なっている。

 「栗崎」というそれほど一般的でない姓と本所という共通の地名に、私は栗崎近之助が道有の子孫ではないか、という思いを抱いたのである。

 佐藤氏にさっそくそのことをメールで伝えると、早速に返信が届いた。

「栗崎道有は、幕臣として江戸幕府が編纂(へんさん)した『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』という系図集にも載っています。しかし、これ以後の子孫について、私は詳しい情報を持っておりません。道有は、伝来の文書も手放したらしく、現在は東京大学附属図書館にあります。栗崎の墓は吉良と同じ中野区上高田の萬昌院功運寺にあって、ご子孫が建てた卒塔婆(そとば)がありました。施主としてご子孫の名前があったように思います」

 佐藤氏の該博ぶりには、改めて舌を巻く。佐藤氏はお寺まで訪ねていた。

 栗崎家が代々開業していた長崎は、有明海を挟んで熊本に面している。道有の後裔(こうえい)の栗崎道隆氏が、熊本市本山町で医を生業としているという記述をインターネットで見つけた。曾祖父米良四郎次の熊本での居所は島崎(しまさき)村で、本山町との距離はわずか数キロである。元禄期の米良市右衛門の屋敷は手取(てとり)で、今の熊本市役所付近である。本山町とはいっそう距離が近くなる。

 さらに、「この道隆氏のご令姉トキ氏は東京女高師の出身で、森山辰之助氏(前青森県師範学校長)夫人となり、『婦女新聞』の長い愛読者だったが、昭和十二年(一九三七)春、他界された」という記述をネットにあった。この記述が正しいとすれば、道隆氏の生まれは明治中期以前と推測できる。四郎次と同世代の可能性がある。ここで「熊本」という、新たなキーワードが加わった。

 だが、私がドキリとした最大の根拠は、四郎次が自分の娘たちを次々と看護師にしていたことである。四郎次は明治二十二年に屯田兵として渡道し、その後、営林署の職員となり、浦河町で国有林の監視を行っていた。二人の妻(前妻と後妻)との間に十四人の子をもうけ、うち八人が女である。全員を看護師にしたわけではないが、当時の北海道の片田舎ではとても珍しいことだった。これは祖母アキ(四郎次の五女)の言葉として、私の母が記憶していた話である。

 現に次女照のすぐ下の妹ハルは、医者に嫁いでいる。栗崎近之助が医者だったとしたら、その確証はいよいよ深まるのだが、それを探索する術はない。

 「栗崎」「本所」「討ち入り」「熊本」「医者と看護師」……こうも共通点が揃(そろ)ってくると、栗崎近之助が道有の子孫ではないかと思いたくなるのが人情である。熊本での四郎次と栗崎家との接触は、十分に考えられる。熊本の米良家では、道有と上野介の関係については、もちろん承知していたはず。問題は、北海道に渡ってからの四郎次と東京の栗崎家との接点である。たとえ道有とは無関係な栗崎家だったとしても、娘の照を東京の本所に嫁がせているのは事実であり、東京と北海道の片田舎との間に、何らかの接触があったことになる。

 もし、私の推測が正しいとすれば、吉良上野介の手当てに当たった医者の後裔と、その上野介の首を討ち取った一党のひとり、堀部弥兵衛の介錯を行った米良市右衛門の子孫とが、二二五年の時を経て再びめぐり合っていたことになる。だが、今のところそれ以上の史料を得ていない。

 

 元禄十五年に赤穂義士に討ち取られた上野介の首は、その翌日に泉岳寺から吉良邸に戻っている。首と胴体を縫合(ほうごう)したのは栗崎道有である。道有は首だけではなく、ほかの刺し傷も丁寧に縫い合わせていると、道有自筆の「栗崎道有日記」は記している。

 上野介の亡骸は、牛込の萬昌院に葬られた。享保十一年(一七二六)に没した道有自身の墓もこの萬昌院にある。大正七年(一九一八)、三田の功運寺と合併して中野区上高田に移転、萬昌院功運寺となった。その時、上野介も道有の墓も一緒に移されている。上野介を納めた棺(かん)は、無傷で掘り出されたという。

 

 四郎次の次女照は、昭和三年に栗崎近之助と結婚する以前、二人の夫と離別している。だが、この栗崎近之助も数年後に死亡し、近之助との間の子である憲之助を栗崎家に残して、照は昭和十一年に四郎次の戸籍に復籍している。

 照は昭和二十四年(一九四九)、東京都北多摩郡狛江村和泉一六六七番地で死亡。享年五十九歳、二番目の夫との子がその死亡を届け出ている。

 かつて照が嫁いだ「東京市本所区柳島梅森町二十六番地」には、現在ビルが建っており、栗崎家の痕跡はない。

 歴史を探し求めることは、史料の中から「点」を見つけ出し、それを丹念に「線」で結び付けていくことである。「縁(えにし)」を結ぶ作業である。歴史にロマンを感じ、それを求めることは、先人に対する最大の供養ではないかと、近ごろ思っている。

 

 追記

 平成二十二年(二〇一〇)二月七日、筆者は佐藤誠氏の引き合わせにより、吉良邸討ち入り後松山藩邸にお預けになっていた堀部安兵衛および不破数右衛門の介錯を行った荒川十太夫後裔池田元氏、忠臣蔵に造詣の深いイラストレーターのもりいくすお氏の四名で萬昌院功運寺を訪ねる機会を得た。

 時空を超えたキャスティングによるタイムスリップである。特別な感慨をもって吉良上野介と栗崎道有の墓を詣でることが叶った。

 

  2009年11月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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