自殺したやつがそんなに偉いのか?! | ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

25年以上1つの会社に健常者として勤務し、係長として人の上に立つようになった私が、
どのようにASD(自閉症スペクトラム)の特性と折り合いをつけて生活しているか、
その方法をお伝えしていきたいと思います。

「自殺したやつがそんなに偉いのか?!」

これは私の母親が、
20歳の時、自殺未遂をした私に向けて、
言った言葉です。

私は19歳の時に、できちゃった婚をしました。

別れたいと告げた相手に乱暴されて出来た子供でした。

「子供が出来れば俺から逃げられないだろう」

私に乱暴した相手は、勝ち誇ったように私に言いました。

付きあい始めた当初から、結婚をほのめかしていた相手に、
私は普通の家庭で育っていなくて、
そんな私に育てられる子供が可哀想だから、
子供はいらない、と言っていました。

その時には理解を示した風に頷いていた相手は、
いざ私が相手に愛想をつかし、
自分から離れていこうとすると、
私に乱暴し、無理矢理子供をつくりました。

父親からわいせつな行為を受けていた私は、
性的なものを汚らわしいと感じていて、
極端に性的知識の少ない子供だったため、
子供を堕ろす、という事に対する知識も殆ど持ち合わせていませんでした。
(その当時はインターネットで知識を得ることも出来ない時代でした)

自分に乱暴した相手から、

「俺が堕ろすことに同意しなければ堕ろせないんだ」

と言われ、鵜呑みにし、
子供を産んで育てるという選択をしました。

高校を卒業して親元を離れ、
やっと自分の人生が生きられるようになった、
と思っていた矢先の出来事でした。

親の呪縛から逃れることが出来たら、
次は赤ちゃんの世話に明け暮れて、
私は自分の人生を生きることも出来ないのかと、
何のために生まれてきたのか分からなくなりましたが、
お腹の中に宿っている生命の方が、
自分の人生よりもきっと上等なものだから、
犠牲になるなら私の人生の方だろう、
などという考えも浮かびました。

そこまでして私と結婚することを望んだ相手なのだから、
私はこの人と、この子供と、
自分が子供の頃に得られなかった、
幸せな家庭を築いていこう、
などと自分の境遇を前向きに捉え直したりもしました。

けれど、そこまでして私と結婚したいと思ってくれていた相手は、
私が里帰り出産している間に愛人をつくり、
里帰り出産を終えて、
私と生後1ヶ月の娘が帰ってきた家に、
その愛人を

「泊めてやってくれ」

と言って連れてきました。

私には、自分の結婚相手の考えも、
私と生後1ヶ月の娘がいる家に泊まりにやってきた愛人の考えも、
理解することは出来ませんでした。

ただ、自分が子供の頃に得られなかった、
幸せな家庭を築いていこうという私の夢は、
一瞬で崩れ去りました。

それからその愛人は何回も私の前に現れ、
私の結婚相手は毎晩のようにその愛人と出かけて帰って来ず、
私は知り合いもいない結婚相手の地元で、
慣れない育児に1人奮闘するのに疲れ、

「自殺だけはしたらダメだ」

と思っていた心の糸がぷつん、と切れ、
大量の催眠剤を飲んで自殺を図ったのです。

たまたま家に帰ってきた結婚相手が、
意識を失っていた私を見つけ、
私は病院に運び込まれ、胃洗浄を受けて、
命を取り留めたようでした。

私が目を開けて最初に見えたのは結婚相手だったのですが、
結婚相手の私に対する第一声は、

「迷惑かけんなや」

でした。

私は結婚相手が家に愛人を連れてきたことも、
毎晩のように愛人と出かけていたことも、
自分の両親にも相手の両親も話していなかったところ、
私が自殺未遂を図ったことで相手の母親が、

「こんな嫁の面倒は見きれない、精神病院に入れろ!!」

と大騒ぎし、
私の両親は何でこんなことになったか理由も聞かず、

「全部こいつが悪いんだろう、連れて帰ります」

と決めつけて相手の母親に謝り、
私は何で自殺未遂を図ったのか、
誰からも理由を聞かれないまま、
檻のついた精神病院に入ることになりました。

元々、自殺未遂の理由は私の気が狂っていたからではなく、
激しいストレスに耐えかねてのことだったため、
私の心が落ち着いたら退院して実家に戻ったのですが、
退院した実家は決して私の心が安らぐ場所ではなく、

「こいつはキチガイの病院に入った」

と、私の目の前で私をバカにして笑う父親のいる家で、
私の精神状態は、ますます悪くなっていきました。
 
そんな状態で、今後のことを考えることなど出来なかったのですが、
退院してから母親は何かあるたびに、

「これからどうするの?」

と何度も何度も聞いてきました。

その言葉のプレッシャーに耐えられなくなった私が、

「自殺未遂したんだから、もう少し気を遣ってよ」

と言ったら、母親から返ってきた言葉が、

「自殺したやつがそんなに偉いのか?!」

という言葉だったのです。

私はそれからしばらくして、自分の自殺未遂の原因となった、
結婚相手と暮らしていた家に子供を連れて戻りました。

愛人を家に連れてくる男がいる家の方が、
命を取り留めた私に、第一声で脅しのような言葉を口にした男といる方が、
実家にいるよりマシだったのかと思うと、
自分が可哀想になってきます。

でも、ここまでとことん自分の人生が地に落ちたおかげで、
私はある1つの思いを胸に抱くことが出来ました。

誰も私を幸せにはしてくれない。

この思いが、
私が自分で自分を幸せにするための、
原動力になったのです。

私が、幸せの条件

自分が安心・安全に生存出来る場所があること

というのを1番にあげるのは、
こんな過去の経験も影響しています。

今なら母親のこの発言も、
私のことで色々大変な思いをして、
金銭的にも苦労したからこその発言だったと思えるのですが、
その当時の私は、本当に世界中には敵しかいないような、
そんな気持ちになっていました。

過去の出来事に「もしも」は、ないけれど。

もしも、あの時、母親が私に発した言葉が、

「これからどうするの?」

という質問ではなくて、

「これからこうしたら?」

という提案だったのなら、

私は結婚相手のいる家に帰ることはなく、
私の人生はまた違っていたのかもしれません。

でも、今の私があるのは、
あの時の人生の底のような経験があるからこそ。

自分を幸せにできるのは自分しかいない。

この真実に20歳で気付けたからこそ、
自分を幸せにするための行動が、
20年以上続けられたのだと思います。