曼珠沙華シングル 

シングル「美・サイレント/曼珠沙華」(1979.3)

本日1月17日は山口(三浦)百恵さんの56回目の誕生日です。かつて“花の中三トリオ”といわれた森昌子さん(1958.10.13生)、桜田淳子さん(1958.4.14生)と共に、私もまた「同級生」であります。私は1958年の4月生まれですから、誕生日がもっとも近いのは実は4月生まれの淳子さん。百恵さんとはわずかに2ヵ月あまりの“同い年”の期間です。本日は、私と百恵さんが共に56歳である日々の貴重な一日です。 

(阪神・淡路大震災から20年というのに個人的なヨタ記事で申し訳ありません。)

私は「ももじろう2号」などと自ら名乗りながら、百恵さんに関する記事をブログに書くのは主演映画のレビューを完結して以降は1年に1~2度あるかないかくらいでしょう。それがアメブロの中には、百恵さんネタで毎日記事を更新していらっしゃる超人的(狂人的?)なブロガーさんもいます。なにが彼らオヤジ(?)をそこまで駆り立てるのか、私も百恵ファンを自認していますが、実に不思議な感じです。
超人”の域には遠く及びませんが、本日は私なりの山口百恵“讃歌”を綴ります。

                
    
山口百恵さんの芸能界デビューをシングルレコード「としごろ」の発売日とすれば、それは1973年の5月21日、彼女は14歳です。そして芸能界の引退を日本武道館のファイナルコンサートと見なせば、それは1980年10月5日、彼女21歳の時となります。その期間は、同時代を代表するアイドルであり続けながら、音楽から映画・テレビドラマ、CMや芸能雑誌への登場など、まさにトップスターの座に君臨するものだったと思います。それはちょうど1970年代、その期間はおよそ7年半です。

そのトップスターぶりはレコードセールスであれば・・・、映画の観客動員であれば・・・、テレビドラマの視聴率であれば・・・といった数字に残されたもので知ることはできます。ただ、その数字を作り上げた彼女の芸能活動そのものだけで、私は山口百恵ファンになっているわけではありません。

レコードデビュー以前の「スター誕生」のオーディションを経て芸能界入りを決断するわけですから、彼女のその「決心」は14歳以前であり、その潔い芸能界からの身の引き方を「決心」するのも、当然21歳よりも早く20歳の頃には心に決めていたのでしょう。つまり山口百恵という女性のパーソナルな生涯を私なりに解釈すれば、0歳~13歳がプライベートな少女期、14歳~20歳がトップスターとしての芸能活動期間、21歳~56歳の現在に至るまでは自身が望んだ“女と家庭”の時代といえます。

芸能界を引退してからすでに35年近くの年月になるわけです。芸能活動をしていた10代の頃の4倍以上の年月を経ながらも、今なお色褪せないものは何か。それは山口百恵という少女のスターを夢見る「決心」、そしてスター・山口百恵として身を引く「決心」。ごく平凡な“女と家庭”をめざした覚悟と、揺るぎのないその後の生き方。そこに“熱烈”百恵ファンの私は愛情を越えた畏敬の念を持つのです。

これは以前にもブログに書いていますが、私の好きな“百恵ソング”のNo.1は「曼珠沙華」。1978年12月発売の16枚目のオリジナル・アルバム「二十歳の記念碑  曼珠沙華」のタイトル曲であり、翌79年3月のシングル「美・サイレント」のB面に収録されています。作詞:阿木耀子、作曲:宇崎竜童です。
少女が“女”に変ずるような情熱的な内容の楽曲で、オープニングに百恵さんのナレーションが入る。


           愛されるより 愛していたい
           歌手の前に 人間でありたい
           あなたの前で 女でありたい


このナレーションをいまだに聞くたびに、「あなた」の言葉で夫君の三浦友和さんを思い浮かべることはなく、こちらの胸がドキドキしてしまいます。心の中ではいつも「いいよ」って言葉を返しているんですけどね(失笑)。愚かなファンですが、いまだに熱い山口百恵ファンであります。



ここからは本日のブログテーマが「モモエ映画」ゆえ、強引なオマケの話です。

山口百恵の歌の世界を「曼珠沙華」のごとく、“女”の情念の世界まで高めていったのは、阿木耀子と宇崎竜童の“おしどり”コンビです。大学在学中のサークル時代からの付き合いですから、そのつながりはやはり強い。それに嗜好的にも似たようなものがあるのかもしれない。お二人そろって音楽活動以外に、映画への出演なども熱心な時期があるのである。

女優・阿木耀子で印象に残っているのは、1980年の東陽一監督の映画『四季・奈津子』。主演の烏丸せつこを自由な世界に導く、アンニュイな雰囲気の女性役を自然体の演技でこなしていました。見事なヌードも披露し、いまだに私のブログへはこの映画からアクセスがあります。いま調べるとこの作品で、報知映画賞の助演女優賞を受賞しています。

四季・奈津子 『四季・奈津子』(1980年、監督/東陽一)

一方の夫の宇崎竜童さん。映画『トラック野郎』の主題曲「一番星ブルース」を作曲している縁で『トラック野郎・ご意見無用』(1975年、監督/鈴木則文)への出演はご愛嬌。いきなり主演でしかも時代劇に出演した『曽根崎心中』(1978年、監督/増村保造)を見た時は、正直いって観客のこちらが心配になるような芝居の下手さだったと思います。

それでもその“素人くさい”芝居を、自らの熱情で押し切ってしまうようなところがあり、それも一つの役者の姿と受け入れられるようになります。工藤栄一監督の『その後の仁義なき戦い』(1979年)のチンピラ役や、TATOO[刺青]あり』(1982年、監督/高橋伴明)の犯罪者役は宇崎竜童“らしさ”が出ていました。1981年の映画『駅 STATION]』(監督/降旗康男)で日本アカデミー賞の助演男優賞を受賞しています。百恵さんの芸能活動ではほとんど縁のなかった映画賞に、ご夫婦そろって見事に輝いている。「さすが」ですね。

曽根崎心中 『曽根崎心中』(1978年、監督/増村保造)


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