元治元年6月5日(1864年7月8日)、祇園会所に集結した新選組約30名は、近藤組と土方組の二手に分かれ捜索開始。近藤組は鴨川の西、土方組は東の浪士が潜伏していそうな旅宿など(ある程度ピックアップ済だったらしい)を家宅捜査していった…池田屋事件の新選組の動きはそんな感じです。
話を史跡巡りに戻しますが、祇園会所跡から四条通りを西に10分程度歩き、四条大橋に辿りつく…
四条大橋。鴨川の西の捜索を受け持った近藤組が渡ったのは間違いない。というか祇園へ直結する橋だから、新選組や尊攘志士達は何度もこの橋を渡ったであろう。この橋での新選組にまつわる事件と言えば、新選組の前身である壬生浪士組時代にまで遡る。壬生浪士組結成直後、近藤派、芹沢派ともうひとつの派閥であった殿内派の中心人物であった殿内義雄がこの橋で、何者かに斬殺された。近藤らの手により粛清された可能性は極めて高い、近藤自ら故郷に送った手紙で「殿内を打ち果たした」と告白しているため…w
そして、四条大橋を渡り、四条小橋前を三条方面に曲がるとそこは木屋町通。
木屋町通に入って、一つ目の狭い路地に入ってすぐの所に「志る幸」という料理店がある。ここが古高俊太郎邸跡。新選組に、この邸宅を家宅捜索され、古高俊太郎本人(当時は枡屋と名乗っていた)が捕縛されたことにより、池田屋事件が起こったと言っても過言ではない。店の前に石碑が建っているので、この史跡は比較的探しやすいです。
木屋町通に戻り、さらに鴨川寄りにある歓楽街・先斗町に入り、三条方面へ北上…
先斗町の三条大橋近辺には、三条制札事件 の時に原田左之助らが待機していたという三条会所があった。場所は特定できないが、写真の中のどこか一角が三条会所跡である可能性は高い。
そして、先斗町を抜け、三条大橋へ…
ちょっと遠目から眺めた三条大橋。ここはかなり人通りが激しい、そして橋周辺や河原では若者達がわんさか集う、待ち合わせスポット的な場所でもある。幕末も現在も、この辺りの混み具合は、もしかしたらそう変わらないのかもしれない。
この橋で新選組にまつわる出来事と言えば、上記で書いた三条制札事件、そして近藤勇の晒し首。
池田屋事件の時には、鴨川の東の捜索を受け持った土方組が、この橋を渡ったのは間違いない。
そして三条通りを西に向かい、運命の池田屋へ…
三条小橋の池田屋に到着っと言っても跡地だけど…(^_^;)。三条通り沿いは池田屋も含め、旅宿が何件も連なっていたそうだが、当時を彷彿させそうな建物はひとつも無く…イメージするのは相当難しい。現在、池田屋跡地とされる場所は「華の舞 池田屋店」になっていて、その存在感を前面に押し出している。ちょっと前までは、パチンコ店でまったく存在感がなかっただけに、新選組ファンにとっては嬉しい限りであるw。
池田屋跡地には「池田屋騒動の碑」が建っているが、石碑が正確な場所を示しているとは言えない場合もある。一説によると、池田屋跡地についても、実は正確な場所ではない可能性があるとの指摘がある。池田屋跡地は、まさに現在の「華の舞池田屋店」とされてはいるが、実はその隣の明治屋ビルディングが、正確な跡地であるという説もある。いろいろ研究された成果であるのは言うまでもないが、果たしてどちらが真実なのだろうか!?
どちらにせよ、この一角に池田屋があったのは、紛れもない事実であり、事件が起こった夜、この周辺は騒然としていたのは間違いない。
細かい検証はこれぐらいにして…何はともあれ、現在では幕末史にその名を刻む池田屋事件をきっかけに、新選組の名は瞬く間に全国に広がった。
幕末史跡巡りと言えば、この辺がメインかと思われますが、まだまだ続きますよw