今回の “ 熊本さるく ”
(さるくとは九州の方言でぶらぶら歩き回るという意味)
熊本県の南部に位置する人吉市。
地元民は 『人吉・仲良し・こころ良し』 と
人吉・球磨地方の気質を称してこう呼ぶ。
明治43年(1910)の肥薩線が開通するまで
、まさに"かくれ里”というにふさわしい山峡の地であった。
内部抗争など紆余曲折はあったものの
その隔絶された地理的要因ゆえに外部から大きな侵略を受けることなく
建久9年(1198)、源頼朝の命を受けて
遠州(現在の静岡県)から初代・相良長頼(さがらながより)が着任し以来
明治維新までの約700年の長きにわたり改易なしで相良藩による統治が続いた。
この特異な地域性は
草深い山里におだやかであたたかく大らかな気性を醸成し
独自の仏教文化圏を形成したと言われている。
*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:
訪れた日はあいにくの大雨!(。>0<。)
さるく予定の変更を余儀なくされた。
しかし、雨の城下町・人吉もなかなかいいじゃないか!と
常に気持ちはプラス思考。(*^▽^*)
十数年前には仕事でよく来ていて、当時気になっていたのがこれ!
★山の中腹に目立つ幽霊の看板?
その山の麓にある別名 幽霊寺と呼ばれる 『永国寺』
改築後仁王門として再建。
両脇には身の丈2mもある仁王像がにらみをみかす。
二階部分には、梵鐘がかけられており
諸行無常の響きをたたえている。
★曹洞宗 蓬莱山 永国寺
幽霊が出たことで有名なお寺 『永国寺』 の歴史は大変古く
室町時代の初期の応永15年(1408)に
相良前続(さがらさきつぐ:相良氏第九代) の開基により
実底超真(じっていちょうしん)和尚が開山したというから
今から約600年前の創立になる。現在の住職は40代目。
また、このお寺は、明治10年(1877)に起きた西南の役の際
田原坂(現熊本市植木町)で敗れ
熊本から退却し人吉に入った西郷隆盛が
薩軍本営に定めた寺としても知られている。
同年5月30日に村山台地(人吉駅の北側)を占領した官軍は
人吉城下を激しく攻撃。
辺りは大激戦地となり、この兵火によって
寺院および幽霊の掛軸以外の寺宝はことごとく燃えてしまう。
この本堂は明治24年(1893)に再建されたものである。
★西郷隆盛先生之遺跡の碑(海軍大将山本英輔書)
西郷隆盛が33日間在陣した。
しかし、攻め寄せる官軍の為
狙撃隊長池上四郎の部隊に守られ
加久藤峠を越えて退却していった。
★人吉二番隊士の碑
西南の役の五木村平瀬の戦で戦死した6名の冥福を祈り
明治24年5月に建立。
★千手堂(観音堂)
当寺は肥後三十三観音巡りの第九番札所となっている。
本尊は千手千眼観音様で江戸時代の作。
そしてこれが
今も本堂の裏にある。
咲き乱れる花を、湧水池で四季折々の変化を楽しむことができる。
夏の今の時季はスイレンがうつくしい
でーっ
当時どんな幽霊が出たかというと
ワン・・・・・!
ツー・・・・・!!
スリー・・・・・!!!
これだ!(ノ゚ο゚)ノ
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
この寺を開山した
実底和尚が描いたと伝えられる。
創建当時
近くの村に、さる知名の士がおり、妾(めかけ)を囲ったが
本妻の嫉妬に悩み、球磨川に身を投げて非業の死を遂げた。
しかし、その怨みが幽霊となり、本妻を苦めた。
本妻は実底和尚を頼り、当寺に駆け込んだ。
和尚の前に現れた幽霊は、和尚より因果の道理を説き聞かされ
和尚が描いた己の醜い姿に驚き、和尚に引導を渡して欲しいと懇願し
実底和尚の引導に依り成仏し、それから現れなくなったという。
通称 「幽霊寺」といわれる由縁である。
お寺の中にはこんな部屋も・・・・。
さまざまな心優しいことばがつづってある。
熊本さるく 次回は ~人吉(2)へ
本日は以上です。