母の血を遡上する  ― 米良家の四百年を訪ねて― | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 (一)

 東京高輪の泉岳寺といえば、赤穂義士ゆかりの寺として有名である。だが、その泉岳寺の裏手に、義士切腹の地があることは、ほとんど知られていない。

 泉岳寺の裏手、二本榎通りを挟んだ向かいに近代的な高層アパート、都営高輪一丁目住宅団地がある。隣は高松宮邸(執筆当時)である。この閑静な一帯が、かつて肥後熊本藩五十四万石の藩主細川家の下屋敷(後の中屋敷)があった場所である。

 元禄十五(一七〇二)年十二月十四日、主君浅野内匠頭(たくみのかみ)の仇(あだ)を討ち、本懐を遂げた赤穂義士一党は、大名四家に分散しお預けの身となった。大石内蔵助(くらのすけ)以下十七名は、この細川家に預けられた。

 翌元禄十六年二月四日午後二時、幕命を帯びた使者により、切腹の申し渡しが行われ、即日執行された。

「切腹仰せ付けられ候段、有り難き仕合せに存じ奉(たてまつ)り候」

 とは、その際の大石内蔵助の口上である。

 家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は、十七人の切腹人に対し、十七名の介錯人を選定した。切腹の場所は、大書院舞台側の上の間の前庭で、背後に池を背負った場所だった。この都営アパートの奥まった一画である。

 

 うだるような暑さの中、さんざん歩き回った私は、やっとの思いで「大石良雄外十六人忠烈の跡」と記された案内板を見つけていた。

 そこは鬱蒼(うっそう)とした潅木(かんぼく)に覆われた一画であり、私はその木陰で吹き出る汗をぬぐっていた。切腹の場所は塀で囲われ、正面には木製の門扉がある。門扉の隙間から恐る恐る中を覗くと、すぐに大きな平石が目に留まった。この一画だけ時間が止まっているような錯覚にとらわれた。無数のセミの声が、頭上から絶え間なく降り注いでいた。

 

 真っ白い幔幕(まんまく)が張りめぐらされ、切腹の座には三枚の畳が敷かれた。畳の上には木綿の大風呂敷が展(の)べられている。切腹刀を手にした白装束の義士の斜め後方に、緊張の面持ちで介錯人が控えている。すでに抜き身の太刀を上段に構え、切腹人の挙措(きょそ)に神経を研ぎ澄ましている。次の瞬間、鋭い閃光(せんこう)がきらめいた。

 

 潅木の梢(こずえ)の上には九月の青い空が広がり、強い残暑の日差しが艶やかなクスの葉を照らしていた。首筋を汗が伝う。冷たい汗だった。この平石の位置が、義士切腹の座にあたる。

 

 切腹終了後、「切腹の庭を清めましょうか」という家臣の伺いに、

「忠義の者どもの聖地である。清めるには及ばない。……十七人はこの屋敷の守り神である」

 細川家で義士の接待に当たっていた堀内伝右衛門(でんえもん)が、藩主綱利(つなとし)の言葉として伝えている。

 綱利は討ち入り直後の義士引渡しに際し、総勢八七五名の家臣と十七挺(ちょう)の駕籠(かご)と予備駕籠五挺を用意させた。一行が屋敷に到着したのは、午前二時を回っていた。深夜にもかかわらず、即夜の引見を行った。一党の「忠」「義」に対し、武士としての「礼」をもって応えたのである。その後も細川家は、大藩の威力と識見をもって、義士たちを優遇した。

 この十七名の介錯人の中に、米良市右衛門勘助(めらいちえもんかんすけ)という人物がいる。泉岳寺発行の小冊子に、今もその名が窺(うかが)える。市右衛門は堀部安兵衛の父、堀部弥兵衛金丸(あきざね)の介錯を務めた。

 

  雪はれて思いを遂ぐるあした哉(かな)

 

 武士(もののふ)の気概横溢(おういつ)する弥兵衛七十七歳の辞世である。義士最年長であった。

 私はセミ時雨の中に佇(たたず)みながら、三百年の時を経、やっとこの地にたどり着いた、という安堵(あんど)にも似た思いに包まれていた。この介錯人米良市右衛門が、私の母方の祖先にあたる。

 

 (二)

 私の大叔父(母方の祖母の弟)、米良周策の家の神棚から、古文書が出てきたのは昭和三十八年(一九六三)のことである。周策の父親は昭和八年(一九三三)に亡くなり、兄もまた太平洋戦争に召集され、抑留先のシベリアで果てている。米良家には、「女は神棚に触ってはいけない」という家訓があり、神棚は数十年もの間、放置されていた。

 昭和三十三年、私の曾祖母が亡くなった。続いて祖父が脳溢血で倒れ、その看病をしていた祖母がこれまた急死。周策にとっては、母親と姉を相次いで失ったことになる。たて続けの不幸に、これは何かあるに違いないと、神憑(かみがか)りの婆さんの神託を仰いだ。

 お告げは、謎めいていた。

「獣を殺(あや)める者がいる。倒れている。それは壁にくっついている。だから悪いことが起きたのだ」

 と何とも要領を得ない。みな頭を抱えた。家中探したが見当がつかない。そうしているうちに、米良家に何年も開かれていない神棚があることに気がついた。

 恐る恐る開けてみると、中から真白いキツネが二体と古文書、それに細川家の家系図が出てきた。

 神棚は壁にくっついている。中から出てきた二体のキツネのうち、雌が倒れていた。周策は、町役場に勤めるかたわら、狩猟を行う。お告げが解けた。

 その神棚から出てきた古文書に、堀部弥兵衛の介錯にかかわる記述がみつかり、北海道の片田舎に大きな騒ぎが巻き起こった。このとき私はまだ三歳で、この騒動の記憶はない。

 私は数年前から趣味でエッセイを書いているのだが、たまたまこの話をネット上で公開していた。それを読んだ熊本の史家の眞藤國雄氏が、自身のホームページで、札幌にいる大叔父の消息を問いかけた。すると、電話帳のソフトをもっているという人が現れ、札幌在住の二名の米良姓の住所の提供を受けた。さっそく眞藤氏は、私のエッセイを添えて問い合わせの手紙を出した。その一通が、周策の次男の元に届いた。長男は電話番号を公開していなかった。

 次男から長男のもとにいる周策に手紙が転送され、再び大騒ぎが巻き起こった。

「うちのことをことこまかに知っている小山次男という人物は、一体何者だ」ということになった。

 周策は、知りうる限りの自分の姉たち(ほとんど他界している)の子孫に電話をかけた。

 判事を退官した甥が、

「個人の情報を無断で公表するとはもってのほか、法的手段に訴えるべきだ」

 と息巻いた。だが、小山次男なる人物が誰なのか、一向にわからない。最後に、実家の母のもとに電話がきた。母は周策の姪(姉の子)にあたる。母から私のもとに電話があった。

「あんた、小山次男って知ってるかい」

 ストレートな母の問いかけに、意表を衝かれた私は、それはオレだ、と素直に認めた。母は私がエッセイを書いていることを知っていた。だが、ペンネームや会社のホームページでエッセイを公開していることまでは、明かしていなかった。気恥ずかしさがあったのだ。

「なにー、ケンが書いだってか。たいしたもんだな」

 驚いた周策も、私の文章に感激してくれていたようである。

 八十二歳(二〇〇五年)の周策は、体が思うように動かない。長男も忙しさに紛れて眞藤氏への返答を出しそびれていた。そんなある日、今度は会社を経由して東京の赤穂義士研究家の佐藤誠氏から、問い合わせが舞い込んだ。

 佐藤氏との親交は、ここから始まった。佐藤氏は熊本の眞藤氏のこともご存知で、私のエッセイを眞藤氏に紹介したのも佐藤氏であった。現代の歴史研究家は、インターネットを駆使し、密接に情報の交換をしていた。後日連絡をとった眞藤氏によると、佐藤氏は赤穂義士の研究では他の追随を許さない方だという。義士切腹の地の訪問も、この佐藤氏から教えてもらって実現していた。

 

 (三)

 佐藤誠氏の後ろ盾を得た私は、本格的な米良家の資料探索を開始した。まず、米良家から昭和三十八年に出てきた三種類の古文書を借り受けた。ひとつは、一九〇ページに及ぶ細川家の系譜である。あとの二つは、米良家の由緒を書いたものと過去帳の写しで、後日、「米良家先祖附写(せんぞづけうつし)」、「米良家法名抜書(ほうみょうぬきがき)」と佐藤氏に名を付してもらった。いずれも江戸期から明治初年にかけて書かれたもので、素人には読み下すことができない。佐藤氏はその文書の翻刻(ほんこく)と現代語訳を作成してくれた。

 さらに佐藤氏は、この二通の古文書をもとに系譜を作成した。寛文七年(一六六七)に死去した初祖から、明治三年(一八七〇)に家督を相続した九代目までのものである。九代目以降は空白になっていた。

 そこで再度米良家に問い合わせると、除籍謄本が三通あるという。除籍謄本とは、死亡や結婚などで除籍され、カラになった戸籍謄本のことである。

 米良家にあった除籍謄本は、曾祖父である四郎次(しろうじ)(周策の父)が明治二十二年、熊本から屯田兵を志願して北海道に渡り、その後浦河に本籍を移してからものである。そこで、曾祖父を遡るべく札幌市と熊本市に除籍謄本の請求を行なったが、八十年という保存年数の経過により、すでに処分されていた(二〇一〇年の法改正で、除籍謄本の法定保存年数が一五〇年に変更された)。

 だが、この三通の除籍謄本により、九代目以降の空白が埋まった。周策は十三代目であり、高校生(二〇〇六年当時)の孫は十五代目にあたる。米良家四百年の歴史が、初めて一本の線でつながった。大名家ならまだしも、下級士族(三百石)でここまで判明するケースは稀だという。

 この調査の過程で、もうひとつの発見があった。佐藤氏と連絡を取り合うようになってから、何度か、米良亀雄なる人物が家系にいないかと訊かれていた。もちろん誰も知る者がいない。今回、除籍謄本を手繰っていて、周策の伯父が米良亀雄であることが判明した。

 さっそく佐藤氏に報告すると、

「神風連(しんぷうれん)の乱で戦死した米良亀雄という人物が市右衛門の末裔(まつえい)では、という私の推定は当たっていた」という興奮気味のメールが返ってきた。

 神風連の乱とは、明治九年(一八七六)に熊本市で勃発した新政府に対する士族の反乱である。亀雄とのつながりが明らかになった夜、佐藤氏は自身のホームページで米良亀雄について触れている。

 

 墓は熊本市本妙寺常題目(じょうだいもく)墓地にあり、名は「実光」という。神風連の乱では熊本鎮台(ちんだい)歩兵営(熊本城)を襲撃して奮戦したが、弾丸により重傷をうけ、岩間小十郎宅に退いて、立川運(はこぶ)、上田倉八、大石虎猛、猿渡常太郎、友田栄記らと共に自害した。二十一歳のことである。

 この亀雄さんの墓を捜索した熊本の史家故荒木精之(せいし)氏は、亀雄さんの墓を見つけた感想を、自著『誠忠神風連』において二首の和歌にしている。

 

  藪(やぶ)をわけさがせし墓のきり石に御名はありけりあはれ切石

 

  まゐるものありやなしやは知らねども藪中の墓見つつかなしえ

 

 荒木氏は、漸(ようや)くに墓を探し当てた。参る人の誰もいない墓が藪の中にあって、何とも悲しい情景である、と結ばれていた。

 

 残念ながら、私にはこの「神風連の乱」に関する知識がなかった。かろうじて士族の反乱として、受験時代にその名を記憶していただけである。この神風連の乱と前後し、各地で不平士族の反乱が多発している。最後は、明治十年の西南戦争であった。

 さらに佐藤氏によれば、この米良亀雄の叔父市右衛門(のちの左七郎、九代目)の「戦死」と記されている年号と、西南戦争が符合するというのだ。

 帯刀が禁止され、断髪令が下り、俸禄(ほうろく)までも召し上げられ、丸裸にされた武士たちが暴発したのである。そんな時代の荒波に、私の曾祖父たちも翻弄(ほんろう)されていた。

 

 今回の探索で私が興味を覚えたのは、それまでまったく伝わっていなかった曾祖父の足取りが、わずかながら確認できたことである。それまで曾祖父を知る人も、史料も何も残されていなかった。思いもかけない除籍謄本の出現により、その本籍の変遷と家族の生没によって、曾祖父の足跡を垣間見ることができた。

 曾祖父米良四郎次は、今からちょうど一四〇年前の慶応二年(一八六六)に熊本で生まれ、兄亀雄が自害した年に、わずか十二歳で家督を相続している。父親を五歳、弟を七歳、そして母親を十四歳で失っている。兄亀雄が家督相続する以前、先に父親から家督を継いでいた叔父(左七郎)から、数年で亀雄に家督が移っている。このことからも明治初年の混乱が窺(うかが)える。

 熊本藩に残る『細川家家臣先祖附』は、細川家が家臣に命じて由緒書を提出させたもので、現在、原本は永青文庫(東京目白台の細川家下屋敷跡地にあり、細川家の歴史資料、文化財を保存。現在の理事長は、細川藩主家十八代当主で元首相の細川護煕(もりひろ)氏)の所蔵となっている。『米良家先祖附写』は、細川家に提出した由緒書の写しであり、代々加筆され明治三年七月の左七郎の筆で終わっている。

 

 (四)

 武士の時代は完全に終わっていた。だが、彼らにはその現実が受け入れられなかった。時代の残滓(ざんし)ともいえる存在の中で、過去の幻影にしがみついて暮らしていた。だが、そんな生活にも限界があった。武士の気概を持ちながら生きる、その最後の手段が屯田兵だった。

 屯田兵制度の発足は、明治七年である。北方警備と北海道の開拓を目的とし、時の開拓使次官の黒田清隆の発案により、札幌の琴似(ことに)を皮切りに入植が開始された。興味深いのは、屯田兵制度の創設の発端が、西郷隆盛の建議によるものであることだ。当初、西郷は屯田兵の司令官を希望していた。その後、西郷は下野(げや)し、西南戦争の首謀者(しゅぼうしゃ)となる。周りから担ぎ上げられたとはいえ、西郷もまた旧時代の人であった。

 新天地を求めて、開拓団に加わる者がちらほら周りに現れてきた。北海道には広大な手つかずの土地が豊富にあり、開墾しただけ自分のものになる。しがらみも何もない土地で、再出発しようじゃないか、と呼びかける人もいた。聞こえてくるのは、夢のようないい話ばかりだった。

 明治二十二年(一八八九)、二十四歳の四郎次は二歳年上の妻ツルと三歳の長男義陽、それと生後七か月の長女栄女を伴って熊本を発った。またこのとき、四郎次の育ての親ともいえる亡叔父左七郎の妻、春道院(俗名不詳)も一緒だったものと思われる。屯田本部差し回しの御用船は、二一〇八トンの相模丸である。四郎次は刀剣、甲冑(かっちゅう)などの武具はもちろん、藩主から拝領した代々の品々に加え、夥(おびただ)しい数の家伝の文書を携え、乗船した。それは二度と再び故郷には戻れない旅だった。

 旅立ちを前にした慌しい日々の中、四郎次は菩提寺の宗岳寺へ赴いた。先祖代々の墓を持って行くことは叶わない。宗岳寺にいくばくかの寄進をし、墓守を僧侶に託した。当主として、せめて祖先の証しだけでも持っていきたい。厳しい残暑の中、吹き出す汗を拭(ぬぐ)いながら、ひとり静かに過去帳を写しとった。

 

 津軽海峡を通過したころから、空気が一変した。九月中旬、不安と期待の交錯する中、四郎次一家はついに北海道に降り立った。上陸した彼らが真っ先に目にしたものは、すでに色づき始めていた山々の紅葉であった。

 札幌までの道中は、思いのほか長かった。雑木林の間から、マッチ箱のように建ち並ぶ兵舎の屋根が見えてきた。どの家も細い筒を持ち、そこから白い煙が立ち上っている。生まれて初めて目にする煙突だった。札幌郡琴似村大字篠路(しのろ)字兵村六十五番地、そこが新たな生活の拠点であった。

 引越しの荷を解く間もなく、初雪を見た。長旅の疲れと、想像を超える寒さに、幼い子供たちが次々高熱を発した。夢のような生活を聞かされていた妻ツルにとって、現実はあまりにも厳しかった。こんなはずではなかった、という悔恨の思いが胸に去来する。涙を流さなかった日はなかった。南国で生まれ育った者が経験する、初めての長く厳しい冬だった。当時の耐寒設備は、極めて劣悪だった。一緒に渡道した春道院は、最初の冬を越すことができず、翌年二月に亡くなっている。

 

 明治三十七年、屯田兵制度が廃止される。四郎次には十八歳になった義陽を筆頭に、五人の子供を抱えていた。

 明治四十五年、四十七歳の四郎次は浦河町に本籍を移している。営林署に勤務し、国有林の監視の仕事を得、転居したものと思われる。

「外出の時はいつも袴(はかま)をはいていた」

 現在(二〇〇六年時点)、浦河に住む大正九年生まれの大叔母キクが、幼いころの父親を記憶している。現在存命する四郎次の子は、周策とすぐ上の姉キクの二人だけである。

 だが、このキクの記憶は、幌泉郡での記憶だった。札幌を出た四郎次は、直接浦河に入ったのではなく、現在のえりも町の外れの集落にいた。そのあたりの経緯は、深いベールに包まれている。

 四郎次は、六十八歳で他界している。かねてから自分の出自が気になっていたキクが、米良家の除籍謄本を取り寄せた。私が米良家から借り受けたものである。

 除籍謄本で見る限り、四郎次には少なくとも十四人の子がいる。そのうちの五人が本妻ツルの子で、あとの九人は妾(めかけ)の子であった。私の祖母も含め、周策もキクも妾の子であった。この妾が私の曾祖母チナである。今回、除籍謄本を手繰って、私は初めてその事実を知った。

 四郎次とチナとの間の最初の子は、屯田兵制度が廃止された翌年の明治三十八年に生まれている。

 チナの本籍は、幌泉郡大字歌別村番外地とあり、昭和三年に四郎次の戸籍に入籍した時点では両親がすでになく、チナ自身が戸主となっていた。二十歳で一人目の子を生んだチナは、四十三歳で四郎次の戸籍に入籍している。四郎次との年齢差は二十歳で、長男の義陽と同じ歳であった。

 四郎次の除籍謄本には、本妻やその子、孫、さらに、後妻とその子らが加わり、十八名が名を連ねている。この除籍謄本を見る限り、本妻を含めその子らも複雑な人生を歩んでいる。

 若くして死んでいく子供たちの届出を、四郎次が行っている。ツルの死は大正十四年で、この届出は同居の義陽が札幌で行っている。ツルの死亡住所は、長女栄女の二人目の夫の所在地である。この栄女は、十歳で養子先から復籍している。

 このツルの亡くなった場所は、栄女の後夫の本籍所在地である。かつてこの場所には札幌農学校(現在の北海道大学)の官舎があり、新渡戸稲造夫婦が寄宿していた。現在のANAクラウンホテル札幌の場所であり、番地まで符合する。栄女の後夫は札幌農学校関係者であった可能性も否定できないが、詳細は不明である。

 昭和五年に死亡した義陽の死亡届は、四郎次の手により網走郡美幌町に届けられている。義陽夫婦には子供がいなかった。栄女の後夫との間に生まれた女子が、義陽の養女となっているが、義陽の死にともない、わずか一年で養子縁組を解消し、四郎次の籍に復籍している。義陽の嫁は翌年、青森の実家の籍に戻っている。

 次女照も二人目の夫と離婚し、その後三人目の夫も亡くし、結局、東京で死んでいる。

 次男、三男の存在は、この除籍謄本ではわからない。長男の次がいきなり四男となっているためである。このひとつ先の屯田兵時代の除籍謄本がないのが残念である。札幌市西区役所によれば、平成七年(一九九五)に除籍謄本が処分されているという(このときの除籍謄本の法定保存年数は八十年であった)。西区の戸籍係は、札幌全域で除籍謄本の探索を行ったが、どこにも存在しなかった、とわざわざ電話をくれた。あと十年早くこの作業をしていれば、と悔やまれてならない。

 とにかく複雑に戸籍が錯綜(さくそう)している。それはそのまま複雑な人生を物語っている。本妻ツルの子たちは不遇な境遇のもと、次世代に米良姓を残すことなく去っていった。

 だが、気になることがひとつある。熊本の眞藤國雄氏のもとに寄せられたもうひとつの札幌の米良姓の存在である。四郎次の次男、三男は夭折(ようせつ)したのではなく、その子孫が生き継いでいるのではないか、という思いが頭をかすめた。可能性は極めて低いことだが。

 

 (五)

 四郎次の死後、残されたチナや未婚の子供たちは、生活に窮した。すでに嫁いでいた娘アキ(私の祖母)のもとに同居することになる。アキの夫は隣町の様似(さまに)郡様似町で銭湯を営んでいた。娘たちはそこから嫁ぎ、兄は出征していった。

 大叔父周策は十四番目に生まれた末っ子で、四郎次五十九歳の子である。六人いた男子の中で、ただひとり後世に米良姓を伝える存在となった。だが、この大叔父も太平洋戦争では危うき目に遭っている。

 周策は海軍に所属し、第十六嵐特別攻撃隊、通称八田部隊に所属していた。ゼロ戦に乗って出撃するための訓練を行っていたのだが、そこで終戦を迎えている。(詳細は近藤健・佐藤誠著『肥後藩参百石 米良家』(花乱社刊)を参照されたい)

 それぞれが時代の困難に遭遇しては、奇跡ともいえる幸運に助けられ、米良家は今日まで続いてきた。そこには、いくつもの「もし……だったら」が折り重なっている。

 家督相続においても、三代目、五代目は養子である。五代目の子の有無は定かではないが、四代目の娘を四代目の弟の子に嫁がせ六代目とし、急場を凌ぎながら米良の血をつないでいる。

 また、明治三年(一八七〇)から四郎次が家督を継ぐまでの七年の間に、三人の当主が次々と亡くなっている。四郎次の家督相続年齢が十二歳であったことを思うと、いかに大変な時代であったかが窺える。

 現代の尺度からすると、四郎次の行動は理解に難しい。だが、それぞれが生きた時代がある。「そんな時代だったんだよ」という、諦念にも似た結果論で強引に括(くく)るしかない。だから、もしこの曾祖父が妾を作っていなかったら、米良家の存続はなかったろうし、私自身も存在しなかったことになる。

 古文書を眺めていると、その時代を生きた人々の様々な人生模様が浮かび上がってくる。その事実に光を当ててやることが、不遇にして死んでいった者たちへの鎮魂につながる、そう私は信じている。

 

 米良家の資料を探索し始めたころ、熊本の眞藤國雄氏から佐藤誠氏を通じて史家らしい問い合わせがあった。素人にはきわめて難解ではあるが、興味深い質問である。

 

「肥後の名家である菊池家は、菊池義武の代に宗家(そうけ)は断絶しております。義武の大叔父、菊池国重が日向米良に移り、米良氏を称しました。

 国重の四代孫の(米良)重隆の代より、寄合交代衆として将軍家に参府拝謁しています。幕末の当主米良則忠は、勤皇の行動を起こし、子武臣は維新後、菊池氏に復姓し華族(男爵)に列しました。

 米良氏は、肥後人吉・相良(そうら)藩の付庸(ふよう)という身分でしたが、なぜ寄合交代衆の家格を得たのか大変疑問に思うところです。

 市右衛門家の米良氏の出自はいかなるものでしょうか。日向米良氏とのつながりなどもし分れば、ご教示いただけると幸いです」

 

 日向米良家との関連の問い合わせであった。

「なんじゃそりゃ。自分の兄弟のこともよく分らないのに、そんな難しいことわがるわけないべぇ」

 十三代周策の弁である。

 眞藤國雄氏の問いかけは、我々が初祖(しょそ)と考えている米良家の祖先の、さらにその先の存在を示唆するものである。

 そこで私は、眞藤氏が把握している北海道の米良姓の提供を受け、調査の手紙を出した。四郎次の系譜を同封し心当たりを訊ねたのである。

 札幌の二件を含む七名の米良姓のうち、二件は宛先不明で戻ってきた。一人から回答を得たが、私の家系とは直接の関係はなかった。だが、その回答は興味深いものだった。

 

「私は、米良一族の本家、熊野別当家、実方院の直系です。先祖の姓は昔から米良ですが、呼び名は熊野別当何某(なにがし)と呼ばれておりました。私どもの古文書では、米良、妻良、目良は、一族なりと記されています。

 九州の米良につきましては、過去に宮崎の西米良で調査したことがありますが、詳細は不明でした。ただ、熊野水軍の一部が九州に住みついた経緯や、島津家との家紋争いの後、監視役として一族の中より九州に住みついた者もおり、その流れの中に、九州の米良姓が存在するのではないかと考えております」

 

 上川郡標茶町(しべちゃちょう)の米良氏の回答なのだが、この内容は、眞藤氏の質問にあった肥後の菊池家のさらに先を示唆するものである。この米良氏は、いわば、米良家の源流の子孫の方であった。

「熊野別当家の米良氏とは恐れ入りました」

 眞藤氏も驚いておられた。

 ここまでくると、さすがにお手上げである。あとは、この私の文章を目にした専門家からの情報提供を受けるしか手立てはない。

 

 (六)

 あるとき、たまたま赤穂事件関係の本を眺めていて、「栗崎」という姓が目に留まった。私はハッとして除籍謄本をめくった。四郎次の次女照が昭和三年に嫁いだ相手が「東京市本所区柳島梅森町二十六番地の戸主、栗崎近之助」とある。ドキッとした。

 この本は以前に佐藤誠氏からもらったもので、野口武彦著『忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声』(ちくま新書刊)である。最初この本を読んだときは、除籍謄本の入手前だったこともあり、栗崎の記述は読み過ごしていた。

 吉良上野介(こうずけのすけ)が、江戸城松の廊下で浅野内匠頭(たくみのかみ)に斬りつけられた際、御典医の栗崎道有(どうう)がその手当に当たった。道有は、当代随一の外科医と称される南蛮(なんばん)医である。

 インターネットで検索してみると、この松の廊下事件後も、道有はしばしば本所の吉良邸に出向き、上野介の予後の処置を行なっている。「栗崎」というそれほど一般的でない姓と、本所という共通の地名に、栗崎近之助が道有の子孫ではないかと先走ったのだ。

 佐藤氏にそのことを伝えると、早速に返信が届いた。

「栗崎道有は、幕臣として江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)という系図集にも載っています。しかし、これ以後の子孫について、私は詳しい情報を持っておりません。道有は、伝来の文書も手放したらしく、現在は東京大学附属図書館にあります。

 栗崎の墓は吉良と同じ中野区上高田の萬昌院(ばんしょういん)功運寺にあって、ご子孫が建てた卒塔婆(そとうば)がありました。施主としてご子孫の名前があったように思います」

 佐藤氏の該博ぶりには、改めて舌を巻く。佐藤氏はお寺を訪ねていた。

 さらに検索していくと、栗崎家が代々長崎で開業し、道有自身も長崎から上京していることがわかった。長崎といえば、有明海を挟んだ対岸が熊本である。道有の末裔の栗崎道隆氏が、熊本市本山町で医を生業としている、という記述があった。四郎次の熊本での居所は島崎(しまさき)で、本山町との距離はわずか数キロである。元禄期の米良市右衛門の居所は、今の熊本市役所付近の手取(てとり)で、本山町とはさらに距離が近くなる。

「この道隆氏のご令姉トキ氏は東京女高師の出身で、森山辰之助氏(前青森県師範学校長)夫人となり、『婦女新聞』の長い愛読者だったが、昭和十二年春、他界された」という記述をインターネットで見つけた。この記述が正しいとすれば、道隆氏の生まれは明治中期以前と推測できる。四郎次と同世代の可能性もある。ここで〝熊本〟という、新たな共通のキーワードが加わった。

 だが、私がドキリとした最大の根拠は、四郎次が自分の娘たちを次々と看護師(看護婦)にしていたことである。当時の田舎のこととしては、とても珍しいことだった、と祖母アキの言葉として母が伝えている。現に照のすぐ下の妹ハルは、医者に嫁いでいる。栗崎近之助が医者だったとしたら、その確証はいよいよ深まることになる。

 ここまで共通点がそろってくると、近之助が道有の子孫ではないかと思いたくなる。熊本での四郎次と栗崎家との接触は、十分に考えられる。熊本の米良家では、道有と上野介の関係のことは、もちろん承知していたはずである。問題は、北海道に渡ってからの四郎次との接点である。たとえ道有とは無関係な栗崎家だったとしても、娘の照を東京の本所に嫁がせているのは事実であり、東京と北海道の片田舎との間に、何らかの接点が存在していたことになる。

 これまでの私の推理が正しければ、吉良上野介の手当てに当たった医者の末裔(まつえい)と、その上野介の首を討ち取った一党のひとり、堀部弥兵衛の介錯を行った米良市右衛門の子孫とが、二二五年の時を経て再びめぐり合っていたことになる。私の血が再び騒ぎ始めた。

 赤穂義士に討ち取られた上野介の首は、その翌日に泉岳寺から吉良邸に戻っている。その首と胴体を縫合(ほうごう)したのは栗崎道有である。道有は首だけではなく、ほかの刺し傷も丁寧に縫い合わせている。上野介の亡骸は、牛込の萬昌院に葬られた。道有自身の墓もこの萬昌院にある。

 大正七年(一九一八)、牛込の萬昌院は中野区上高田の功運寺に合併された。上野介も道有の墓も功運寺に移されている。その時、上野介を納めた甕棺(かめかん)は、無傷で掘り出されている。

 

 先日佐藤誠氏から、思いもかけないお誘いのメールをもらった。堀部安兵衛のご子孫にお引き合わせいたしましょう、というのである。私は思わず身を乗り出した。

 米良家の名代として、どんな口上を述べようか。あれこれと考えあぐねた。

「元禄十六年の切腹の節は、御役目とはいえ貴殿の父上の首を刎(は)ね……どうもすみませんでした」というのもおかしい。かといって「見事な最期でありました」と適当なことをいうわけにもいかない。どうしようか思い悩みながら、ワクワクした。

 大叔父にもこの報告をしなければならない。待ち合わせの日程まで決めていたのだが、土壇場で都合が悪くなり、三〇三年ぶりの再会は頓挫(とんざ)した。その後、改めて日程を調整して、対面が実現した。奇(く)しくもその日が、二月四日だった。義士切腹の日と重なったことに、偶然とは思えぬものを感じた。

 

 真実を求め歴史を掘り下げていくということは、過去からほんのわずかに顔を出している糸の端をたぐっていく作業である。この糸は、いわば〝縁〟である。人と人とのつながりを丹念にたどっていくと、人間の喜びや楽しみ、そして夥(おびただ)しい悲しみと苦しみがまとわりついてくる。思いもかけない発見があり、予期せぬ人物と遭遇する。そしてその糸の先は、未来につながっている。

 死者から伸びる一本の糸が分岐を重ね、複雑に絡み合いながら今を生きる我々生者につながっていく。母の血を遡上(そじょう)しながら、そんなことを強く感じた。

 

 付記

 米良周策 令和元年十月八日死去(享年満九十五歳)

 山本キク 令和二年四月二十六日死去(享年満九十九歳)

 

  2006年5月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

 付記

 2013年6月1日、『肥後藩参百石 米良家』― 堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその族譜 ― (近藤健・佐藤誠共著)を、福岡市の花乱社より刊行。

 

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