わが青春のESS (1)~(8) | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 (一)

 私の大学生活は、ESSにどっぷりと漬かった三年間であった。

 ESSとは、イングリッシュ・スピーキング・ソサイアティー(English Speaking Society)の略で、一般には英語研究部と称されている。

 大学内では入学式直後から、各クラブによる過剰ともいえる新入生の争奪戦が繰り広げられていた。大学とはそういうものなのかと思いながら、その過激な勧誘に触発され、どこかのクラブへ所属しなければ、という強迫観念にかられていた。

 クラブの候補はいくつかあった。落語研究会、速記クラブ、剣道部、そしてESSである。それぞれに入部の動機があったが、受験で散々痛い目にあった英語を何とか克服したい、せめてしゃべれるようになりたいというのが、ESSを選んだ理由である。

 

 入部早々、先輩たちから熱烈な歓迎を受けた。新歓コンパ(新入生歓迎コンパ)である。ウィスキーのグラスを持った三回生の先輩が隣の席にやってきて、耳元で囁(ささや)いた。

「京美人、京美人いうけどな、あれ、ホンマはちゃうねんでぇ。自分、なんでかわるか?」

 唐突な質問と聞き慣れない関西弁、大人びて見えた三回生に戸惑っていると、

「京都はなぁ、正確にいぅたら、京都府やろ。そやさかい、京都フ美人や」

 傍(かたわ)らで私たちの会話を小耳に挟んだ女の先輩から、すかさず横槍が入る。

「京都の男は、ホンマにあかんわ。ネチネチ、ネチネチしおるさかい」

 今でこそ焼酎が主流だが、当時は文科系のサークルはウィスキー、体育会系は日本酒と決まっていた。北海道弁丸出しの私への好奇心もあってか、いろんな先輩が話しかけてきて、目が回るほど飲まされた。関西の大学では北海道出身者は希少な存在だった。正式に酒を飲んだのはこの時が初めてで、これが大学生活というものか、という開放感に浸っていた。この日は二人の先輩に抱えられ、アパートまで送り届けられた。ESSでは、この新歓コンパをウェルカム・パーティーと称していたが、体育会系の連中からはバター臭いと揶揄(やゆ)されていた。

 

 私の学生時代は、昭和五十四年(一九七九)からの四年間である。ふり返るとあれから二十五年が経過している(二〇〇八年時点)。四半世紀という言葉が頭をかすめ、改めて愕然(がくぜん)とする。私にとっては、いまだについ数年前のような感覚がある。

 当時、すでに学生運動はひと昔前の話になっており、大学が軟弱学生の楽天地となっていた。元長野県知事の田中康夫氏の『なんとなくクリスタル』がベストセラーになっていたころである。私はそんな軟弱学生の一員となった。

「女の子、いっぱいおるし、楽しいでぇ」

 と勧誘され、男子校出身の私は、女の花園に踏み入る気分で入部した。一部からはESSをエロ・スケベ・ソサイアティーと囁く向きもあったが、卒業後数年して同じ部内で結婚している者が多いことから、まんざら不埒(ふらち)な囁きではなかったのかもしれない。残念ながら、私はその恩恵には与(あずか)れなかった。

 

 外見的な華やかさとは裏腹に、龍谷大学のESSは、創部五十数年という硬派のクラブであった。たとえばフェアウェル・パーティー(卒業生追い出しコンパ)では全員スーツ着用で、三回生の幹事長がスピーチの最後に先輩への餞(はなむけ)として漢詩を朗読する慣わしがあった。おもむろに内ポケットから奉書を取り出し、墨書された漢詩を詠むのだ。漢詩といっても難しいものではない。

「渭城(いじょう)の朝雨(ちょうう) 軽塵(けいじん)を浥(うるお)す 客舎(かくしゃ)青青(せいせい)として柳色(りゅうしょく)新たなり……」

 といった高校の教科書レベルのものである。フェアウェルの場所は、京都駅前の佐野屋旅館と決まっていた。

 幹事長の挨拶の後、四回生一人ひとりのスピーチがある。それが一時間以上にわたって延々と続く。倒れそうになりながら、畳の大広間に立ちっぱなしでその話を拝聴する。四回生は神様だった。その後宴会となるのだが、ひとつのテーブルに、四回生が一人と決まっており、後輩が分散してテーブルを囲んだ。四回生の数だけテーブルが用意された。クラブは五十名の大所帯であった。

 堅苦しく始まったフェアウェルも半ばを過ぎると、席が入り乱れ大宴会の様相を呈してくる。一回生にとって四回生は近づきがたい存在だが、二回生、三回生にとっては格別な思い入れがある。

「エンドー、オレと結婚してくれー」

 したたかに酔った四回生の松本さんが、畳の上に大の字になって叫ぶ。その上に二回生、三回生が折り重なってゆく。当の遠藤さんは、また松本が叫んでいるといった顔で、まるで相手にしていない。実らない恋も数多くあった。

 最後に全員で肩を組みながらESSソングを歌い、コーリングを行う。コーリングとは、高校球児などがベンチ前に集まってサークルを作り、「いくぞ! おお! ファイト! ……」とやるようなものを、何度も何度も英語で繰り返すのだ。血気盛んな若者の血が躍動するような宴会であった。旅館にとってはたまったものじゃなかっただろう。

 

 (二)

 伝統を頑(かたく)なに守り、五十年という長期間にわたって部を存続させてきた所産が、がんじがらめの規則であった。

 部の総会では、全員が胸にESSバッジをつけ部則携帯で、男子はネクタイ着用、ジーパンはダメ。女子にもそれなりに清楚な服装が求められた。コミッティーと称する幹部は、スーツでなければならない。幹事長ともなると、年がら年中背広姿で学校へきていた。バッジや部則を忘れた者は、企画(プランニング・チェアーマン)から叱責がある。

「バッジ、部則忘れた者、前へ出ろ」

 教室の横に一列に並ばされ、全部員の前で謝罪しなければならない。この怖い「企画」の先輩は、卒業後、福井県警本部に就職した。

 総会の進行は企画が行う。企画とは、企業でいう企画部長のようなもので、ESSの行事の全てを取り仕切っていた。

「ただ今より第○○回ESS総会を開催します」

 といって、総会にかかわる部則の条項が読まれ、議長の選出が行われる。そこで、議長を推薦するため挙手をするのはコミッティーで、あらかじめ四回生に議長をお願いしてある。四回生は卒論、就職活動があるので、実質的にクラブ活動を引退しており、部活にはほとんど顔を出さない。

 議長に指名された四回生は企画と交代し総会の進行を行う。うまくできた仕組みで、四回生司会の下、三回生のコミッティーが様々な提案を行い採決がなされるわけだが、活発な質疑応答はあっても、議案が否決されるようなことはなかった。四回生の司会の効力は大きかった。

 

 当時のESSは、ディベート(英語討論)、ディスカッション、ドラマ、ガイドという四セクション制を敷いていた。普段はこのセクションごとに活動し、クラブとしての全体行動は、総会や春・夏の合宿、フェアウェルなど、限られたものであった。この四セクションの上に立つのが、八名のコミッティーである。コミッティーは三回生によって構成される幹部である。

 幹事長(プレジデント。通称プレ)、副幹事長(ヴァイス・プレジデント。通称ヴァイス)、企画、会計、書記の五役と、各大学のESSの上部組織である連盟に派遣される三名のデリゲート(派遣委員)がいた。これに四セクションの各チーフが加わり、計十二名がESS活動を主導していた。

 このコミッティーの選定が難儀だった。三回生の幹部が次期幹部候補生を二回生の中から選び、部内の審査会を経た後、総会にて承認されるという手順である。審査会の構成メンバーは、三回生の幹部と四回生、それにOBが加わる。OBといっても実質は大学院生が顔を出していた。

 立候補届けを出して、英語での五、六分の所信表明のスピーチを行った後、英語と日本語による質疑応答がある。合格するまで、審査会は何度も繰り返された。幹事長候補者が審査会を通過しなければ、ほかの幹部候補者の審査会は行われない。候補者のいるセクションの三回生の先輩たちは部活終了後、候補者のアパートで連日夜遅くまで幹部としての心構えなど、質疑応答の特訓を行っていた。候補者の落選は、三回生の責任であった。

 私もこの審査会を経験するのだが、立候補届けの受理に便箋をまるまる一冊使い切ってしまった。便箋に立候補の旨を数行書くだけなのだが、一行の文字数が決まっていたり、漢字の撥(は)ねる部分が撥ねていなかったり、真っ直ぐ下ろす棒線が曲がっていたりすると、ハネられるのだ。私は恐ろしいほどの悪筆であった。

 私はこの審査会を一回生で経験していた。この代の二回生の数が極端に少なく、一回生から三名のコミッティーを出すことになり、そこに選ばれていた。たかが立候補届で、なんでこんなバカげたことをしなければならないのか、半ば不貞腐れて三回生の先輩に食ってかかった。

「あと一回だけ書きます。それでダメなら、別の適任者を選んでください」

 ボックス(クラブのある部屋の呼称)を飛び出し、近所の喫茶店に駆け込んだ。私は四時間も立候補届けを書き続けていたのである。気分を変えるために喫茶店に入ったのだ。実はその日、京女(京都女子大学)のディベートのメンバーから、京女のドラマセクションの英語劇の観劇に誘われていたのである。

「そんなヤケになったらアカンがな」

 私の後を追いかけてきた別の先輩になだめすかされた。

「ええか、コミッティーになるとな、大学側にいろんな書類を出さなあかん。それは書記の仕事やけど、コミッティーである以上、誰もがでけなアカンのや。日本語いうもんは、きちんと書かなならん。そこで〝人〟が見られる。それが日本の社会いうもんなんや」

 この先輩が誰だったか記憶にはないが、今考えるとずいぶんまっとうで大人びたことをいう人だなと思う。結局この日は、ドラマの観劇にはいけずじまいになってしまった。

 数年後、会社の新入社員研修で、夜遅くまでラジオ体操をやらされた経験がある。つま先をきちんと上げ、腕をまっすぐに伸ばす、正確にラジオ体操ができなければ、夜中まで合格しないのだ。ラジオ体操をしながら、私は学生時代の審査会を思い出していた。

 審査会が終わるころには、新幹部の顔つきはキリリと引き締まってくる。幹部としての指導力、厳しさを叩き込まれ、体中に緊張感が漲(みなぎ)っていた。龍大ほど厳しいところはないだろうと思っていたが、産大(京都産業大学)がその上前をいっていた。

 一回生から懇意にしていた産大の同期が三回生で幹事長になったとたん、すっかり別人と化してしまった。もともと真面目な男だったが、口調までがよそよそしくなり、とうとう一年間は親しく言葉を交わすことができなかった。

 

 二回生でコミッティーとなった私は、年間プランの詰めをやるからと、ヴァイスのマンションへいくことになった。何をどうすればいいのかまったく分からず、お客さんのような存在だ。

 ヴァイスの塩山さんのマンションは、我々八名のメンバーが入っても十分な広さがあった。彼は資産家の息子で、スポーツカーに乗っていた。いつになったらこの打ち合わせが終わるんだろうと思っているうちに、とうとう夜が明けてしまった。

 何を話し合ったかは覚えていないが、マンションのすぐ隣が京都御所で、小鳥のさえずる朝もやの御所を、みんなで歩いて帰った記憶だけが鮮明にある。

 コミッティーの失敗は、組織の根幹を揺るがすという強迫観念がコミッティー全体にあり、総会を滞りなく終わらせることが、コミッティーの至上命題になっていた。総会までに、幹事長が原案を作成し、副幹事長との二役会議、その後三役、五役を経て、八名の幹部全員によるコミッティー会議が行われ、原案に対する全員の同意が得られたところでコミッティー・ミーティングに移行する。このコミッティー・ミーティングから正式な議事録が残されていた。

 その後、総会に向けた質疑応答の練習が行われる。考えられるあらゆる質問を幹事長にぶつけ、その答えの質や答え方がいいか悪いか、延々と確認するのである。

「おい、輪島、ほかにどんな質問がある」

 幹事長が書記の輪島さんに向けると、ひとつの議案に対する過去の質問と答えを書記が読み上げるのである。書記が過去十年の議事録を読み返し、想定問答集を作っているのだ。過剰とも思える準備を経て、総会を迎える。

 総会後も夜遅くまで、質疑応答の内容を精査する反省会なるものを行っていた。どえらいクラブに入ったものだと、私は密かに思っていた。このコミッティーでの経験は、社会人になってから、大いに役立つことになった。

 

 (三)

 ESSといっても英文科の学生ばかりではなく、様々な学部の学生がいた。大学院生まで指導がてら顔を出していたので、年齢幅も広かった。

 ESSに入部してまずレシテーション・コンテスト(英語暗誦大会、通称レシコン)が行われ、新入生が篩(ふる)いにかけられる。

 レシコンの原稿は、キング牧師の「アイ・ハブ・ア・ドリーム(I have a dream)」である。B五版の用紙三枚分の英文で、七分ほどのスピーチになる。その単語の全てに発音記号を振らされ、徹底的な発音矯正を受けた。どんな状況下でも淀みなく話せるよう、学生が行き交うキャンパスの傍らに立たされ、あたりが暗くなるまで練習が行われた。

 このレシコンは、一回生に対して二回生がマンツーマンで教える形を取った。それに不特定多数の三回生と時間のある四回生、院生までがついた。私を担当した二回生は、モッサンと呼ばれていた四国出身の女性であった。モッサンは後にガイドのチーフとなり、二回生のころから、スピーチに定評のある人だった。それゆえ、指導は厳しかった。

「……そやさかい、自分のそのRサウンドがおかしいねん。アーや、アー。やってみぃ」

 R(アール)の巻き舌がなかなか思うようにできない。アとエの中間音にも難儀した。

「アップル(Apple)、いうてみぃ」

「アップー」

「ちゃうがな。エップォーや、ホラ」

「エプー」

「ちゃう、ちゃう。エップォー」

 アゴというか舌の付け根が筋肉痛になった。f、v、thと、モッサンは私から日本人を剥奪するかのように頑張った。教室の端に立たされ、遠くでモッサンが腕を組んで立っている。モッサンの組んだ腕の上には大きな胸が乗っていた。胸の大きな女性は優しいという私の固定観念は、モッサンによってはかなくも崩された。

 レシコンでは発音矯正ばかりではなく、目線を合わせるアイコンタクト、外人特有のオーバーアクションともいえるデリバリー(手振り身振り)も徹底的に教え込まれた。含羞(がんしゅう)のある日本人には、これが難しいのである。演劇部員のような振り付けを要求してくる。そんな日々が一か月続いた。退部する一回生が何人か出た。

 レシコンの本番は、大教室で行われた。

「自分、自信もっていきぃ。大丈夫や」

 私はひどい上がり性だった。スピーチは滞りなくできたのだが、全体的に芳しくなかった。ガックリと肩を落として教壇から降りてきた私に、人目も憚(はばか)らずモッサンが抱きついてきた。

「ようやったわ、えらい、えらい。ようやった……」

 見るとモッサンが涙ぐんでいる。私も思わず感極まりそうになったが、私の胸に当るモッサンの弾力が気になり、それどころではなくなっていた。二十五年を経た今でも、この「アイ・ハブ・ア・ドリーム」を口ずさむことができる。そのたびに、モッサンの弾力が甦ってくる。

 

 新入生にとって、レシコンの次なる試練はガイハンであった。ガイハンとは、ガールハント(すでに死語と化している)ではない。外人ハントのことである。街いく欧米人を無作為につかまえ、英語で話しかけるのだ。外人に対する日本人特有の羞恥心や偏見を排除するために行われる。「なぜ日本人は家に上がるとき靴を脱ぐか」という短い説明文を丸暗記し、それを見知らぬガイジンに説明するのだ。二人一組で出かけるのである。

 京都には海外からの観光客が大勢来ているので、ガイジンに困ることはなかった。ホテルでくつろぐ彼らを襲うのが最も効率がよい。いきなり変な日本人が近づいて来て、唐突に靴を脱ぐ説明が始まるのだから、相手も面食らう。

 まず、先輩が模範を見せてくれる。次に一回生の番になり、少し離れたところから先輩の「いけ!」のサインが出るのだが、それがなかなか踏み出せない。

「ええか、エックスキューズ・ミー、アー・ユー・ア・ネイティブ・スピーカー?(Excuse me, Are you a native speaker? 母国語=英語を話しますか)やで。そうするとな、必ず〈イエース Yes!〉とか〈シュワー Shure! もちろんさ)〉いぅてくるねん。そしたら自己紹介して、後は説明したらええねん」

 清水の舞台から飛び降りる覚悟で、

「エックスキューズ・ミー、……」とやったらビー玉のような青い目に見詰められ、「ホワイ? (Why?)」と返された。「ホワイ?」は想定外だった。そんなことを何十回も繰り返し、ガイジンに慣れていくのである。

 このガイハンは、オラコン(オラトリカル・コンテスト=英語弁論大会)の季節になると頻繁に行われた。原稿のジャパニーズ・イングリッシュ(日本語的な表現になっている部分)を手直ししてもらうのだ。見てもらった原稿は英文タイプライターで打ち直し、また別のガイジンに見てもらう。そんなことを四回、五回と繰り返す。各大学、ほぼ同時期にオラコンがあるので、あちらこちらで原稿を持った学生を目にした。

「今日はこれで五人目なんだ、もう勘弁してくれ」

 と逃げ出す外国人もいた。

「これまでいろいろな国を旅行してきたが、日本ほど勉強熱心な学生のいる国はない」

 何人もの欧米人から同じようなことをいわれた。我々は日本の学生のイメージアップにひと役かったのだが、あまりに度がすぎて、毎年ホテル側から禁止令が発せられた。

 京都を訪れる外国人は、観光目的ばかりではなく、マスコミ関係者や学会や国際会議に参加するためにやってきている学者などの知識人が数多くいた。女の子などは、君が大学生なのか、本当に二十歳なのか、と目を丸くして訊かれたものである。

「うちら、中・高生程度にしか見えへんのや」

 先輩は意にも介さず、なかには老夫婦に気に入られてホテルの部屋に招かれたり、京都の案内を頼まれて社寺仏閣めぐりを一緒に楽しんでいる人もいた。

 

 (四)

 ESSでは春と夏に合宿(セミナー)があった。本当の英語の実力は、この合宿に備えた事前準備と合宿を通して身に着けたように思う。普段はそれぞれのセクションで活動しているのだが、合宿ではセクションの垣根を取り払って、ディベート、ディスカッション、ドラマ、ガイドの全部をこなさなければならず、かなり負荷のかかる行事であった。特に春合宿は新一回生の入部を控え、現一回生が二回生になるための試練であり、また二回生にとっても三回生として部を牽引していくための総仕上げという意味合いがあった。合宿が近づいてくると、連日徹夜の様相を呈してくる。

 合宿は、五、六泊でアメリカ人留学生の男女一名づつを伴い、長野や兵庫の山中の民宿を貸し切って行われた。和気藹々(わきああいあい)としていたのは、行き帰りのバスの中と、最終日のレクリエーションだけだった。終始緊張感を強いられる合宿であった。

 合宿中は「キープ・イングリッシュ」といって日本語を禁じられる。もちろんテレビもダメ、民宿の関係者との接触もコミッティー以外は許されなかった。最初の三日は言葉を喪失し苦痛に身悶(みもだ)える。だが、後半になってくるとそんな環境にも順応してくる。そういう我々に、

「俺はこの歳まで、いろんな学生を相手にしてきたけど、あんたらのようなクラブは初めてだ」

 宿泊した先々の民宿のオヤジから一様に驚かれた。最後の日を除いて、毎朝外でラジオ体操をする以外は、一歩も外に出ないのである。

 一回生の初めての夏合宿は、長野県の戸狩高原であった。高速のサービスエリアでトイレ休憩をとった際、駐車場で五、六名がフリスビーを始めた。私も参加していた。誰かが投げたフリスビーが、スローモーションのようにゆっくりとバスのフェンダーミラーに向かって行った。ミラーがいとも簡単に割れてしまった。電話で業者を呼び、ミラーを交換するのに一時間ほどを要して民宿に入った。

 フリスビーをやっていた者たちは、到着後すぐにコミッティーの部屋に集められ、県警本部の企画から大叱責を受けた。その中に三回生が一人いたのだが、その彼が集中砲火を浴びた。私は反省の色を示しながら、感心しながら怒られていた。全部英語だったのである。怒られていることだけは表情や、声の高さから分かったのだが、内容はまるで理解していなかった。

 三回生の夏合宿は、兵庫県の鉢伏(はちぶせ)高原だった。そのとき私の友人の実家が、近くで民宿を営んでいた。友人は同じ大学で、スキー部のキャプテンだった。彼は気を利かせて一升瓶を差し入れに来てくれた。ESSの連中が山の中で、一日中部屋にこもって新興宗教の修行まがいのことをやっていると、彼は思っていた。その偵察も兼ねて夕食時にやってきたのだ。

「おお、近藤、元気でやっとぅか。どうや合宿は楽しいか。みんなでやってくれ」

 といって持ってきた二本の一升瓶を差し出した。玄関に出た私の傍らにはコミッティーもいたため、やむなく、

「Oh! Thank you so much. But now …… I can't speak Japanese ……」

 と困った顔でいったら、友人がギョッとしている。周りの張り詰めた空気に、彼はそそくさと退散してしまった。後日、活動内容をねほりはほり訊かれたのだが、あまりよくわかってはもらえなかった。彼は典型的なスポーツマンで、兵庫県代表の国体選手であった。

 合宿が終わった帰りのバスでは、派手なドンチャン騒ぎをするのが恒例となっていた。フォーク歌手ふきのとうの「雨降りの道玄坂」(一九七六年)のフレーズを延々と歌うのだ。それが、例年の慣わしになっていた。

 数年前の合宿の帰り、誰かがバスの中でこの歌を歌ったところ、歌の終わりがわからなくなり、エンドレスになったのがきっかけだという。以来、合宿の帰りは、高速を走っているバスが京都に近づきだしたころから歌が始まる。

「あの日雨降りの道玄坂/バスを待つあなたの/寂しさに声かけたのは/気まぐれじゃなかったわー、あの日雨降りの……」

 三回生での合宿の帰りには、このフレーズを七十数回繰り返した。毎回、前年の記録を更新させる。不思議なもので、このフレーズを繰り返しているうちに感極まってくるのだ。涙を隠すのによけい大声を張り上げた。女の子たちはみんな泣いていた。我々のバカ騒ぎに、バスの運転手が発狂しなかったのが不思議なほどだった。

 就職して初めて渋谷を歩いて、偶然にもそこが道玄坂であることを知ったとき、感慨深い思いが沸き起こった。道玄坂が東京にあることすら知らずに歌っていたのだ。今でもたまに道玄坂を歩くと、「あの日雨降りの道玄坂……」というフレーズが甦ってきて、ついつい口ずさむ。坂道を登りながら、鼻腔(びくう)の奥がツーンとしてきて、涙が滲んでくるのである。

 

 (五)

 ESSでの本来の活動は、それぞれ所属セクションでの大学対抗の大会に出ることであった。体育会系でいうインカレ(大学対抗試合)である。大会は、連盟が主催していた。

 当時、関西には四つの連盟があった。京都には、KFC(京都全大学ESS連盟)があり、京大、同志社、立命館、京都外大、京都教育大、京都産業大、京都女子大、同志社女子大、ノートルダム女子大、そして龍谷大学の十大学が加盟していた。同様の連盟が大阪、神戸、名古屋にあった。

 この四連盟の上部組織がウエスト・ジャパンで、四国・九州を包括していた。関東にはイースト・ジャパンが東京にあり、同様な組織構造であった。頂上決戦は「イースト・ウエスト」と呼ばれ、この大会に出るのがディベーターの夢であった。

 関西にはこの四連盟の枠を超え五十大学ほどで組織されたKIDL(関西大学対抗ディベート・リーグ)が神戸にあった。一般には馴染みが薄いディベートだが、関西では盛んに競技大会が開かれていた。

 ディスカッションにも対外試合があったが、KFC内に限られていたように思う。どういう経緯か忘れたが、ディベートの私がKFCのディスカッションの大会に参加したことがあった。

 ディスカッションとは言葉の通り、あるテーマを五、六名で議論し、ひとつの結論に導くのである。議長が審査員を兼ね、積極的に議論に加わり、優位な発言をした者が、次の試合に進むという方式だった。ディスカッションで議論が二つに分かれ紛糾したときに、賛成派と反対派に分かれて行われるのが、ディベートである。このディスカッションとディベートの手法を学んだことは、社会人になってからとても有意義なものとなった。

 

 華やかさでは、ドラマ・セクションにはかなわなかった。彼らには年に一度、連盟のオーディションがあり、合格するとドラマ公演に参加できた。

 私が初めて見たドラマは、「ピノキオ」だった。学芸会に毛の生えたようなものだろうと冷やかし半分に観にいったら、これが学生の演技かと思うほど洗練されたものであり、強い衝撃を受けた。

 当時、ドラマの指導をしていたのが、ジャンセンというアメリカ人女性で、どこかの大学の先生であったと思う。ドラマが終わると、観客を見送るために出演者が出口で一列に並んで待っているのだが、男も女も抱き合うようにしてみな号泣していた。

 二回生のときは、「ウエストサイド・ストーリー」が上演された。男女十組ほどのカップルが舞台の上で躍動する。主役のカップルは勿論だが、全員でのキスシーンがあった。私や一緒に観にいった連中は、その予期せぬ光景に度肝を抜かれ、ただただ呆然と眺めていた。

 さすがの彼らも練習でのキスシーンではためらい、みんなキスをするふりをした。それを見たジャンセンが、ちゃんとキスをしろと烈火のごとく怒ったという。何度も行われたであろうリハーサル風景が頭をよぎり、ドラマに入ればよかったと、大いに後悔したものだった。その後、ペアーを組んだカップルたちがどうなったか、ディベート活動に追われ、訊かずじまいになってしまった。

 ガイドは、日本ガイド学生連盟(JSGF)に所属し、ガイド・コンテストがあった。また、バスツアーと称し、チャーターしたバスに留学生を乗せて京都や奈良の社寺仏閣巡りを行っていた。ガイドセクションのメンバーにとっての最終目標は、通訳ガイドの国家資格を取ることだと思っていたが、どんな活動をしていたのかよくわからなかった。やたら女子大と仲よくしていたのが印象深かった。

 

 ディベートとは、簡単にいうとアメリカ大統領選で候補者同士がテレビ討論を行う、あれである。全国の大学が共通のテーマに基づき、春と秋に競技大会を行う。テーマは、その年により防衛問題であったり、農業問題、原子力発電、年金、選挙制度、環境問題、消費税導入の是非など様々である。論文が一本書けるほど掘り下げて勉強をした。

 たとえば防衛問題では、肯定側(アファマティブ・サイド)から日本はソ連(現ロシア)の脅威に対し、防衛力をもっと増強すべきであるという主張を行う。ソ連が脅威であることの事例を図や表を使い数字で具体的に示し、陸上自衛隊にまわしている装備費を防空に向けることを提案する。レーダーを装備した早期警戒機の配備が何機必要で、潜水艦からの攻撃に備えるための対潜哨戒機が何機と具体的な数字にし、自分たちの主張を肉付けしたスピーチを行う。

 その賛成側のスピーチに対する反対論を、反対側(ネガティブ・サイド)が行うといった具合に進められ、一試合が一時間ほどになる。反対側にとっては、賛成側がどんなテーマを出してくるのか、脅威を北朝鮮にもってくるのか、中国なのか、視点を変えて食の防衛なのか、蓋を開けるまで分からない。それゆえ、想定されるあらゆる防衛に関する資料をもっていなければならない。それらの資料を数百枚のカード(エビデンス・カード)に分類し、手元に置いておく。賛成側のスピーチを聞き、メモをとりながら、反論資料のカードを整えていくのである。

 賛成側だった大学は、次の試合では反対側に立ち、別の大学と対戦する。ディベートには二対二で行う二人制ディベートと五人制があったが、主流は二人制であった。

 このディベートに所属したお陰で、私は大学生活を通し、教室にいた時間よりもはるかに長い時間を図書館ですごした。

 ディベートに入ってすぐに、三回生から新聞を取ることを命ぜられ、お前は読売、お前は朝日と割り当てられ、私は日経になった。現在、私が日経新聞を取っているのは、このESS以来の習慣にほかならない。当時は、これらの新聞のほかに、毎日デイリーニュースや朝日イブニングニュースといった英字新聞も、連盟のスポンサーからの割り当てで、三か月単位で取らされていた。

 

 (六)

 ディベートの資料集めは三か月以上前から行われる。まず手始めに、それぞれ分担を決め、十年分の新聞の縮刷版に目を通すところから始まる。

 私が一回生のころ、図書館の職員の態度が冷淡で、ひどく横柄であった。毎日図書館に詰め、真剣に取り組む我々の姿に、彼らの態度が次第に好意的になってきた。最後には資料探しに協力までしてくれ、関連分野の専門誌や書籍を丁寧に紹介してくれるまでになった。

 試合が近づくと、午後八時の大学閉門後、数か所のアパートに分散して集まり、入手した資料を英訳したり、ロジック(理論)の構築を話し合う。これらをプリパレ(プリバレーション)といった。それが二週間、三週間と続く。青白い朝靄(あさもや)の中、

「朝の五時までやってる部活って、どこにもあれへんで。異常やな」

 と話しながら歩いて帰ったものである。女の子もいたが、みんなアパート暮らしをしていたので、親の目は問題なかった。京阪電鉄の深草駅前にあった喫茶店「みどり」の二階には座敷があり、飲み物一杯で時間貸しをしていた。特に土曜、日曜は終日利用していた。いまだにこの店の店主夫婦と親交のある仲間が何名かいる。試合が近づくと、授業にはほとんど出られなかった。

 

 試合前には、各大学間で活発に練習試合が行われた。一回生の登竜門であった五人制ディベート(DFIK)の練習試合を京都外大と行ったとき、こちらはたどたどしい英語でやっと自己紹介する程度だったのだが、彼らはフランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語など、各自が履修している第二外国語でペラペラとやってのけた。履修してまだ一年もたっていないのである。さすがは外大と恐れ入った。私は二回生で終わるべきフランス語を三回生まで引きずった。今覚えているのは、「アン、ドゥ、トヮ」と「ジュテーム」だけという体たらくである。

 ディベートの試合では、自分の先輩を応援することもあったが、他大学の試合を積極的に見にいかされた。お前は東大、お前は阪大など手分けして試合を見にいき、試合内容を録音しながら、筆記して持ち寄り、相手の手法を研究した。

 

 試合が終わった後の開放感は、凄まじいものだった。全員で四条河原町に繰り出し、ドンチャン騒ぎをする。飲み屋は、当時祇園にあった祇園平八や四条河原町、木屋町あたりにあったグッティグッティ、ブルーエーゲ、シーホースといった店である。もちろん、木屋町の餃子の王将本店は常連だった。当時、王将の二階には宴会のできる座敷があった。

 王将は、安くて、早くて、汚いという、京都の学生にとってはなくてはならない店であった。外食産業のない北海道の田舎で育った私は、それまで餃子を食べたことがなかった。初めての餃子が、この京都の王将である。以来、王将の餃子が気に入り、三十年間、食べ続けている。東京で転居した先々に、王将があった。就職の際、王将に勤めようかと、真剣に考えたこともあった。ちなみに王将では、いまだに餃子定食以外のものは食べたことがない。

 ハチャメチャに飲んだ後は、鴨川へ繰り出す。京都の学生は例外なく飲んだ後に鴨川べりに出ていき、川に飛び込んだり、河原で何かしらのパフォーマンスを行っていた。江戸時代までは、さらし首をしていた場所である。

 我々の場合、円陣を作って肩を組んで声を張り上げESSソングを歌い、その後、何度も何度もコーリングを繰り返す。

「Let's have a calling, Air you ready?」

「Yes!」

「Give me a G ……」

 通りがかりの人々が、四条大橋の上から我々の奇行を、面白そうに見物していた。鴨川は、炸裂(さくれつ)する若者のエネルギーの発露の場であった。

 京都の夏はとりわけ暑かった。人々が涼を求めて鴨川べりに集まってくる。先斗町の料亭がいっせいに「床」を出すと京都の夏が始まる。さんずいに京で「涼」となる。鴨川は、京都に暮らす者にとって、なくてはならない存在であった。

 

 龍谷大学の恒例行事に提灯行列があった。七条あたりから三条大橋まで、千人を超す学生が提灯を手に京都の街を練り歩く。そこでも鴨川を挟んでのセレモニーがあった。仕切るのは龍吟会という詩吟サークルの学生である。提灯を持った大勢の学生が先斗町側におり、学生服姿の龍吟会のメンバーが対岸の祇園側に造ったステージの上にいた。ふだんは地味な龍吟会だが、このときばかりは実に格好がいいのである。

「おー仰ぎ見れば東山に名月は皓々(こうこう)と照り映えて……」

 という龍谷大学逍遥の歌の口上が始まる。

「花咲き染めて一睡の/夢は夕べの鴨川か……」

 続けて鴨川を挟んでの合唱になる。その後、朗々と漢詩を吟じるのである。この行事は、京都の風物詩となっていた。観光客が橋の上からさかんにシャッターを切っていた。飛び入りで提灯行列に加わる外国人観光客も大勢いた。大学祭を始めとした学校行事は、各クラブ総出で行われていた。

 

 (七)

 三回生のとき、私はディベートのチーフ(通称、ディベチ)になった。重い荷をずっしりと背負うような思いがあった。同期に冨山という女性がいた。英語力はもとより、資料収集力でも群を抜いていた。だが、ディベチは女では無理というのが当時の大勢で、私にその役が回ってきたのである。

 チーフとして初めてのKFC(京都全大学ESS連盟)のディベート専門委員会(各大学のディベートのチーフによる集会)に参加した際、すでに四回生となっていたKFCの幹部が数名出席していて、ディベ専(ディベート専門委員長)をこの場で決めるということになった。全会一致で私が推挙されたのである。KFCの役員が全員決まっていた中、ディベ専だけが空席だった。ディベ専は大変だということを誰もが知っており、みんな辞退していたのだ。ハメられたなと思った。

「だいじょうぶや、全員でバックアップするさかい」

 私の一存では受けられず、その場は固辞したが、後日、KFCに押し切られる形で、龍大のコミッティーは私のディベ専を承認した。

 龍大からディベート専門員長を出すのは、初めてのことだった。私が二回生からデリゲ(KFCへの派遣委員でデリゲートの略)として運営委員をやっており、顔が知れていたというのが決め手だったようである。

 KFCには、各大学のコミッティーと同じように委員長(プレジデント)、外務副委員長、内務副委員長、書記、会計に加え、ディベート、ディスカッションの各専門員長、運営委員長がいた。

 ディベ専の話がある一か月ほど前、

「おまえ、委員長をやってみる気ィあらへんか」

 と委員長と内務委員長からいわれ、とんでもないと即答で断っていた。そのときは彼らも納得していたのだ。

 ディベ専に推薦された私は、数日後、五十名近い各大学の幹部の前でのスピーチと質疑応答を受け、すんなりと承認されたのである。龍大でのディベチ(ディベート・チーフ)の審査会後だったので、この選挙はさほど苦にはならなかった。

 ディベート専門委員長は、各大学のディベートのチーフで構成される専門委員会を統括していた。下部組織には、各大学から派遣されたデリゲによる運営委員会があり、運営委員長が束ねていた。運営委員会は、専門委員会での決定事項を実行する実動部隊であった。

 さらにこの年は、持ち回りで大阪のディベ専がウエスト・ジャパンの委員長、京都が副委員長の年にあたっていた。そんな仕組みすら知らなかった。不幸中の幸いは、私が委員長ではなかったことである。

 

 龍大のディベチとしての役割を果たせなくなった私は、冨山をディベートのサブチーフにし、彼女に実質的なチーフの役割を担ってもらった。彼女の活躍は目覚しく、この年、関関同立主催の一回生を対象とした五人制ディベートが初めて行われ、龍大が優勝をした。

 試合当日、私は名古屋大学へ行っており、夜遅くにその知らせを受け、みんなが飲んでいる四条河原町へ飛んでいったのである。優勝カップに並々とつがれた酒を駆けつけで飲まされ、終電を忘れて飲んで騒いだ。

 

 ディベ専の引継ぎを立命館の前任者から受け、数日後には京都外大の委員長と立命館の外務副委員長、私の三人で東京へ出張した。ディベート大会のスポンサーへの挨拶のためである。東京へいく目的を具体的に知らされたのは、新幹線の中であった。そのとき、私はほとんどなにも把握していなかった。

 このときのスポンサーは、当時青山にあったニューズ・ウィーク極東支社、それとブリタニカ・ジャパン、正式名称を忘れたが、通訳養成学校の三か所であった。KFCとはいえ、大会になると京都だけではなく、全国からの招待校も含め二十大学が集まる。ファイナル(決勝戦)の観戦者は大講堂がいっぱいになっていたので、関係者も含めると五百人は下らなかった。企業の宣伝効果もそれなりにあった。大会は、春と秋の二人制と、五人制、それに一回生だけの五人制(DFIK)と全部で四回あった。

 

 (八)

 私がディベ専(KFCのディベート専門委員長)になってまずとりかかったのは、春の二人制ディベートであった。招待校にインヴィテ(インヴィテーション=招待状)を送り、その間に十名のジャッジの選定をする。

 当時、KFCから京大と同志社が抜けており、連盟全体としては八大学になっていた。連盟校以外の招待校十二校の選出は、返信の届く先着順になっていた。常連は、東大、早大、上智、阪大、関大、関西学院、神大などで、KFCを抜けた京大、同志社もそれに加わっており、遠くは北大の参加もあった。

 私を悩ませたのは、ジャッジ依頼の電話であった。アメリカ人と面と向かって会話するのも心もとないなか、電話でのやり取りをしなければならない。それを考えただけで憂鬱になった。R・マクドーナル、S・ビビアン、D・ホプキンス、D・ワルッシュというのがジャッジの常連メンバーである。今でも彼らの顔を鮮明に思い出すことができる。いずれも関西の大学で教鞭をとっており、安いジャッジ・フィー(報酬)で、毎年引き受けてくれていた。

 アパートの公衆電話の前に十円玉を積み重ね、意を決して電話をする。

「Hello,This is Ken Kondoh speaking.I'm a Chief of ……」

「ハアッ? どなたはんどすぅ? よう聞こえまへんのや」

 初めての電話が間違い電話になった。気を取り直しかけなおす。すると今度は、

「おかぁーちゃん、電話やでぇ」

 小学生くらいの女の子の声である。またかー、と思ったら、

「Yes,This is me ……」

 日本語ができるんなら、日本語にしてくれよと思ったが、誰一人として日本語を使ってはくれなかった。

 ディベートのファイナル(決勝)のジャッジは、アメリカ人三名、日本人二名の五名で行う。感心したのは、彼らの議論の激しさであった。試合後、別室で意見交換を行い、その後、各自のバロット(バロット・シート=採点表)に記入してもらう。その議論の白熱ぶりは、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。

 ジャッジ・ルームには私とジャッジしか入室できないのだが、私はその光景を、教壇の上の椅子に座って息を潜めて眺めていた。二名の日本人も積極的に発言していたが、アメリカ人の迫力にはかなわなかった。

 日本人は、相手の話を聞いて反論する際「あなたの言い分は、ごもっとも。よくわかる。だが……」と、まず話し手の意見を尊重し、相手を慮(おもんぱか)ったうえで、相違点を述べる。だが、やや極端な表現かもしれないが、ヤツらは違うのだ。「あなたの意見は違う(私の意見は違う)。なぜなら……」とノーを先に言うのだ。いきなりど真ん中の直球勝負である。

 これが国際社会の常識、多民族国家ではこういう形で自分の意見を主張しなければ、相手には理解してもらえない。日本的な婉曲な言い回しは、単一民族の中でしか通用しない、というのが国際社会の常識だという。私もその国際感覚とやらを身に着けようと努力したが、「だがな……」というのが今も変わらぬ本心である。ESSに身をおいて、数多くの欧米人と接する機会があったが、最後まで、この国際感覚には馴染めなかった。  (つづく)

 

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