フェイスブックに友人が載せた写真を見ると表情も見えず、感情がわからず、なんというか印象のない人物が写っている。自分だ。緊張が過ぎ、顔がこわばっている。巧みな微笑を見せているときもあるが、それもやはり違和感が湧き出てくる。
もともとは先輩(詳しくは割愛)の紹介で飛び込んでみたサークルでの写真なのだが、どうも僕という人間は顔の筋肉がこわばってしまうらしい。もともと人と接することは自分には不慣れだと思い込み一歩引いてきた。というよりは、いわゆるコミュニケーションは不慣れに見られていると思い込んでいる。僕は、つまり、周囲は『僕』というキャラは、普通なら笑いあって肩でも叩けばいい場面をそれをせずに、笑顔にも苦笑いにもとれる薄気味悪い微笑をつくる人間であっても納得してくれるのだろうと思っている。ただ周囲に対して甘えているわけではなくて、僕は、人に決められたこと、言われたことはそう思ってなくても、そういうことにしてしまうところがある。つまりはおべっかを使って生きてきた、人の出を伺う、顔色を伺うそんなやつなのである。だから、人と笑う時にしても、相手が滑稽な微笑をする自分を期待してるんじゃないかと思い、滑稽な微笑をしてしまうのである。
つまりは、人の中に入り素直に喜べばいいものを自分というやつはそれを表現できない男だ。
ただ、そんな自分が、滑稽な微笑をするのも忘れて、これまた気持ち悪く、ただ、本当に楽しそうに見える満面の笑みでいる写真を見つけてしまう。本当の自分を見られた、相手のことを考えずに人の気持ちの流れに逆らわずに、感情のままにしているところをピンポイントで写真にされたというのか。なんだか、自分の誰にも言っていない恥ずかしい秘密を公開されている気持ちになっている。その恥ずかしい秘密(写真)を嬉しそうにスマートフォンに保存するのである。
寝る前に川端康成や夏目漱石を読み想い更けるような落ち着き払った人にはなれないと悟っていた。
なぜか種違いの兄を思い出した。弁護士になりたいと言ってガソリンスタンド勤務だった男が突如学費を払って通信の大学に通い始めた。やつも今の僕と同じように自分の大半を気に入らなかったのではないだろうか。あまりにも一貫性がなかったやつの行動をどうとらえていいか僕も母も祖母もわからかったが、今はんな気がした。たぶん今なら、やつが家族ではなく赤の他人という条件下なら理解してやれるだろう。
そんなくだらないことがぽつぽつと浮かんでいるうちに睡魔が 襲ってきた。