昭和の生活(回顧録 その3:小学校低学年(1980年代前半)②) | 昭和こどもの生き残り。

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昭和後期生まれの管理人が面白かった事、楽しかった事、興味がある事をつぶやくブログです。
同世代の明日の活力の、若い世代の新たな気付きの、きっかけになれば幸いです。

<生活>

小学校生活

土曜日も登校

 完全に週休二日になったのは2002年からだそうで、私の時代は3時間授業(給食なし)でした。

 週休二日は家族で旅行とかにはいいんでしょうけど、友達と遊ぶのには不向きじゃないですかね?

休みだとまず誰と遊ぼう?ってとこから始めなきゃいけないんですが、土曜日登校だと学校での流れからそのまま、じゃあ昼ご飯食べてから集合ね!となりやすいんです。

 しかも平日に家庭の事情で遊べないという子も土曜日なら、って子も多かったですしね。

 

 それに毎週土曜日に3時間授業時間を確保していることにより、平日にも余裕がありました。

大きな休み(夏・冬・春休み)前後1週間くらいは給食もなく3時間授業だったり、年度末は授業というより物を作る的なことが多かったような気がします。文集とか工作とか。

 

 今は始業式の翌日や終業式の前日ギリギリまで6時間授業だとか、夏休みが短くなったりとか、なんか気持ちの切り替えが大変そう。

 私の時代は休校や学級閉鎖もめったになかったので、そこでも授業時間がだいぶ変わってきますよね。

 子供は土曜日休みでも親が仕事だと、結局家でゴロゴロしてるだけになったりとか、何か時間の使い方がもったいないような気がします。

 

ウ〇コ問題

 今考えると本当にどうでもいい事なんですが、当時は大問題でしたね、ウ〇コ問題うんち

 女子はどうだか知りませんが、男子の場合は大の方に入ると確実にウ〇コしてるのがバレてしまうので学校ではできませんでした。バレると確実にあだ名が”ウ〇コ”になってましたからね。

 そのせいで私、小・中学生の頃は強烈な便秘者でしたもやもや

 

 高校生になってから、クラスメイトが堂々とウ〇コうんちをし、教室でも「いっぱいでた~!」と言っているのに周りの反応が普通なのを見て衝撃を受けました。

 それ以来私のホールも順調に戻りました合格

 

朝の会、帰りの会

 出席を取って1時間目が始まるまでの時間に朝の会や朝自習、帰りの挨拶前に帰りの会というのがあってました。

 朝の会は挨拶や伝達事項を伝える程度だったと思います。

 朝自習は課題を出され、担任の先生は一旦職員室に戻ります。その間に学級委員長が前で音頭をとって課題を進めさせ、ある時間になったら答え合わせをし、答えを回収して担任に渡します。疑似先生ごっこのようで、楽しかったです。

 問題は帰りの会。帰りの会はいわば、チクリ大会でした。

その日にあった悪事を発表し、謝罪を求めるという。例えば、

 司会「何かある人いますか?」

 A「ハイ!」

 司会「Aさん!」

 A「今日、Bくんにたたかれました。」

 司会「Bくん、なぜAさんをたたいたのですか?」

 B「消しゴムを貸してと言ったのに貸してくれなかったからです。」

 司会「BくんはAさんに謝って下さい。」

 B「Aさん、ごめんなさい。」

という感じです。

中にはかたくなに謝らない子もいて、そうなると周りから「謝ってくださ~い!」のコールが。

終わらないと帰れないので、時間が長引けば長引く程周りからの反応もキツくなってきて、最後には号泣しながら謝るという、ね。

 基本、担任は何も言わず見守っていて、話がこじれた時だけ助言してくる感じでした。

 

 私も1回、隣の席の女子を訴えた事があります。今考えると人間ちっちゃかったなぁと思いますが。

自分の苗字と同じ地名があり、それをイジられただけなんですけどね。泣きながら謝罪され、私の方が悪者のような雰囲気になりましたね。

 あの時の女子、ごめんなさい。

 

 今の時代では色々問題があると思いますが、『帰りの会で言うよ?』というキラーワードで一定の治安が保たれていたのも事実です。

 

給食
 小学校時代は給食の時間と昼休みがきちんと分かれていました。
なので早く食べ終わっても、給食の時間が終わるまでは遊びに行けませんでした。
 
 給食の時間は先生によってさまざまで。
・1年生の時は食べ方によってシールが配られていました。
 時間内に全部食べれた、時間は過ぎたが全部食べれた、残した、だったかな。
・2年か3年の時は残す場合でも3口は食べないと許してもらえない、とか。
 コレ、今だったらありえないですよね?
 私も当時、大嫌いなトマトがまるまる1個給食に出て、遊びたいがために無理やり3口食べた事ありますよ~。
 かたくなに食べようとせず、昼休みが終わるまでじっと耐えてた猛者もいました。
 
 給食で出ていたチーズの表面に貼られていた紙コレクション。ダウン

恥ずかしがりやな私でしたが、どうしても欲しくて1人1人にちょうーだいって言って周ってました。
中には意地悪な子がいて、目の前で破る子がいたり。私きっかけで同じように集め出す子もいました。
いや~我ながらよくコレを取っといたなぁ、すごくないですか!?

掃除

 私の時代は朝と帰りに全員で掃除してたんですが、今はどうなっているんでしょう?なんか業者が入っているという話も聞きます。

 

 朝は教室を軽く掃くだけだったと思います。

 

 帰りは班ごとに分かれて、教室、廊下、窓ふき全般、トイレ掃除、外(高学年時)、あと何だったかなぁ。

 中でも外は(ややこしい言い方ですみません)人気でした。先生の目が届かないですから。男子は遊んでばかりで女子に怒られるのが定番だったかなぁ。

 あ、その時使っていた掃除道具。『がんぜき』『えぶ』って言ってましたが、コレ、正式名称ですかね?

 がんぜきは熊手みたいな箒みたいな枯葉やゴミをかき集めるもので、えぶはゴミを入れるカゴのようなちり取りのようなものです。あ~、懐かしい。照れ

 廊下掃除は男子は雑巾がけレースとかやって盛り上がっていました。

 廊下や窓ふきなど雑巾を絞って使う場所の掃除は冬場は地獄でしたね。

 掃除の時間はBGMが流れていました。よく使われていたのがゴダイゴの銀河鉄道999。

この曲を聞くと今でも掃除のイメージが強いです(笑)。

 

集団下校

 今は台風や大雨の予報により早めに休校になる事が多いですが、私の時代には大雨だろうと台風予報だろうと普通に登校していました。

 普通に授業を行い、いよいよヤベ~ぞ!となってから、地区別に分かれて全学年の集団下校。各地域ごとに先生が1人ずつ付き添い、一人一人家まで送ってました。今考えるとけっこう危険ですよね。

 でも当時は知らされるのが直前だったので超テンションが上がってました。グッ

 

席替え

 私の時代は各学期の初めに1回だけでしたが、自分の子供達の時代は月1くらいでやってたそうです。

てことは班や係はどうしていたんでしょうね。何かと班単位でやってたと思うんですけど。

 そして席。

今は1人1人独立しているようですが、当時は男女で机を引っ付けて2人1組みたいな扱いでした。

なので隣がどの子になるのか、いつもドキドキラブラブでしたよ。

 

学級委員長

 自分の子供が小学校に通い始めた時、学級委員長という制度が無いのにビックリしました!今って、無いのが普通ですか? 

 私の時代、学期ごとに男子1名、女子1名の学級委員長という役がありました。学活や集会などクラスを取りまとめる役で、前で発言する機会も多く、担任の補助的作業もこなしていました。

 男子に限って言えば、学級委員長に選ばれる人には傾向がありまして。

1学期は頭が良く運動も得意な子、2学期は頭が良い子(運動はダメでもよい)、3学期は真面目な子。

で私、3学期によく選ばれていました。なんかビミョ~ですね(笑)。

 

好きな教科
 特に意識はしていませんでしたが、理科はすごくワクワクしていたのを覚えています。
中でも磁石。なんかね~、好きなんですよ。教材も大切に保管してました。

魚の絵を描いた紙にクリップをつけて、釣り竿に模した棒に紐を付け、針の代わりに磁石を付け、2段ベッドの上から釣りみたいにして遊んでました。
 
 あと砂鉄。あれはいつまでやってても飽きませんね。友達から近くの海岸で砂鉄が取れると聞き、何回か取りに行きました。

一年生であさがお、二年生はひまわり、三年生でへちま

 あさがおはそれぞれの鉢で育て夏休みに自宅に持って帰っていたのですが、ひまわり、へちまは学校の花壇で育てていました。

 ひまわりは自分の身長よりも高く育つのに感動し、種の収穫も大量にできるのが嬉しくて、今でもひまわりに対する憧れがあります。

 へちまは大きくなるのが楽しくて。でも全員分の数は無かったような。希望者が持ち帰ってへちまタワシにしてたのかなぁ。うちでは一時期ひょうたんを育ててました。

 最近はミニトマトとか何種類かあって選べるようになってるみたいです。

 

教室で生物の飼育

 生徒が金魚やメダカを持ち寄り飼うことが多かったですね。

 1年か2年の時、親が生きたムツゴロウをもらって来てそれを学校で飼うことになったのですが。

海水が必要ということで、私が家から1.5か2リットルのジュースの瓶(ペットボトルはまだありませんでした)に入れて持っていってました。瓶なので子供だと両手でないと持てないくらいの重さになるんですよ。

 ある時、いつもは開いている下駄箱前の扉が開いてなく、扉を開けようとした瞬間に手を放してしまって・・・ガシャ~ンと。滝汗

もぅビックリするやら恥ずかしいやらで泣きながら走って家に帰りました。

その後どうなったのか覚えていませんが、それからは袋に瓶を入れて持っていくようになりました。

一旦床に置く、という考えに至らないところがカワイイですよね。←自分でフォロー

 

運動会

 私の時代は赤と白の2チームだけだったのに、今は黄色とか緑とか4~5チームに分かれていますよね。

 今だと一度も優勝したことがないと言っても、だよねーで済みますが、私の時代だとウソだろーってなっちゃいますよね。でも私、マジで小学校6年間全敗なんですよ。逆にスゴくないですか?

 

 あとプログラム数。最近はかなりプログラム数が減ってません?20もないくらい??

 私の時代は40くらいあったような気がします。各学年のダンス、徒競走、他競技に加え、紅白戦の競技、男女別の競技、高学年だけの競技、親子競技、PTAや先生の競技、地域の人の競技などなど。

 紅白リレーに加え、地区別リレーと言うのがありまして。

各地区の1~6年生が出場するのですが、地区別ということもあり紅白リレーとは違うメンバーだったのも大きな特徴だったですね。

 全然足が速くないのに、同じ地区に同じ学年の子がいなくて毎年選ばれるのが苦痛だと言ってる子もいましたよ。

 観覧のテントも地区別だったので、盛り上がりはすごかったですね。

 

 あと基本、裸足でした。あし

運動会に限らず、夏場は外では裸足で遊ぶことが多かったですね。

靴を履いているのは、足を怪我してる人か都会からの転校生くらいでした。

 今では裸足になると逆に注意されるくらいですもんね。

 

 そして自分の子供の運動会で見て思わず笑ってしまったのが”綱引き”

ヨーイ、ドンで全員がいっぺんに引っ張り合うじゃないですか。アレ見てゲラゲラ笑っちゃいました。

 私の時代、というか地域(?)の綱引きは、オーエス、オーエスの掛け声と共に交互に引っ張り合っていたので、全員がいっぺんに引っ張り合う姿に”そんな必死にならんでも!”と。

 後で聞いたんですが、私の方の綱引きが特殊だったようで、逆に笑われました。ガーン

 

 笑うと言えば、掛け声も。

駆け足後の「全体、止まれ!」で1、2、3、4、5て。1、2、3で止まれん?(笑)

立ったり座ったりする時も「ヤー!」の掛け声と共にサッと動いていた時代の私にとっては、掛け声もなくパラパラと立ったり座ったりする姿はとても違和感がありました。

 といいますか、掛け声自体が地域的なもののようですね。

 

冬でも半袖半ズボンがエライ神話

 当時は冬でも薄着でいる方がスゴイ!みたいな風潮があり、一時期はクラス毎で競い合ったりもしていました。〇組、半ズボンで登校した子、〇人!みたいな。

 一年間半ズボンで登校した子は表彰されていましたよ。

 

ぎょう虫検査

 年1回、円が描かれたフィルムみたいなものを配られていました。

 確か、陽性になった人だけ薬と2回目の検査フィルムを渡されていたと思います。皆の前で。←

 その薬が小さな板チョコみたいで、すごく羨ましかった覚えがあります。確か薬局でも売っていて1回買って食べてみたら全然味がしなかったような気がします。

 最近ではもうやってないみたいですね。

 

赤い羽根
 赤い羽根の共同募金でしたっけ?毎年ある時期、学校で募金活動があり、募金したら赤い羽根を胸に刺してもらえてたんですよね。後年、針が無くなりシール式になったと思います。
 手元にコレダウンダウンダウンあったんですけど。

緑の羽?しかも何でこんな大量に持ってるんだろ??記憶にない!!
 
筆箱
 私の時代は多機能な筆箱が流行ってました。今はどうなんだろ??

 表面に鉛筆とケシゴム、裏面に定規が入る簡単なものから、収納式の鉛筆削りが付いているもの、側面にネームペンなど少し太いものを入れられるもの、真ん中が開いてさらに収納が増えたものなど。メジャーが付いているものもあったような。
 とにかく多機能であればあるほど、憧れの的になってました。
 
 ボタンを押すと右の画像のように鉛筆が立ち上がるのですが、これが結構危なくて、尖った鉛筆の先が手に刺ささる事故(?)が多発。折れた芯が皮膚の中に残ったままになる子も多く、男の勲章みたいに言う男子が多かったな~、私も含めて(笑)。
 
フラフープ
 小学校の間にフラフープのブームがあったような気がしますが、調べてみたら世間的にブームだったのは私が生まれるはるか前の事でした。アセアセ
 体育の時間にやっていたのか、休み時間に貸し出しされていたのか、学校でよくやっていたような気がするのですが・・・。ちなみに当時はあまり上手く回せず、高校か大学の時にやった時はいつまでも回せてて、自分の子供が小さい時に一緒にやってみたら全然回せなくなっていましたチーン。え、なに??
 
ゴム飛び
 ゴム飛びって言って分かります?高跳びのバーを輪ゴムに代えたような遊び。
高跳びだとバーを落としたら失格になりますが、ゴムなのでビヨ~ンとなるだけで、とにかく越えれたらOKなんですよ。
 
 この遊び、主に女子がやってたんですが、低学年の頃は私も女子と遊んでいました。
 
 高跳びみたいにマットがあるわけではないので、きちんと着地できる飛び方をしなければいけないのですが、やはり上手な子がいるものです。
 通常はまっすぐ、それこそハードルを飛ぶように飛ぶのですが、上手な子は飛ぶ寸前に回転を加え、華麗に舞うんですよ、スカートをヒラヒラさせながら。
 
 男子の方がもっと上手に飛べるんじゃない?って思うでしょうが、そもそも運動神経のいい男子はゴム飛びはしません。ゴム飛びをする男子は運動がニガテですから(笑)。
 
 そんな運動がニガテな男子が女子に対抗すべく編み出した技が、通称”ロボコン”という技。
”ロボコン”はその名の通り、ゴムの前で両腕を前まわしして腕にゴムを巻き付け、頭をくぐらせ、両腕を後ろ回しするとあら不思議、ゴムの向こう側に行けてるというスゴ技。拍手
 
 でもコレをやっちゃうと面白くもなんともなくなるので、禁止になりました。ガーンそりゃそうですよね。
 

産休代理の先生

 2年時、担任の先生が産休の間に受け持っていただいたO先生。独身女性で年齢も若めでしたが長い竹の棒をいつも持っていました。時代ですね~。
 で、悪さをすると竹の棒でお尻をシバかれるんですよね。
 
 私も1回シバかれたことがあります。
その時は私がどうこうしたわけでなく、同じ班の人がやらかした”連帯責任”ということでシバかれました。
当時は”連帯責任”ってどうゆうことだよ!と納得がいきませんでしたが、それもまぁ、いい思い出です。
 O先生とは今でも年賀状をやりとりしていますよ。爆  笑
といいますか、小~高校までの担任の先生とは今でも年賀状のやりとりはしていますがね(亡くなった先生や音信不通の先生もいますが)。
 

初恋?

 保育園の膝の子(以前のブログ参照)かな~とも思いましたが、自分的には小学1年生の時のクラスメートのMちゃんじゃないかなと思ってます。

 Mちゃんは本当にお人形さんのように可愛い子でした。それに対してどういう行動をしたとかは全く覚えていませんが、それ以降は1度も同じクラスになれず接点は無かったのですが、6年生になって次に好きな子ができるまではずっと好きでした。

 Mちゃんは高校でヤンキーデビューしたようで、クソ真面目だった私はかなり落胆したのを覚えています。一度だけ家の前に居たのを見かけたのですが、イタい方のヤンキーではなく、きまぐれオレンジロードの鮎川まどかよりのヤンキーだったのが幸いでした。いや、可愛さは健在でしたよ。ラブ

 

習い事

 小学生になると習い事をするようになりました。

 いつも兄が始め、それを見た私と妹が真似して始めるというパターン。

 当時の習い事といえば、学習系ではそろばん、運動系では剣道を習っていた子が多かったような気がします。

 

習字

 ・小学1年~中学3年まで通い、習字も硬筆も5段くらいまでいっていたと思います。

  昇段で変わった形の文鎮をもらったこともありました。

 ・毎週土曜日のお昼から1時間くらい。

 ・色んな学年の人がいて、普段交流がない人と交流できるのも楽しみでした。

 ・ずっと真面目に取り組んでいたわけではなく、時には手を抜いたり、ふざけたりも出来る環境だったので、行くのが嫌ということはありませんでした。

 ・通常は正座をしてテーブルで書いていたのですが、半年に1回くらいテーブルをとっぱらい畳の上で縦長の半紙に大きな筆で書く時があり、それがとてもワクワクして楽しみでした。

 ・段がかなり上の人しか使わせてもらえない筆がありました。毛の部分がめちゃめちゃ柔らかくて、慣れないと普通に字が書けないくらいの上級者向けの筆でした。

 ・習字の先生が実は折り紙も得意というの分かり、折り紙にハマっていた時期には習字の後に折り紙も教えてもらったり、作ってもらったりしていました。

 ピグモンはかろうじて自分で作れたのですが、ラドンとキングギドラはどうしても作れず、先生に作ってもらいました。

 ・高校、大学、社会人と習字から遠ざかっていたのですが、近年、水墨画御朱印など、黒と白だけの芸術性に惹かれるようになったのはこの頃の影響なのでしょうか?目

 ・一時期、娘が習字を習っていたのですが、すぐに飽きてしまったようで。学校の宿題とかで提出したら結構賞をとったりするくらい上手なのですがね。勿体ない。。。

柔道

 ・平日夜、週3くらい。

 ・運動は嫌いだったんですけど、不思議と嫌ではなかったです。

 ・夏には合宿があり、敷地内にある池に皆で飛び込んで遊んでいたのを覚えています。

 ・それまではおでこを出すのが恥ずかしかったのですが、合宿の時に前髪にガムが引っ付いて取れ   なくなって切られたのをきっかけにおでこを出すのが平気になりました(笑)

 ・初めて出た小規模な大会で、3位入賞しました(1回戦不戦勝、2回戦負け、でグラサン)。

 ・兄が辞めるタイミングで私も妹も辞めました。兄は紫帯、私は黄色帯、妹は白帯でした。

  (白→黄色→紫→茶色→黒→赤白の順だったと思います。)

 ・運動はまるでダメでしたが柔道だけは変な自信があり、高校の武道選択でも柔道を選びました。

 ・クラスのちょっとヤンチャな子との組手で、出足払いからの抑え込みが決まった時は気持ちよかったです。

 

子供会

 今はどうなのか知りませんが、当時は全員参加でした。行事も多かったですしね。

 

ラジオ体操

 夏休みは朝6:30から地区毎にラジオ体操があってました。参加した回数によって貰える景品が変わるので、しっかり参加していました(笑)。

 

盆踊り

 毎年お盆頃に、初盆の家を盆踊りしてまわる習慣がありました。参加するとアイスお菓子が貰えるので多くの子供たちが参加していました。地区の子じゃなくても参加できたので、その時期は特に子供が多かったですね。

 高学年になってくるとお菓子が配られるまで遠巻きに見ていて、配り始めたとたんに盆踊りの輪に入ってくるというズルをする子が多くなり、子供たちの間ではちょっとした問題になっていました。えー

 

節分

 毎年何軒かの家庭が担当となり、子供たちを集めて、お菓子のばらまき大会があってました。

旅行

 地区別だったと思いますが、うちの地区は毎年、別府杉乃井パレスに日帰り旅行に行ってました。

 大浴場に滑り台があったりしてとても楽しかったのを覚えています。

 売店でおもちゃを買ってもらえるのも楽しみの1つでした。

 いつの時期だったのか覚えていませんが、高田みづえのショーを見たのを覚えています。人生初の生芸能人だったのではないでしょうか。

 

放課後

 まだゲームも無かった時代なので、メインは外遊び。学校から帰ってくるとすぐ外に遊びに出ていました。

 学校も近かったのですが、それよりも近くにお寺があったのでお寺の境内で遊ぶことが多かったですね。そこに行けば誰かはいたので、その遊びに加えてもらってました。

 

 かくれんぼとか鬼ごっことか、はないちもんめじゃんけん電車

 あと名前を憶えていないのですが、地面に大きなグルグルうずまきを書き、中心部と外側グループに分かれて1人ずつスタートし、出会ったらジャンケンをして、負けた方が退き、負けたチームの次の人がスタートするということを繰り返し、相手の陣地にたどり着いたチームが勝ち、という遊びとか好きだったなぁ。

 

 鬼ごっこは足の速さに左右されやすいので通常の鬼ごっこより、色付き鬼高鬼をする事の方が多かったと思います。

 色付き鬼は、鬼が色を指定し、その色に触ってない時にタッチされるとアウトになり、高鬼は鬼より低い位置にいる時にタッチされるとアウトになるというもの。

 細かいルールは覚えていませんが、この遊びって全国的なものなのかな?

 

 他にも、ボールをお寺の屋根に投げて次の人を指名し、ボールが落ちてくるまでに指名された人以外は逃げ、指名された人がキャッチしたら引き続き次の人を指名してボールを投げ、落としたら拾った場所から、誰かに投げて当てれば交代できるとかいう遊びもやってました。

 遠くに逃げすぎると指名されやすくなるので、それも考えて逃げなきゃいけないという、実は知力も体力もいる遊びだったんですよ~。

 

 この時代の外遊びはどれもそうだと思いますが、この遊びをしよう!と提案しても他の人が乗ってくれないと成立しませんから、自分達なりにルールをアレンジしたりして、遊んでいたと思います。

 

 あと、境内にはお墓魂もあり、いい隠れ場所にもなるので、お墓の間を走り回っていました。今考えると相当バチあたりなことしてますよね。

 

 お寺の裏は日陰になっていて表とは違う独特の雰囲気があり、覚悟を決めてからじゃないと行けないような不思議な場所でした。叫び

 

 境内にあった花のミツ花が吸えると聞き、よく吸ってました。あれ、何の花だったんだろう。

 

 境内にあったピーピー豆と呼んでたものともう1種類花か何かをよく鳴らして音符遊んでいたと思うのですが、今となっては何をどうやっていたのか覚えていません。

 ピーピー豆の方は思い出してやってみたのですが、鳴りませんでした。くわえる向きとかちぎる場所とか何かポイントがあったんでしょうね~。

 

 周りに自然も多かったので、虫取りもよくしていました。セミトンボチョウバッタこおろぎ

捕まえるのは楽しいんですけど、捕まえっぱなしですぐ死なせてました。子供って残酷タラー

 

 夏には親と一緒にホタルひらめき電球も捕まえに行ってました。そう遠くない場所で、網を振れば簡単に捕まえられる程たくさんいましたよ。

 なので今、”ホタルの名所”とか聞くと、悲しくなります。どこにでもいた時代を知っていますからねぇ。

 

ホッピング

 

 低学年の時に流行ってました。

ただまたがってピョンピョンするだけなんですけどね。楽しいんですよ。チュー

 画像は最近のものなんですが、私が持っていたものはなんか装飾が色々付いていた気がします。

兄が青で、私と妹が黄色だったかな。

 当時はどこもかしこも家の前でピョンピョン、ピョンピョン。これで広場まで移動するツワモノもいました。

でも、やりすぎると脳が揺れるだとか内臓が下がるだとか言われて、だんだん廃れていきましたね。

 

パートのおばちゃん

 当時、ウチのお店にパートで働いていた近所のおばちゃん、よく本を読んでもらったり、絵を描いてもらったりしてました。

 雑誌やマンガを持って行って、「コレ描いて~!」と言うとスルスルと描き始め、それがまぁそっくりなんですよ、見本と。見た目普通のおばちゃんですよ。当時としてはかなりの衝撃でしたね。

 

さらに田舎へ

 父方の祖父母宅はうちよりさらに田舎にありました。
 前は川、後ろは山、歩けども歩けども田んぼや畑しかなく。
 お隣さんもはるかかなた。歩いて行ける距離にはお店が1軒もありませんでした。
 忙しい時とかは連れて来られて置いていかれていましたので、工夫して遊ぶしかありませんでした。
 ただ、ここでしか味わえない貴重な体験も数多くありました。乙女のトキメキ
 
夏はクーラーいらず
 家中の窓全開で網戸もなく、蚊帳(かや)を吊ってその中で寝ていました。外灯もなく、電気を消すと月明かりのみで、トイレに行くのがすごく怖かったです。平和な時代でしたね~。
 蚊帳(かや)とは、網でできたテントのようなものです。本来、蚊に刺されないようにする為のものなのですが、誤って蚊を入れてしまうと地獄と化します。予防接種
 
冬は極寒
 元々は練炭の掘りごたつと火鉢だけでした。母によると、小さい頃は行くたびに風邪をひいていたとか。
孫が増えてきてようやく電気ごたつと石油ストーブも置かれるようになりました。
 掘りごたつはかくれんぼに最適だったのですが、練炭で中毒になるから中に隠れてはダメだと言われていました。
 
風呂は五右衛門風呂
 お風呂は脱衣所とお風呂だけの建物があり、そこで入っていました。
 入る時に祖母が薪で沸かしてくれていました。
 五右衛門風呂は子供にとっては恐怖叫びでしかないわけですよ。
 といいますのが、普通に釜茹で状態ですから釜に直接触れないように、板を一枚踏み沈めなければいけないのですが。
 その板が子供一人の体重では踏み沈めるのがとても難しく、踏み沈めれたとしても保つのも難しく。端に寄ろうものなら、たちまち板の浮力に負けて振り落とされます。
 なのでいつも2人以上で入るようにしていました。
 実際には即やけどすることはないのでしょうが、とにかく怖かったです。
 
隠し扉
 外から直接二階に行ける階段が隠されて(?)いました。
 家側面にあった納屋に入る扉・・・と思いきや、開けたら二階への階段が。
 私が知った頃にはもう使われてなく埃だらけになっていましたが、若かりし頃の叔父が使っていたそう。
 
納屋にはツバメの巣が多数
 農業機械などを置いていた納屋は日中開けっ放しだったので、たくさんのツバメが巣を作っていました。
物をたくさん積み上げていた時にはそれに上って、間近でツバメのヒナを見たりできてました。
 今の鳥好きはきっとここからきているんだと思います。
 
柿の木
 家の周りに柿の木があり、秋には屋根に上ってちぎって食べてました。屋根上で食べる柿はめっちゃ甘くて美味しかったです。
 
隠し部屋
 農機具を収納する小屋に、はしごをかけないと上がれない隠し部屋みたいなのがありました。見付けた時はすごくワクワクしました。時々隠れて遊んでいました。
 
農家
 祖父母宅は農家だったので、田植えや稲刈り、芋掘りやいちご狩りなども体験させてもらえました。
 
川遊び
 泳げる格好をして、川を上っていったり下っていったりの探検。基本浅かったのですが、ところどころ泳ぐのにちょうどいい深さの場所や、滑り台のようになっている場所もあり、兄弟でよく遊んでいました。
 ”かし瓶”という仕掛け(入れるけど出れない)に味噌と米ぬかを混ぜたものを寄せ餌をとして入れ、川に沈めて魚を捕ったりもしていました。はえ?だか、はや?だかいう魚がいっぱい捕れていました。
 
神社
 唯一遊具が設置されていた場所。二人乗りのブランコ(?)は覚えていますが、シーソー、鉄棒。滑り台もあったような無かったような。あと、土俵がありました。
 年に1回、神社で相撲大会があってまして、私も参加させられていました。
 まわしの恰好になるのが恥ずかしくて散々ゴネていたのですが、参加したらお菓子が貰えるというのに釣られて。でも勝った記憶がない。。。
 
 神社の奥に不思議な場所がありました。
 神社の裏手を奥に進むと岩壁(?)があり、その岩壁沿いにお地蔵さんが並んでおり、そこをさらに奥へ進むと茂みの中に穴が開いた大木がありました。
 この木の穴は、ウソをついた子供は通れなくなるという言い伝えがあり、行くたびに神聖な気持ちで試していました。幸い一度も通れなかった事はありませんでしたが。こういうの好き。
 
イノシシ
 近所に(と言ってもかなり山奥でした)イノシシを飼っている家があり、何度か見に行きました。
 

餅つき

 年に数回、餅つきをしていました。

 当日は近所のおばあちゃん達がお手伝いに来てくれて、普通のお餅あんころ餅酢餅あられ用のお餅など作ってました。

 

 酢餅はお餅を酢醤油だか何だかに付けて食べるものなのですが、つきたてのお餅でしか食べられないものだったので、お餅がつきあがる度にちょこっとずつお餅をもらって食べてました。

 

 あられ用のお餅はついているときに緑やピンクの食紅(?)を入れて色をつけていました。

四角く成型して乾燥させ、乾燥したらある程度の大きさに切り、それを火で炒るとあられが完成します。

田舎での数少ないお菓子でした。火で炒って膨らんでくるのを見るのが楽しかったです。

 

 あと、お手伝いに来ていたおばあちゃん達が”緑”の事を”青”と言い張るのが面白かったです。信号と同じ原理??

 

 小さい頃はお餅を丸める作業だけでしたが、成長するにつれ、蒸したもち米を投入する役、つきあがった餅を取り上げる役、取り上げた餅から丸める用に切り離す役を任されるようになりました。

 

 そういえば数少ないお菓子で思い出しましたが、いつ行っても、納屋には瓶の三ツ矢サイダーが、納戸にはレモンケーキが必ずありました。誰用??

 

池干し

 毎年12月、農業用のため池の水を全部抜く!という行事があっていました。

水を抜き、中の生き物を一旦別の場所へ移し、掃除してまた戻すというもの。まさにあの番組そのものですよね。

 

 出てくる生き物はコイしょっかんガエル小エビ?。

 

 寒いし、泥んこになるんですけど、大きなコイを素手で捕まえるのが楽しくて、楽しくて。

 

 コイって普通にかかえようとすると暴れるんですけど、目隠ししてやさしく抱きかかえるとおとなしく捕まってくれるんですよね。この方法で1m以上あるコイを捕まえていました。釣りキチ三平の世界照れ

 

 亀は欲しい人が多くて、争奪戦でしたね。

私も欲しかったのですが、結構大きいサイズのものが多かったので諦めていました。

 

 小エビは縁に集まってきてたので、中に入らない子達が捕ってました。

 

 子供で参加しているのがウチか親戚の子だけということもあり、大きなコイや亀が見付かった時は真っ先に教えてもらえていました。

 

 池干しの後は参加者たちで宴。生ビールお祝い

コイは主と繁殖用に残したもの以外と、カエルに小エビ。

カエルは鶏肉みたいよ~と言われましたが、さすがに食べる気にはなりませんでした。滝汗

 

ウインタースポーツ

 お金持ちでも何でもなかったと思うのですが、なぜかウインタースポーツには積極的でした。

スキー

 ・小さい頃は年1回くらい連れていかれていました。

 ・スキーも教わってたんですがすぐに飽きて、ソリで遊ぶことが多かったかな。

 ・スキーといえば忘れられない衝撃の出来事が。

  ①スキーにもソリにも飽きて、斜面をそのまま駆け下りて遊んでいたのですが。

  ②斜面が終わる手前で、駆けてきた私を見て母親が、『そこ穴があるから気を付けて!』と。

  ③”穴”と言うのは、斜面の終わりの段差の事だと思い、そのまま母親に向かってジャンプ。

  ④私、消える(母の証言より)。

  ⑤母、腰を抜かし、取り乱す。『誰か!誰か~!!子供が!子供が~!!!』

  ⑥そうなんです。母が言ってた”穴”というのは本当に”穴”だったわけで。

  ⑦私がジャンプした着地点がちょうどその”穴”

  ⑧なぜスキー場に”穴”が開いていたのかは不明ですが。

  ⑨落ちながら(ココはまじスローモーションでした)”出れない程深い穴だったらどうしよう?”、”竹ヤリみたいなのが突き出ていたらどうしよう?”と危機を感じ、とっさに両手両足を雪の壁に突き刺し、最下層への落下を防ぎました。

  ⑩母の声を聞いた大人たちが集まり、私を救出。恥ずかしいったらありゃしない。ゲロー

   後で見てみたら、穴は2mくらいで、底も普通の地面でした。

 

 ・運動音痴な私でしたが、高校の修学旅行で行ったスキーはおかげさまで上級者コースに行かされました。

 

スケート

 ・一番古くは、夜に野外のスケート場に連れていかれた覚えがあります。心地よい疲れの中、帰りの車の中でウトウトするのが最高に気持ちよかったです。

 ・その後もちょこちょこスケート場には連れていかれていたので、普通にすべるくらいは出来ました。

 ・初デートで彼女と手を繋ぎたいが為にスケート場に行ったのですが、彼女の方が上手で(高校の体育の授業でやってたそう)、別々にぐるぐる周っていただけでした笑い泣き

 ・後のローラースケートブームの時に役立ちました。

 

事故多発

今までの人生の中で、一番身近に事故が多かった時期。 

 ・2年生の時、初めて交通死亡事故を目撃してしまいました。ガーン

  ハッキリと当時の状況なども覚えていますが、詳細は控えさせていただきます。

 ・小学3年か4年の時、同じ学年の子が学校校舎3階の窓から転落する事故がおきました。

  詳細は分かりませんが落下地点が土だったということもあり、こちらも足の骨折だけで済み、数か月で復帰しました。

  時代なのか、田舎だからなのか、どれも後を引きずるような状況にはなりませんでした。

 

引っ越し

 両親の自営業が軌道に乗ってきたのか、小学2年か3年頃、ついに念願の一軒家に引っ越しました。店舗兼住宅の3Kから5LDK住宅。自分の部屋もゲットしました(妹と兼用・兄は1人部屋)。

 

 隣が大きな畑で、飼料にする牛糞を置いていた為、引っ越しして数年間はハエの発生が異常でした。ハエ捕り紙にビッシリ付くくらい。滝汗

 

 その後、店舗も自宅前に移設。1階店舗、2階倉庫兼事務所、3階卓球場(?)として生まれ変わりました。

 卓球場は一時期、誰でも無料で使えるように開放していたのですが、物品の盗難とか、壁に落書きとか、ゴミを散らかすなどマナーが悪くなったので止めました。

 

 3階は天井まで吹き抜けになっていたので(?)、よくスズメやコウモリが入り込んで死んでました。

 

電話は黒電話の世代

 引っ越し前の家は、壁に黒電話が掛かってました。

 何かのテレビで見たのですが、最近の人はこれを見ても使い方が分からないのだそう。まじか。
グルっとまわして、カタカタ言いながら戻って、それを繰り返して。味があっていいよね~。
 
 引っ越してからはプッシュホンになりましたが、しばらくはダイアル回線でしたね。
 

テレビの進化

 さすがに白黒ではなかったです。生まれた時からカラーでした。

 ですが引っ越し前はまだテレビ本体に付いているつまみを回してチャンネルを変えるタイプのテレビでした。

 よくチャンネル争いで、つまみを引っこ抜いていたとかの話を聞きますが、我が家ではそこまでの争いは無く、というか、父親が絶対の権力を振るってましたので、ね。

 

ビデオテープレコーダーの登場

 この時期くらいに我が家にも初めてのビデオテープレコーダーがやってきました。

このビデオテープレコーダーが爆発的に売れたのは、アダルトビデオのおかげという嘘のような事実(笑)。

 うちでの初登場はVHSではなく、SONYのベータでした。

 

 しかしベータを使っていた記憶はあまりなく、後に大量のベータのビデオテープ(子供の字でタイトルが書かれていました)が見付かったことによる認知です。

 

 ビデオテープレコーダーと言えば、父親に理不尽な怒られ方をしたのが今でも記憶に残っています。

  ①ある時、子供たちがテレビを見ている時に父親がやってきて勝手にチャンネルを変えました。

  ②子供たちは猛抗議!

  ③父『録画すればいい、何の為にビデオを買ったのか?』

  ④その後、父と見る時間がかぶりそうな時は録画するようにしていました。

  ⑤別の日、子供達が録画している様子を見て、

  ⑥父『そんな事の為にビデオを買ったんじゃない!!』ムカムカ

  ⑦皆、ポカ~ン、ですよ。

 

 当時のビデオテープレコーダーはまだ予約機能がなく、録画をする時はその時間に録画ボタンを押すしかなかったので、すぐにチャンネルを変えられない事が嫌だったのでしょうかね。。。

 

 あと録画あるある。

録画する時は録画ボタンと再生ボタンを同時に押さなければいけなかったのですが、力の入れ具合で再生ボタンしか押されない事がよくあり、せっかくの録画チャンスを逃してしまうという、ね。最初の方が切れてる番組、いっぱいあったなぁ。。。

 

棟上げでお菓子ゲット!

 全国的なものなのか、地域的なものなのか、今もやっているものなか分かりませんが、新築の家が建つ時、骨組み(?)が出来た段階で棟上げという行事があっていました。

 

 棟上げとは、大工さんや施工主さんが家の上部からお餅やお菓子などをばらまく行事でした。

 

 棟上げをする家は午前中に大きな旗を立て、近所に知らせます。

 それを見た近所の人がぞろぞろと集まります。

 人が集まれば集まる程縁起がいいとされ、誰でも参加可能な行事でした。

 

 多くの人が狙うのが、家の四隅から投げられる通称”隅餅”と呼ばれる少し大きめのお餅と、

最後に投げられる特大サイズの”鏡餅”

 大人たちが目の色を変えて奪い合うので、子供にはとても縁のないものでした。鏡餅

 

 子供たちが楽しみにしていたのはお菓子。まぁ、タダで貰えるんですからね。

大人はお餅狙いの人が多かったので、お菓子は子供でも狙いやすかったですね。

 たまにお金(五円=ご縁?)をまく家庭もあり、その時は皆必死でした。

 

私も1~2度、ばらまく側になった事があります。

天空の城ラピュタのムスカ大佐の有名なセリフ状態で楽しかったです(笑)。

知り合いが来ていた時にはこっそり知り合いに向けて投げたりした事もありました。

 
あ~、楽しい時代でした。
 
 


続きま~す。