史実・定説に基づく池田屋事件 | 以蔵のblog

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大河ドラマ「新選組!」放送以来から現在まで新選組…幕末にはまってます。さらに最近は宇宙に夢中…

今年の春は台風かっていうぐらいの強風が吹きまくってるね。これも異常気象のひとつと言えるのかな…?
さて、前回思う存分語った感のある八重の桜においての池田屋事件。
あれはドラマの世界における池田屋事件。では、今に伝わる新選組史における池田屋事件とは、いったいどのようなものだったのか⁉史実や定説に基づく池田屋事件について、今回は書きたいと思います。
元治元年6月5日、これは旧暦なので、現代でいえば7月上旬…まさに真夏と言える季節である。
6月5日は祇園祭の宵山(前夜祭)。その早朝に、以前から尊攘派志士らが頻繁に出入りしている不審な場所としてピックアップされていた四条小橋にある炭薪商桝屋を家宅捜索した新選組。その捜索の指揮をとったのが、新選組軍学師範を務める武田観柳斎…という説が根強いが、定かではない。
家宅捜索の結果、武器や長州藩とやり取りした書簡など多数の不審物を発見、そこに居た主人喜右衛門を捕縛し、壬生屯所へ連行した。
桝屋の正体は、近江出身の勤王志士古高俊太郎で、新選組の残虐ともとれる拷問により、想像を絶する陰謀を白状した。その陰謀とは、御所に火を放ち、その混乱を利用して、松平容保や一橋慶喜を殺害、帝(天皇)を長州に連れ去ろうという過激なもの…まさにテロ計画である。
すかさず新選組は会津藩に報告。会津は、新選組に祇園会所で下知があるまで待機するよう命じた。
完全武装し、会所にて下知を待つ新選組…だが、一向に下知が来ない。これ以上待ち続けていれば、京の町は大惨事になる…近藤勇は新選組単独での捜索を決意する。隊を二手に分け、鴨川の東西をローラー作戦で捜索開始。一説では、ローラー作戦で宿や茶屋などを1件1件余すところなく捜索したとあるが、実際はある程度不信箇所を事前にリサーチしており、そこを捜索していったようだ。
2時間捜索を経た22時頃、近藤勇率いる一隊は、三条小橋にある不審箇所のひとつである旅館・池田屋に辿りつく、尊攘派浪士が集合していることをある程度事前に察知していたのか、それとも直前に情報を入手していたのかはわからないが、近藤は近隣の住民に池田屋の間取りなとを聞き、適切な場所に隊士を配置させるなど、用意周到に池田屋に足を踏み入れている。
「御用改めである!」、あたかも池田屋のためにあるかのような名台詞に聞こえてしまうが、どの場所でも、そう一言断ってから、捜索を開始していたのは想像に難くない。新選組の来訪に、池田屋の主人は驚き、2階奥の座敷に集結していた尊攘派志士らに、その旨を伝えにいく。それを聞いた尊攘派は、灯りを消し室内を暗転させ、逃走を試みる者、臨戦態勢に入る者…その動揺、混乱ぶりが伺える。
室内に現れた近藤は「手向かいすれば容赦なく斬り捨てる」と一言断り、向かってくる志士達と斬り合いを開始。その時、池田屋の屋内に居たのは、近藤、沖田、永倉、藤堂の4人だけ、それに対し敵は20数名、近藤が斬り合いを選択したのは、あくまで正当防衛であったのだと言える。しかも、沖田は昏倒し、藤堂は眉間を斬られ、戦線離脱…屋内は、近藤と永倉の2人だけとなってしまい、新選組は最大の危機を迎える。
そんな危機的状況の中で、近藤と永倉は死に物狂いで戦い続けるが、鴨川西を捜索していた土方率いるもう一隊が、池田屋に到着してから、一気に新選組優勢となる。ここから、近藤は方針を「殺害やむを得ず」から「捕縛」に切り替えている。その頃、ちょうど守護職や所司代も池田屋に到着し、周辺を完全包囲している。結果、池田屋からの脱出には成功したものの、屋外で捕らえられてしまった志士達も多い。
とは言え、そんな隙間の無い包囲網の中から、逃れた志士達も少なからず存在する。「逃げの小五郎」という、あまり名誉とは言えないあだ名を付けられてしまった桂小五郎(後の木戸孝允)も、その1人である。桂は屋根を伝い、藩邸(長州藩邸か対馬藩邸)に逃げ込み難を逃れた。桂自身の後年の手記では、新選組が襲撃した時は、池田屋に居なかったとしているが、それは事実とは思えず、自身が創作した感が強い。恐らく、桂は新選組襲撃時、池田屋に居たものと思われる。
戦闘開始から約2時間…事態は収束に向かった。猛暑の最中、2時間近くに及ぶ屋内での戦闘、しかも完全武装…新選組…いやその中でも最後まで戦い続けた近藤、永倉はまさに人類最強。想像を絶するしんどい時間だったに違いない。
その後も、残党狩りを継続した新選組。屯所に凱旋したのは翌日の昼過ぎだったらしい。
尊攘派志士達の過激過ぎるテロを未然に防いだ新選組の活躍は、瞬く間に全国に広がり、幕府や会津から褒賞金が与えられている。
長くなりましたが…これが史実、定説に基づく池田屋事件でした。