わが古里シリーズ!
大正13年
75歳の清浦奎吾は熊本で初めての内閣総理大臣になった。
官界歴50年あり出世栄達の道を極めた人である。
我が母校にも銅像と清浦文庫があったことを思い出す。
山鹿市鹿本町来民(くたみ)にある清浦記念館へ
★清浦奎吾先生の銅像
身を田舎町からおこし苦学力行し藩閥も学閥も姻戚もないところから
総理大臣にまでなった清浦奎吾。
親の教えの四恩(親・先輩・朋友・時世の恩をいう)を忘れず
清廉、潔白、高風清節の士としての生涯は誠に立派なもので
近年の政官の汚職等聞くにつけ清浦奎吾の生き方が大変尊く思われる。
漢学をはじめ広く学問を修めた清浦奎吾は
わが国の法律制定に大いに貢献し
後に司法、農商務、内務大臣、枢蜜院議長を経て
大正13年1月内閣総理大臣となる。
嘉永3年(1850)
鹿本町来民の明照寺、大久保了恩の五男に生まれ
幼名を普寂(ふじゃく)といった。
★生家の明照寺 (清浦記念館の前にある)
12歳の時
熊本市浄行寺の養子となったが
青雲の心にもゆる彼は
寺の法燈を継ぐ気にならず来民に帰る。
16歳の時
父母を説得して日田(大分県)の
咸宜園(かんぎえん)の私塾に入門。
ここ咸宜園は
広瀬淡窓が幕末の文化14年(1817)大分の日田市豆田に開いた
西日本有数の私塾で90年間続いた。
この全期間の塾生は4800人に達し、全国から秀才が集まり
この塾を出た幾多の人材が各方面に大きな貢献をしている。
普寂は苦学を続け都講という塾生最高の地位につき
塾主の代範を勤めるまでになった。
この塾で6年間勉学し意気揚々とふるさとの土を踏んだ。
この頃に「清浦奎吾」と改名している。
後日「自分の今日があるのは咸宜園に学んだことがその一つである」
と述べている。
本日は以上です。