わが青春のESS (9)~(16)  | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 (九)

 秋のディベートでは、フルブライトの交換留学で同志社大学にきていたS・ライマン教授にジャッジをお願いした。教授は週に一度、龍大での講義を持っており、龍大ESSの企画の吉田から紹介されたのである。教授は休日を返上して、快く引き受けてくれた。ライマン教授は、UCLAでディベートのコーチをしていたという輝かしい経歴があった。

 後日、このライマン教授を誘ったことが、龍大法学部の事務長の耳に入った。おそらく、教授が学生との交流を何気なく口にしたのが伝わったらしい。私と吉田実とプレの山本博義の三人が事務長に呼び出され、大叱責を受けた。

「お前たちは、あの方をどなたと心得ている」

 事務長の唇が怒りでわなわなと震えていた。ライマン教授は、社会学の世界的権威で、お前ら一介の学生が気安く話せる相手ではない。大学がやっとの思いで頼み込んできてもらっている先生だ。多忙な先生なのだから、二度とこのようなことはするな、という憤激であった。

 数日後、大学に顔を出したライマン教授に謝りにいくと、日本の学生とまたとない交流ができてとても有意義だった。もう二度と大学関係者には言わないからと、逆に謝られた。その時、教授の傍らに学部事務室の若い職員がいた。我々の一件があってから、教室への送り迎えに職員がついていた。このときも教授に近づく我々を職員が制するような態度に出たのだが、教授が「彼らは私の大切な友達なんだ。もう君は戻ってよろしい」とその職員を追い払ってしまった。

 また誘ってくれという教授の気さくさに気を許した我々は、ことあるごとに教授を連れ出した。茶道部でお茶のお手前を体験してもらったり、合気道部の見学や大学祭では居合のデモンストレーションに飛び入り参加し、日本刀で藁(わら)の束の試し斬りするなど、学生顔負けで無邪気に喜んでいた。

 教授はこれまでに、能や歌舞伎、社寺仏閣の見学、舞妓さんがいる料亭での接待と、日本の一流文化を見ていた。彼にはそういう接待がたまらなく窮屈だったようだ。我々学生と気軽に話しながら、日本の文化に触れることを楽しみにし、心から喜んでいた。

 

 ディベートの試合当日は、大人数が集まった。二人制の場合、四十名のパンツ(パティシパンツ=選手、出場者)に、ジャッジ、チェアマン(司会進行)、タイム・キーパーが十名ずつ、これにKFCの幹部が加わる。さらにオーディエンス(見学者)を合わせると、ファイナル(決勝戦)では五百名近い人数となった。

 試合当日はディベ専が司令塔となり、運営委員長が細かな作業を補う。ジャッジ・カンファレンス、パンツ・カンファレンス、チェアマン・カンファレンスと試合の最終確認を分刻みのスケジュールでこなし、オープニング・セレモニーを迎える。

 オープニング・アドレス(開会の挨拶)は、委員長が行うことになっていたが、クロージング・アドレス(閉会の挨拶)は、KFCの幹部が持ち回りで行うことになっていた。私がディベ専になったとき、クロージングだけは勘弁してくれと、引き受ける条件にしていた。人前で話すのが苦手なうえ、ウィットに富んだ英語のスピーチをしなければならない。私にはあまりにも荷が重かった。

 ディベートのファイナルでは、ディベ専がチェアマンを務めなければならない。ファイナルを前に張り詰めた空気のなか、静まり返った会場の視線が、一身に刺さってくる。京都のディベ専とはどんなヤツだ、という好奇の目が注がれる。

 ファイナルであるという旨を宣言した後、全員に起立を促し、五名のジャッジを拍手で迎え入れるという手順であった。話す内容があらかじめ決まっていたので、チェアマンは難なくこなすことができた。

 このディベート・コンテストにも様々な慣習があり、ファイナルの試合の司会はディベ専が行うが、試合後の結果発表は、デリゲ(運営委員)の二回生の女性が務めることになっていた。私は、秋の二人制ディベートのファイナルの司会を、ある女性に託そうと決めていた。

 

 (十)

 私がファイナル(決勝戦)のクロージングの司会を託したのは、産大(京都産業大学)のデリゲ(派遣委員)で、将来、産大のディベートの一翼を担うであろうと目されていた女性だった。彼女は、前回の五人制ディベートの大会で大きな失態を演じていた。

 大会関係者が定刻どおり全員そろっていたなか、パンツの一人であった彼女だけがきていなかった。産大のチーフと幹事長が私のところにそれを言いにきて、初めてそれがわかった。当時は、携帯電話がなかったので連絡のとりようながい。アパートにはすでにいないという。定刻になり、オープニング・セレモニーを予定通り行い、各大学はそれぞれの試合会場に散っていった。

 産大の幹部二人が、なんとか頼むと頭を下げてきた。ディベートのパンツにとって、大会出場までの努力は並大抵のものではない。試合開始の数分前、私はジャッジ・ルームに行って、パンツの一人がそろっていない旨を報告し、全体の試合開始時間を少し遅らせてもらいたいとお願いし、了承をもらっていた。試合開始は、十五分後ということになった。

 だが、その十五分が近づいても彼女の姿はなかった。産大の関係者は、手分けして玄関や門の前に張りついていた。二回生まで親しくしていた産大の幹事長が、これ以上みんなに迷惑をかけらない、うちは棄権するから試合を開始してくれと言ってきた。彼の顔は蒼白で苦渋に満ちていた。私は心配するなという意味をこめて彼の肩に手を回し、トントンと叩(たた)いてやると、深々と頭を下げた。

 私は運営委員長に試合のスタートを指示し、産大の会場である教室へと向かった。教室に入ると、産大の四人のパンツが一斉に哀願するような目を向けてきた。そこにいたジャッジは、R・マクドーナルである。冷徹なジャッジとして恐れられていた女性で、大会の運営の時間にも厳しく、これまでにも何度か小言をもらっていたことがあった。私は試合スタート時間ぴったりに教室に入ってからアシスタントの女性に、幹事長と副幹事長を呼んでくるようお願いした。できるだけゆっくりこいと耳打ちしていた。

「ただ今、幹部がまいりますので、お待ちいただけますか」

 R・マクドーナルと相手チームにお願いした。マクドーナルは、神戸からきていたので、ホテルを予約している。幹部がくるまでの間、私はマクドーナルのかたわらへいき、いつものホテルの予約が取れなかった話をし、ミスター大槻がホテルまで案内するといった雑談をし、時間の引き延ばしを行っていた。マクドーナルの付き添い役の大槻は、甘いマスクの龍大の男で、マクドーナルのお気に入りの学生だった。

 幹部がそろったところで、私は、マクドーナルと相手チームに、時間がきたのでこの試合を不成立としなければならない。だが、今日の日を目指してみんな頑張ってきたので、もう少し待ってはもらえないだろうかとお願いし、全員で深々と頭を下げた。同時に産大のパンツと応援にきていた者がみんな起立して頭を下げた。産大の女の子の鼻をすする音が聞こえていた。本来のスタート時間が九時二十分でそれから十五分遅らせて、さらに五分が過ぎていた。運営時間的に大丈夫なのかと訊かれたので、あと十五分は待てると答えると、マクドーナルはすんなりと了承してくれた。

 私は運営委員長に他の大学のスタート時間を二十分遅れの、九時四十五分にするよう指示していた。二日目の試合なら、新幹線や飛行機の予約時間があり、定刻通りに終わらせなければならないのだが、初日はその心配がいらない。だが、午前十時までは待てるが、それ以上の引き伸ばしは難しかった。

 しばらくして、玄関で待っていた産大のメンバーが息を切らせて教室に駆け込んできた。

「今、きました。すいません」

 と肩で息をしながら頭を下げた。その知らせに、会場から安堵のため息が漏れた。真っ赤に上気した顔で彼女が教室に入ってきたのは、その直後である。時間切れだと半ば諦め、みんなが腹を括っていたときであった。大変お待たせをしました、ではお願いしますと、マクドーナルにいうと、

「もう少し待ってあげましょう、見てご覧なさい。この状態じゃムリよ」

 遅れてきた彼女の息が上がっていた。

「おかーあちゃん、電話やでぇ」といって電話を繋(つな)いでくれたマクドーナルの幼い子の顔が脳裏をよぎった。産大の試合は、全体から遅れること十五分、午前十時に開始された。試合開始を見届けた私は、幹部控え室に戻る途中、産大の幹事長に、

「あんまり怒らんときぃ、彼女のこと」

 と耳打ちすると、幹事長はうっすらと目に涙をためていた。

 彼女が遅れたのは、前日まで徹夜に近い練習をしていて、目覚し時計が鳴らず、目が覚めたらオープニングの時間だったという。産大から会場の京都教育大学までは、京都盆地を南北に端から端までを結ぶ距離であった。彼女はタクシーで駆けつけていた。試合後、私のもとにきて、

「すんまへんでした」

 と涙ぐむ彼女に、

「オレに謝らんかてええ。産大にはええ仲間がいっぱいおるなぁ」

 といったら、彼女の涙は嗚咽(おえつ)に変わった。その後、幹事長やチーフから、しこたま怒られたであろう彼女のことが気にかかっていた。

 

 (十一)

 名誉挽回を託し、私はファイナルのクロージングの司会を産大の彼女に託したのである。試合の数日前、最終打ち合わせの中で彼女を指名した。クロージングの司会というのは、ディベ専から選ばれる名誉な役であった。

 秋の二人制ディベートは、三回生にとって大学生活最後の集大成の試合であった。パンツ(選手)にとっては生涯忘れがたい試合となる。それが私にとっても忘れられない試合となった。

 ファイナルは、関西学院大と上智大だった。試合後、ジャッジ・ルームでの議論が白熱した。甲乙つけがたい、いい試合であった。ファイナルのチェアマンをしながら、私自身勝敗を決めかねていた。英語力では圧倒的に上智であったが、ディベートの試合では英語力は問われず、あくまでもロジック(論理)が重視された。

 十五分で終わるはずのジャッジ・カンファレンスが三十分にも及んだ。五名のジャッジの総合得点では、関西学院が上回っていたが、勝者は上智ということになった。ディベートでは、総合得点で上回っていても試合に負けることがある。

 私は、五名のジャッジのバロット・シート(採点表)を集め、各自の点数と優勝校を確認した。そのバロットを持って幹部の控室へ急ぎ、待っていた司会役の彼女の前でメモを書いて渡した。メモには大学名とその横に総合得点を記入し、勝者に丸印をつけた。

「ええか、総合得点では関西学院、勝者は上智や、ええな」

 この時点で勝者を知れるのは、ファイナルのジャッジを除くと、私と控室にいる委員長、副委員長、それに彼女の四名だけである。私がバロットを持って入った時点で、それ以外のメンバーは外に出された。緊迫した雰囲気の中で、幹部に囲まれた司会の彼女は、ことのほか緊張していた。

 時間が押していたこともあり、会場へと向かう廊下を歩きながら、私は彼女にいくつかの指示をしていた。今回は得点の高い学校と勝者が違う。発表するときは、アファマティブ・サイドの大学名、得点、それにネガティブ・サイドの大学名、得点、そして勝者の順だが、ネガティブの得点を発表した後、間髪入れずに勝者をアナウンスしろ、そうしないと会場が、点数だけで判断してしまう。そんなことをいい含めていた。

 我々が会場の最前列の席につくと、騒がしかった会場の空気が一気に張り詰めた。ステージの脇に立った彼女の足が小刻みに震えているのが目についた。彼女の視線が私に注がれている。私はジャッジの入場を準備している運営委員長からの合図を待っていた。

 私が小さく頷くのを合図に、クロージングが始まった。司会者が、ジャッジを会場に迎え入れるため、全員に起立を促す。続けてチーフ・ジャッジの総評がある。D・ホプキンスが、今日の試合がいかに僅差のいい試合であったかを、ウィットに富んだスピーチで締め括った。

 結果発表は、チーフ・ジャッジからではなく司会者が行う。ステージ中央の演台の前に立った彼女が、打ち合わせどおり発表していく。会場が水を打ったようにシーンとしている。彼女の声が緊張して震えているのが分かった。

「…… so decision goes to ……(ということで勝者は)」

 といったとたん、会場の一角にいた関西学院側から悲鳴にも似た大きな声が上がった。その声に焦った彼女は、次の瞬間、

「…… affirmative side」

 と言ってしまったのである。何を血迷ったか、敗者側をアナウンスしたのだ。

 私は、耳を疑うと同時に、立ち上がり、大声で両手を振りながら、

「No! No!」

 と叫び、ステージに駆け上がった。バロットの点数と勝者が違う旨を説明し、改めて勝者を宣言した。上智サイドからの喜びの声と、会場の拍手を上の空で聞いていた。

 私と幹部は、クロージング・アドレス終了後、関西学院大学の席に向い、平身低頭で謝ったのであった。関西学院の落胆ぶりは、見ていられないほどであった。

 すべてが終了した後、司会の彼女が別のデリゲに肩を抱えられるようにして控室にやってきた。「スイマセンでした」そんな言葉も聞き取れないほど、彼女は憔悴(しょうすい)していた。

「緊張したなぁ、今日は」

 と声をかけると、そのまま泣き崩れてしまった。

「この悔しさ、来年の自分の試合で頑張れ」

 私がかけられる精一杯の言葉であった。

 

 (十二)

 私がディベ専になってすぐのころ、京都女子大学のディベートのチーフから、レクチャーを頼まれたことがある。それは、春のディベート・コンテストのテーマであった防衛問題に関するものだった。

「うちら女子は防衛問題に疎いねんわ。お願いや、なぁ」

 と手を合わされたのである。

 私が龍大のディベセク(ディベート・セクション)に入ってすぐ、三回生のチーフから防衛白書を買うようにいわれギョッとしたことがあった。このクラブは何だろうと思ったのだ。ちょうどその年のディベートのテーマが防衛問題だった。防衛白書は、半年でボロボロになるほど読み込んだ。大学での私の専攻が国際政治論だったこともあり、防衛問題は興味のある分野だった。

 京女へいくためには、京阪電鉄の七条駅で降り、東山へ向かって歩く。三十三間堂を右に見ながら、東大路七条通りに出たところで知積院(ちしゃくいん)と妙法院の間の緩やかな坂道を登る。その坂道の奥に京女があるのだが、そこには京都女子中学、高校、短大、大学があり、通称、「女坂」と呼ばれていた。

 京都にきたときから女坂の存在は聞いていたが、実際に歩いたのはこのときが始めてであった。ちょうど下校時間にあったっていたので、ガヤガヤとおしゃべりをしながら、次々と女の子が坂道を降りてくる。その数たるや大変なもので、怒涛(どとう)のように次々と女が押し寄せてくるのである。私ひとりが女性の波を掻(か)き分けるように坂道を逆行していた。すれ違う彼女らの視線が露骨に刺さってくる。さして道幅も広くもない女坂だが、登下校時には八千人の女生徒・女学生で賑わうのである。

 やっとの思いで京女の門の前に立ったが、約束していた京女のチーフが見当たらない。女子大生が次々と門から出てくる。こういう場合、オドオドしてはいけない。私は意を決してその門を突き進んだ。いくらも歩かないうちに、駆け寄ってきた門衛に後ろから腕を捕まれ、

「あんた、いかんがな、勝手に入ったら」

 許可証が必要だというのだ。間もなく彼女が現れ、難なく解放された。女子大恐るべし、私は耳から湯気が出るほど汗だくになっていた。

 

 KFCには委員長や副委員長がいるが、大きな発言権を持っていたのが、ディベ専であった。ディベートという特殊な技能が一目置かれていたのである。京女のチーフに従って教室に入ると、二十名ほどの女性がいっせいに起立し、

「よろしくお願いしますぅ」

 と京風のアクセントでいわれ、カッーと頭に血が上った。汗を拭き拭き教壇に立ったところで、鼻の奥に鉄錆(てつさび)びのような臭いを感じた。アッと思った瞬間、鼻血が流れ落ちた。女にあったってしまったのである。クスクスという笑いが聞こえ、しばらく休憩した後、鼻にティッシュを詰めて再び教壇に立ったのである。だが、私のその姿にとうとう笑いの堰(せき)が決壊し、しばらく私も一緒になって笑い続けた。この一件のおかげで、終始和やかな講義となって、大いに助かった。

 

 KFCのディベ専をしていても、合間を縫って学内のESS行事には参加しなければならない。毎年、重荷だったのは、オラコン(オラトリカル・コンテスト=英語弁論大会)である。ガイドのメンバーはオラコンに力を入れていたが、ディベートは、なかなかオラコンにまで手が回らなかった。ディベート大会と時期が重なっていたためである。

 このオラコンは学内で二度の予選が行われ、上位三名が学長杯争奪英語弁論大会に出場することになる。一回生のレシコンでモッサンに鍛えられた私も、完璧に暗誦していたスピーチを本番では必ずとちっていた。チーフが悪い成績を出すわけにはいかない。学内の二次選考まで進んだ私は、舞台裏にこっそりと缶ビールを持ち込み、それを一気に飲んで本番に臨んだ。

 相変わらず緊張したが、アルコールが功を奏し、結果は五位となった。私が一回生のとき、ディベートのチーフであった松本さんが広島修道大学の学長杯に出場し、優勝していた。副賞は、一か月間のオーストラリア旅行だった。スピーチの内容がどんなものだったかは忘れたが、松本さんは、私に最も影響を与えた大恩の先輩である。私の実力は、彼の足元にも及ばなかった。

 

 (十三)

 私は、一回生、二回生とほぼ順調に大学の授業の単位を取っていたが、三回生ではほとんどの授業をボイコットしていたため、年明けの試験では、ことごとく単位を落としていた。大学は、三年間満単位をとると、最後の一年は卒論だけで済むようなカリキュラムになっていた。

 ディベ専の主な仕事が終わったころ、私は燃え尽き感に苛(さいな)まれていた。完全燃焼ではなく、不完全燃焼であった。それは、自分の能力を超えた仕事を引き受けたのはいいが、そのせいで自分の大学の後輩に対する指導がまったくできなかった。その悔恨の思いは深いものであった。私はひどく落ち込んでいた。その結果、次期KFCディベ専への引継ぎを終えた十二月、私は龍大ESSに退部届けを出したのである。

 部活を三年間やった者が退部届けを出すことは、常識では考えられないことだった。四回生は名誉部員のようなもので、ほとんど部活に参加する必要がなかった。それでも辞めると決めたのは、当時の私の潔癖性がなせるものだった。それが今、悔やんでも悔やみきれないほどの悔恨となっている。当時の私には、それ以外の選択肢がなかったのだ。えらそうな顔をして後輩の前に顔を出す自分が、許せなかったのである。

 退部という行為は、私が最も忌避(きひ)していたもので、それまで退部をほのめかす同輩や後輩に対しては、慰留させるために必死で説得してきた。特に後輩の場合は、何度も呼び出し、夜を徹して説得したこともあった。後で絶対に後悔する、この苦しさを一緒に乗り越えよう。苦楽を共にしてきた仲間やないか、といって思い留まらせてきた。そんな後輩たちが、私の言葉を信じて頑張っていたのである。

 彼らを裏切って、私は誰に相談することもなく、退部届けを出したのである。それは私を育ててくれた四回生の先輩を裏切る行為でもあった。彼ら四回生をフェアウェルで送り出すというのが、三回生最大の使命なのだが、私はもはやフェアウェルまで待てなかった。考え抜いた末の決断だった。

 私の退部を知った先輩、後輩が連日のようにアパートにやってきた。彼らに合わす顔がなかった私は、できるだけアパートにいないようにしていた。だが彼らは、夜遅い時間や午前中に訪ねてきて、執拗(しつよう)に慰留を迫った。

 四回生の前チーフの九鬼さんは、何度私のところに足を運んだことか。最後にきたとき、

「お前な、俺は松本さんにしこたま怒られたわ。なんでそこまでお前を追い詰めたんや、って。松本さん、東京から飛んで来そうな勢いやったでぇ」

 松本さんは私が一回生のときのチーフで、私にとっては絶対的な存在であった。私がチーフになる際も、連日連夜私のアパートに訪ねてきて、チーフとしての心構えや、ディベートのノウハウを叩き込んで卒業していった。

「あのとき俺を引き止めたのはあなたやないか。辞めんといてください」

 と食ってかかりながら泣きついてきた後輩もいた。そんな彼らの姿を見て、私は自分の罪深さを強く感じていた。

 もし私がESSに留まったとして、そんな私をフェアゥエルで送り出す後輩の姿を想像すると、それを甘んじて受け入れている自分が許せなく、耐え難かった。彼らの熱心な説得に対し、どうか私にとって大学生活最後の一年、自由な時間をください、といって頭を下げていた。今考えると、バカげているのだが、私は頑固で不器用だった。周りからすると、私の行動は理解できないものだったに違いない。

 

 昭和五十六年(一九八一)十二月十七日、私は北海道へ帰省すべく日本海回りの列車に乗っていた。京都盆地を抜けた列車は、琵琶湖にそって北上していく。窓外の景色を眺めていると、湖畔に和邇浜(わにはま)が見えてきた。涙が溢(あふ)れどうしようもない。私は心の中で彼らに手を合わせ、詫(わ)びていた。

 和邇浜は、毎年、ディベートのメンバーが一泊でクリパ(クリスマス・パーティー)を行う場所で、その日がちょうどクリパにあたっていた。クリパは、ディベートのすべての行事が終わった打ち上げであり、それを仕切るのは一回生であった。一回生にとっては、初めて自分たちが企画するイベントでもあった。

 一晩中飲んで騒いで、それでももの足りなくて、小波が寄せる湖畔に出て走ったりわめいたりしていた。月光に照らされコバルト・ブルーにきらめく湖面を眺めながら、仲間たちと語り合った記憶が甦(よみがえ)る。チーフ不在のクリパなど、ありえないことだった。

 彼らは今ごろどんな気持ちでクリパの準備をしているのだろうか。そんな思いが胸を締めつけた。

 

 やがて列車は暗鬱な雲が垂れ込める日本海に出た。私は思い立ったように金沢の駅で途中下車した。眺めていた時刻表の地図に、富来(とぎ)という地名を見つけ、能登半島へ向かうバスに乗り込んでいた。

 富来は、高校時代の現代国語の教科書にあった、作家福永武彦氏の随筆「貝合わせ」の舞台となった地である。そこにある湖月館という旅館へ向かったのである。私は重い気持ちを引きずりながら、思いつきの旅へと踏み出していた。

 

 (十四)

 ESSに入部し、KFCのディベ専を引き受けたことにより、京都はもとより関西一円の大学に足を運ぶことができた。時には東京まで足を伸ばすこともあった。この一年間は、自分の大学にいる時間より、よその大学で過ごした時間の方がはるかに長かった。一般の学生が経験できない幅広い交友関係に恵まれ、それが紛れもない私の宝となっている。

「これからの医学は〝脳〟やと思う。見てみぃ、この単語」

 脳外科医を目指す京大の先輩が、分厚い医学書を見せてくれた。一日に一〇〇個の単語を覚えるという。ディベート大会が進行するなか、幹部控室で一心不乱に勉強する彼の姿が印象的だった。

 連盟主催の勉強会の合宿で、周りに馴染めずひとりポツンと孤立している男がいた。彼は京大文学部で哲学を専攻している同輩であった。彼を囲んで話しているうちに数名の女の子も加わってきた。男と女、恋愛とSEXについて、夜の更けるのも忘れて熱く語りあった。ディベートでも見せたことのない白熱した議論となった。

 四半世紀の時を経た今でも、断片的に思い出す場面がある。当時は、楽しさよりも、厳しさや大変さの方が勝っており、無我夢中だった。

 三回生の後半、十一月に入ってから、私は授業へ顔を出すようになっていた。だが、自分の授業の担当教授の顔すらわからない。恐る恐る教室に入って、真面目そうな女の子を見つけては、

「あの……、ここは民事訴訟法の山下先生の授業ですか」

 と訊いていた。たいがいの女の子は呆(あき)れた顔をするが、なかにはクスッと笑いながら好意的に接してくれる子がいる。そんな子からは、授業の進み具合やノートを見せてもらうことができた。だが、そんな勉強は付け焼刃にすぎなかった。大学の試験は、そんなに甘くはなかった。私は三回生で専攻していた学科の単位をことごとく落とし、四回生では留年の窮地に立たされていた。目いっぱい授業があった。追い討ちをかけたのが、卒論と就職活動であった。

 卒論提出が一か月後に迫った昭和五十七年十一月十日の夜、実家の母から思いもかけぬ電話があった。父が入院し、年を越せないかもしれないというのだ。父は肝硬変だった。そのとき私は、まだ卒論を書き出していなかった。

 それから一週間、昼夜敢行で卒論に取りかかった。担当教授の計らいで、提出日前倒しで学部事務室に卒論を提出した。教授から直接手渡すようにいわれたのが、あのライマン教授の一件の事務長だった。奥の部屋から出てきた彼が、私の顔を見て目を丸くした。

「お前やったんか。話は聞いてるさかい、はよぅ、帰ってやりぃ」

 この時ばかりは、まるで父親顔で、妙に優しかった。

 北海道に帰った私は、正月明けの試験を目指し、父のベッドの傍らで猛勉強を始めた。同室の患者や看護師までが、「勉強熱心な立派な息子さんだ」と私を褒め称えた。主治医に至っては、司法試験の勉強ですかと真顔で訊いてくる。瀕死の父を前に、留年の瀬戸際だともいえず、私は笑ってごまかすしかなかった。

 試験には何とかギリギリで受かることができた。卒業式も出られぬまま、父を看病する病室から就職のため、東京へ向かったのである。肝臓はすでに機能していないのだが、と主治医が首をかしげるなか、父はその年の六月まで命を保った。

 留年をかけた四回生での試験勉強は、私のなかでトラウマとして残っている。二十五年を経た今でも、年に数回、夢で魘(うな)されるのである。

 

 (十五)

 卒業が危うい状況であったが、父の危篤の知らせを受けるまでは、アメリカ留学を夢見ていた。自分の英語を完成させたいという思いと、異文化を冒険してみたいという願望があった。

 三回生のとき、私はESS活動を通じて英会話学校に勤める男と知り合っていた。彼は私の四、五歳上で、大学を卒業してから就職もせずに世界各国を放浪していた。片道だけの旅費で出かけ、先々の国でアルバイトをして過ごしていた。ときおり日本に帰ってきては、まとまったお金を稼ぐために数か月働くという生活をしていた。

 そんな彼から、一緒にヨーロッパへいかないかと誘われたことがあった。新潟から週に一便ナホトカ行きのフェリーが出ており、シベリア鉄道を利用してヨーロッパに入るというのだ。とてもムリなことであり断ったのだが、魅力的な話として私の中に留まっていた。

 龍大ESSの同期からも誘われたことがある。卒業したら回教徒としてアメリカへいかないかというものだった。回教徒とは、仏教の布教者である。残念ながら、ムリな話であった。後に彼は、その夢を実現させた。現在、彼はニューヨーク本願寺の住職をしており、数年前まではニューヨーク仏教連盟会長を務めていた。アルカイダによる自爆テロ事件以来、彼は毎年、ニューヨークのセントラルパークで盆踊りを主催している。

 私は父の瀕死の報により、自分の夢を呑み下さざるを得なかった。たとえ父が元気であったとしても、そんな冒険はしなかっただろう。

 英語とは無縁の会社に就職し、数年間は身につけた英語を忘れないための努力をしていた。おもに通勤電車を利用してのものだった。それも今では元の木阿弥、何事もなかったかのように完全に英語を喪失しまっている。

 だが、ESS活動を通して得た最大の収穫は、英語が単なるコミュニケーション手段に過ぎないということを知ったことである。いくら英語が話せても、その英語を通して何かができなければ意味がない。それは、在学中からアメリカ人留学生を通して気づかされていた。

 留学生の多くは、日本に憧れてきている優秀な学生たちである。その彼らがしばしは発する質問に、私たちは戸惑っていた。

「カブーキ、ジュウハチバン(歌舞伎十八番)、ウイローウリ(外郎売り)、いいですね。アナータ、何が好きですか」

「ゼン(禅)について、今のニホンジン、どういう考え、持っていますか」

「キョート(京都)、ヘイアン(平安)よりムロマチ(室町幕府)の気配がイロコーイ(色濃い)、私の考えマチガイですか」

 我々は、彼らが満足できる答えを、何一つ持ち合わせていなかった。あまりにも日本文化について知らなかったのである。留学生との交流は、日本を見つめ直すいい機会となった。

 国際人とは、自国の文化、歴史、芸術、文学などをしっかりと身につけて初めて成り立つのである。仏教、神道とは何か、武士道とはいかなるものか、そんなことを知らずして国際人たり得ないのである。

 私は英語を通してディベートの手法を学んだが、「和をもって貴(たっと)しとなす」という考えが骨肉に染みついており、ディベートに対してさえ違和感を覚えていた。

 

  敷島の大和ごころを人とはば朝日に匂ふ山桜花

 

 君たちには理解できないだろうが、これが日本人の心だ。そう胸を張って言える、それがESSを通して得た私の収穫だった。

 

 入部当初、創部五十数年といわれていたESSも、現在ではすでに八十年を超すことになる。驚嘆の思いを禁じ得ない。

 当時は、ディベート、ディスカッション、ドラマ、ガイドの四セクション制であったが、現在ではスピーチ、ガイド、ディベートの三セクションになっている。現在の彼らは、ホームページを持ち、部員の紹介や活動内容を写真とともに掲載している。セクションごとに掲示板を持ち、情報のやりとりはそこで行なっている。夜遅くパソコンを眺めながら、かつての自分をそこに見出そうとしてみるが、隔世の感は否めない。だが、様々な行事に参加している彼らの写真を見ていると、当時と何ら変わっていないことに気づく。

 十数年前に、同期だけが集まって京都で同窓会を行ったことがある。私にも声がかかった。久しぶりに会った彼らの前で、私は真っ先に退部したことを詫びた。ほとんどの者が、私の退部すら忘れており、むかしのままに接してくれた。その日は四条河原町近辺で飲んで、二次会は先斗町の小さな店で時間を忘れた。

 だが、彼らが以前と変わらずに接してくれても、私の中には埋めることのできない寂しさがある。OB名簿に私の名前がないのだ。OB会は毎年一回、祇園「篝火(かがりび)」で行われていた。現役生が総出で接待する、緊張感のある行事であった。

 OB会に出られないのが残念なのではない。青春の情熱を一身に傾けたグループに、自分が存在していないことが、痛恨の極みなのである。悔やんでも悔やみきれないことである。

 昭和五十八年(一九八三)に大学を卒業し、すでに二十五年の歳月が流れている。ただ、私の場合、父の危篤に遭遇し卒業式に出ていない。そのせいか、いまだに大学を卒業した、という実感を持てずにいる。つまり、成仏していないのだ。ESSでの仲間との思い出が、つい数年前のことのように鮮明に甦る。私の年齢は二十三歳で止まっているような気がしてならない。

「自分、出身、北海道やてぇ? そんなら巨人ファンやろ。そらぁ、あかんわ。東京のやつらはな、気取ってえらいえばりくさっとぅけど、京都の東にあるから東京都なんやでぇ。天皇さんが遷(うつ)らはったからな。京都に憧れてきたんやったら、阪神ファンにならなぁ、あかん」

 わけのわからない当時の会話が、ふとした拍子に頭の中に浮かんでくる。

「青春とは自分を探す長い旅の靴紐(くつひも)を結ぶ時」と言ったのは、詩人茨木のり子である。私にとってのESSは、まさにそのスニーカーであり、青春そのものであった。

 

  2008年8月 初出  近藤 健(こんけんどう) 

 

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