母からの電話 | ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

25年以上1つの会社に健常者として勤務し、係長として人の上に立つようになった私が、
どのようにASD(自閉症スペクトラム)の特性と折り合いをつけて生活しているか、
その方法をお伝えしていきたいと思います。

今日、仕事をしている時に。

母から携帯に電話がありました。

昨日から降っていた雨は豪雨に変わり、
九州各地は避難警報が出ていたけれど、
母の住んでいる地域は、
川からも遠く、
土砂崩れの心配もなかったので、
安心して連絡していなかったのですが、
仕事中に電話などしてこなかった母が、
電話をしてきたということで、

「母に何かあったのではないか?!」

と思って、
仕事中でしたが、慌てて電話を取りました。

「どうしたの?!何かあった?!」

私が矢継ぎ早に質問すると、
電話の向こうでは少し気圧された様子の母が、
いつもの口調で話し出しました。


「お前の住んでいる地域は、
雨で大変なことになってるとテレビで見たから、
大丈夫かと思って連絡したのよ」

そんな母の言葉に、
私は母に何かあった訳ではなかったのだと安堵したのですが、
母を心配する気持ちが引いていってしまうと、
今度は寂寞とした感情が、
私の心にそっと染みだしてきました。

20代の頃に母から、

「お前のことはもう安心だと思ってる」

と言われていた私は、
すでにその当時から母に心配される立場ではなく、
母の心配をする立場になっていました。

40歳になる直前まで、
父に対するトラウマを克服出来ていなかった私は、
父の家族の迷惑を省みない言動を、
母のために諌めることは出来なかったけれど、
父の金遣いの荒さで苦労していた母へ、
父にバレないように、
陰からそっと、金銭的な援助を度々行っていました。
(父にバレたら私がお金を持っていると思ってたかってくるので、
母に対する金銭的援助を父には秘密にしていたため、
父は私が両親に自分の子供を預けるばかりで、
何の礼もしない娘だと思っていたようでした)

そんな私は、
子供の不登校と自分の転勤が重なって、
本当にどうしようもなくなった、
その時の1度以外、
自分の両親に対して心配をかけるような言動を、
どんなに苦しくても、
決してとることはしませんでした。

「両親に迷惑をかけることは絶対にしない」

18歳で体を悪くして働けなくなり、
19歳で結婚して、
20歳で離婚に至るまでに、
両親との間に起こった様々な出来事により、
両親と自分の間に親子の愛情はないものだと思って、
私は生きてきたからでした。

私にとって親は自分を育ててくれた、
大恩ある相手であり、
その恩に報いることはあっても、
決して成人した自分が、
頼っていい相手ではありませんでした。

そんな母からかかってきた、
私を気遣う電話。

今、なんだな、、、

そんな気持ちに捉われて、
私は少しの寂しさと切なさを感じました。

私が小学生の時から欲しかったもの。

そして、とうの昔に得ることを諦めたもの。

"親からの愛情"

それが、母からの電話という形で。

もう、必要としなくなった今になって。

82歳の母から突然、
46歳の娘に与えられたのでした。

母からの電話に

「大丈夫だよ」

と応じながら、
私は切なさで、
心臓がキュッと締め上げられたように感じました。

小学生の頃に、
ASD(自閉症スペクトラム障害)のため、
学校生活に馴染むことが出来ずに母を泣かせ、

「お前のことは理解出来ないから、
もう放っておくことにする」

と母に言われてしまった私が、
苦労ばかりをかけてしまった母を、
何とか幸せにしてあげたくて、
親孝行として始めた、
母親の前で徹底して行った、
良い娘のフリ。

今では意識しなくても、
母を前にしたら自然に出来てしまいます。

そんな行為を20年以上続けた結果、
母の心の中ではきっと、
ASDで理解出来ない子供の頃の私は、
過去のものになっているのでしょう。

そして、
ようやく普通の娘らしく育った私を、
安心して、
普通に愛することが出来るように、
なってくれたのでしょう。

それはそれで、
自分の努力の賜物だから、
嬉しくないことはないのだけれど。

出来ることなら、
子供の頃の人と違う本当の私のことを、
愛して欲しかったなぁ、、、

そんな複雑な思いを抱えながら。

それでも母の気遣いに感謝を述べて、
私は母からの電話を切ったのでした。