古代の丘にたたずむと、はるか悠久のロマンが蘇る!
おなじみの、わが古里シリーズ
『鞠智(きくち)城』 は、7世紀後半、今から1300年前に、
現在の熊本県北部(山鹿市と菊池市)に築かれた
古代山城である。
★全国でも珍しい八角形の鼓楼が特徴。
最上階の三層目に太鼓を置き、城内に連絡や時間を知らせ
たり、見張りの役目を果たしていた。
★八角形鼓楼(復元建物)
友好関係にあった朝鮮半島の百済(くだら)を復興するため
援軍を送ったが、西暦663年の「白村江の戦い」で、唐と新羅
(しらぎ)の連合軍に敗北し、亡命を望んだ百済の王族・貴族
等を伴って帰還した。これにより事態は急変し、直接日本が
戦いの舞台となる危険が生じたのである。
このため大和朝廷は、北部九州から瀬戸内沿岸、近畿地方
にかけての各地に山城を築き、国防力の強化を図った。
これらを古代山城といい、『鞠智城』 はそのなかのひとつ。
(佐賀県)、金田城(長崎県)が造られた。
『鞠智城』 は、大宰府の南約62キロ、有明海に注ぐ菊池川の
河口からも約30キロ遡上した内陸部に位置し、古代の交通の
要衝にあり、有明海沿岸や九州南部から上陸した侵攻勢力を
迎え撃つには、最適の場所であった。
このため、北部九州の前線に兵器や兵糧、兵士を送り込む後方
支援基地としての役割とともに、南からの攻撃に備えた軍事拠点
であったと考えられる。
★米倉(復元建物) 高床式・校倉造りの食糧庫
約1200俵もの米を保管できる
茅葺の屋根
★兵舎(復元建物) 兵士たちの生活の場
1棟あたり50人の防人が寝泊まりしていた。
板屋根が特色。
★長者山展望広場休憩所
板倉の更に奥の小高い山に建てられている。
中には、映像解説ビデオを見ながらくつろぐ
事もできる。
この日はあいにくの曇り空であまり視界がよく
ないが、広大な眺めである。
さらには、
この先には、360°パノラマの灰塚展望所が
あるが、さすがにオヤジには・・・
池の尾門跡等がある。 今日は・・・やめとこ(笑)
「温故」は、調査研究、「創生」は、整備による利活用を意味する。
この碑には「防人(さきもり)」の詩が書かれている。
万葉集には、防人やその家族が作った歌が、98首 収め
られている。そこには、家族から切り離された苦悩や
将来の不安・恐怖が生々しく表現されている。
「 朝な朝な(あさなさな) 上がるひばりに なりてしか
都に行きて はや帰り来む 」
(朝ごとに 飛んでゆくひばりのように なりたいものだ
都に行って すぐ帰って来れるように)
「韓衣(からころも) 裾に取り付き 泣く子らを
置きて来ぬや 母なしにて」
(私の衣の 袖に取り付いて 泣く子供達を
置いてここまで来てしまった 母親がいないというのに)
「わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に
影さへ見えて 世に忘られず」
(私の妻は ひどく恋い慕っているらしい 飲む水にも
妻の影まで見えてしまって とても忘れられない)
★イメージキャラクターの「ころう君」・・今流行りのゆるキャラ!
以前のブログ記事、「山鹿灯籠浪漫・百華百鮮」のイベント
に出張して来てた時、ちょっと紹介してますョ)
★鞠智城ジオラマ(面積は約55ヘクタール)
外郭線は山の尾根や崖線で形成され、谷部には
深迫門、堀切門、池の尾門の3つがつくられている。
考えられる食器としては土師器(はじき)が使用されていた。
平成20年10月23日鞠智城跡より国内初となる
青銅製菩薩立像が・・・。
地表下1.5mの土中より、仰向けの状態で出土した。
館内には、その他鞠智城が築かれた時代とその
役割を展示物と映像によって学ぶことができる。
また、向いの公園入り口にある
漬物等の手づくり加工品やお土産も買うこと
ができる。
現在鞠智城跡は、古代山城の構造を適切に保存
しつつ歴史公園として整備が進められている。
本日は以上です。