なんちゃって作家の青息吐息 -3ページ目
 その日は何とか二人をかき口説いて外出をやめさせた。真美は一日中ブツブツと文句を言っていたが、夕方のニュースで、外出していたら通っていたであろう高速道路の大きな事故を見て愕然としていた。
 それからの生活は幸福を絵に描いたようだった。朝起きた時のみそ汁の匂い、明かりの灯った家に帰る喜び、今まではそれを当たり前のことのように思っていた。きっとほとんどの人々がそうだろう。仕事に追われ、ささやかな夢の為に息つく間もなく働いている。空を見上げることもなく、雑草の間に耳を澄ますことすらない。ひたすら真っ直ぐ前だけを見て歩き続けるのだ。一体、今どれくらいの人が頭上の紅葉に気づいているのだろうか。どれくらいの人が、短い一生を精一杯生きている虫たちの”声”を聴いているのだろうか。季節の変わり目を知る手段が子供たちの衣替えになってしまっている現代、人間の一生は数字に追われている。自分も、今まではその中の一人であったのだが、あの一件から家庭というものがどんなに大切か、自分にとってどれほどの価値があるのかよく分かった。心にもいくばくかの余裕が出来たらしく、そのせいかどうかは分からないが、何もかもがうまく運んでいった。
 だから、すっかり忘れていたのだ。骨董屋の主人との約束を……。
 あれから三週間が過ぎていた。
 空高く、よく晴れた日曜日。斎藤家では全員が起き出すのが午前十一時。朝、というよりは昼のコーヒーをすすりながら、義理の息子である圭一郎君が新聞を読みながら、驚きの声を上げた。
「あれ? ここ、お義父さんがよく行ってたところじゃないですか?」
 彼はそう言うと、新聞を読みやすい大きさに折りたたみ、ソファでボーッとしている俺のところに持ってきた。
「数千万円の価値がある、古い懐中時計がなくなったらしいですよ」
 アッと声を出しそうになる。
 その記事は新聞の片隅に小さく掲載されていた。
 ――もしも警察沙汰にでもなったら……――
 主人の言葉が思い出される。
「た……大変だな……」
「盗まれたんですかね?」
「さあ……。俺はここ最近行ってないからな……」
 そうだ。いくら警察沙汰になったとしても、俺がアレを持っているだなんて誰も知りはしないのだ。真美達が戻った後、タンスにしまったきり本人さえ忘れていた物をどうして他人が知り得よう。
 俺は自室に戻るとタンスの小引き出しを開けた。そして、桐の箱を取り出す。その中にはきちんと、あの鈍色に光る懐中時計が収まっていた。
 黙っていれば分かりはしない。後はあの店に近づかなければいいのだ。
 そう心に決めると、時計を元のように戻し、その上に幾重にもハンカチやタオルをかぶせるように乗せた。
 とは言うものの、二日、三日と日がたつにつれ、あの時計の事件がどう扱われたのか気になって仕方がない。あれきり新聞にも出ないし、ニュースにもなっていない。紛失というだけで盗難事件にはなっていないのだろうか。もし刑事事件になったら、ここにも警官が聞き込みに来たりするんだろうか。あの店は扱っている物が物だけに、人数は少ないだろうがほとんどが固定客だろう。捜査は難しくない。
 考えれば考えるほど、強迫観念にとらわれていく。これが良心というものか。罪悪感というものなのか。
 いてもたってもいられなくなったその日、とうとう俺は主人の言い値の金を払うことを決心した。
 たまっていた有給休暇を使い、金、土、日と連休の申請をする。俺の仕事は予定よりも進行していたので、スムーズに書類が受理された。
 そして、金曜の午前十一時二十分。俺は厚手のブルゾンを羽織り、定期預金の通帳と印鑑を持って家を出た。
 給料日後の割に、銀行はすいていた。窓口の脇にある機械から、整理券を一枚引き出し、自分の番号が呼ばれるのを待つ。今の銀行は、どんなにすいていても整理券を取らないと受け付けてくれない。便利といえば便利なのだろうが、こういう時は融通が利かないのだ。
 ソファに腰掛け待っている間、俺は骨董屋の主人に今までのことをどうやって説明するかを考えていた。
 果たして主人は納得してくれるだろうか。いや、納得のいくまで説明するしかない。あの人だって昔は時計を使っていたのだから、周囲の人の記憶や、状況がどうなるかという事くらい、分かっているだろう。
 その時、スピーカーから機械的な女性の声が聞こえた。
 窓口に整理券を出すと、女の子がいつものようにニコニコと、営業スマイルで手続きをしてくれる。
「斎藤様、定期の解約で合計五百万円のお引き出しですね。ありがとうございました。また、ご利用下さいませ」
 俺は、五百万円を丁寧に懐に収めた。後は、これを骨董屋の主人に渡して説明するだけだ。
 さて、何と言って切り出そうかと考えながら銀行を出たところで、セーラー服にコートといった出で立ちの女子高生、三人とぶつかってしまった。
 転びはしなかったものの、かなりのショックが左半身と、右足に残っている。
「だ、大丈夫かい?」
 声をかけながら、尻餅をついてしまった女の子に手を差し出した。
「おじさん、ごめんね!」
「早智子、何やってんの!」
 彼女達は、そのまま物凄い勢いで走っていってしまった。
 ……今日びの高校生は忙しいものだな。まあ、俺達の時代とは違って今は若者の天国だから、やりたいことをやった方がいい。娘達にも常日頃からそう言っている。若いときというのはあっという間に過ぎてしまうものだから、悔いのないようにいろいろな事にチャレンジしておかないと、年をとってからでは出来ないこともあるのだ。俺の時代はいち早く大人になりたかったもんだが、ピーターパンシンドロームやアダルトチルドレンなんて言葉を聞くと、今の若者はいつまでも子供でいたいと思ってるんじゃないか、と思う。だらしがない、と思わないでもないが、何となく終末的な雰囲気が漂うこの時代では、それも仕方のないことかもしれない。
 少し右膝が痛むような気もしたが、たいしたことはないだろう、と駅へ向かった。今はもっと考えなければならないことがある。
 電車の中は座っていける、と思っていたのは間違いだったらしい。まだ平日の昼間だというのに、この混み具合は通勤ラッシュのようだ。大体はスーツ姿のサラリーマン。おそらく営業回りの途中だろう。昔は考えられない事だったが、若い人も結構、この時間に乗っている。休日の違う職種の人や大学生もいるのだろうが、色とりどりの髪の毛を見ると、フリーアルバイターとかいう、定職につかない人達もいるのだろう。中には高校の制服を着ている子もいる。一体学校はどうしたんだろうと、ついいらぬ心配をしてしまうのは、俺も年をとってきた証拠だろうか。周りに若い女の子もいるので、両手で吊り革につかまりながら揺られていく。どんな拍子に痴漢のぬれぎぬをかけられるかわからない。これは防衛手段というものだ。
 いいアイディアも浮かばないまま、電車を降りる。この道を行くのはあれ以来だ。あの時は必死に走ったっけなぁ。そういや、この辺りで車に轢かれそうになったっけ。
 店からすぐの曲がり角に差しかかった時、俺は懐に手をやってハッとした。確かに入れたはずの封筒がないのだ。慌ててあちこちのポケットを探るがどこにもその形跡はない。落としたのだろうか。いや、内ポケットの中の物がそうそう簡単に落ちるわけがない。
 それに五百万といえば、それほど軽くはないものだ。それがなくなった事にも気づかないくらい、俺は考え込んでいたのか!
 ひやりとした汗が頬を伝う。頭の方から血液が下がっていくのが分かるようだった。
 俺は今までの行動をよく思い返してみた。
 ……スリか……! それとも、銀行の前でぶつかった女子高生!? そういえばやけに急いでいたし、少年犯罪は年々増えている。まさか、と思う子が犯人だった事は少なくない。
 もうおしまいだ、と思った。警察に届けたところで、金が返ってくるかどうかは危ういし、あの五百万は定期預金二つ分を解約して都合したものなのだ。これ以上は借金でもしない限り無理だ。それに、そんな大金をサラリーマンに貸してくれるような所があるだろうか。
 ズキン、と右の膝が痛んだ。
 後悔先に立たず、という言葉が頭の中を占めた。……そうだった……。俺にはもう、そんな言葉は必要ないのだ。あの時計を手に入れたのだから。
 俺は今来た道を、再び駅の方へと戻り始めた。
 なぜ、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう。娘達が戻ってきた翌日に時を戻せば、全ては丸く収まるのだ。娘も死なない、警察沙汰になる前に金の支払いもできる。こんなに焦る必要はなかったのだ。
 時間を戻すことのできる時計――。
 過去の過ちを修正することができる時計――。
 今更ながらに、そのすばらしさをしみじみと実感する。本当に、これさえあれば人生思うがままだ。
 だが、金を持って行った時の骨董屋の主人の態度は俺の予想に反していた。
「……なぜ、それを斎藤さんが持っているんです……?」
 売った記憶のない主人に、俺はやっきになって事情を説明した。堂々巡りの会話は、これで十回を超えるだろう。
「確かに、あなたにお譲りするつもりでしたけど、いくら大急ぎだったからって黙って持っていくというのは犯罪ですよ」
「だから!さっきから何度も言ってるじゃないですか! 明日のあなたとの約束で、金を……!」
「斎藤さん」
 急に声色を落とした主人は、俺の言葉を遮るように言った。
「本当の事を言って下さい。そうすれば、警察には連絡しないで済ませますから」
 俺はそれ以上何も言わず、主人に背中を向け店を出た。
「斎……」
 ポケットから時計を取り出し、リュウズを回す。途端に、後ろから追いかけてきた主人の気配が消えた。
 時間を四十分ほど、戻したのだ。
 俺は大きく息を吐くと、家に向かって歩き始めた。
『信用できますからね』
 とんだ道化師だ、と思った。あんな言葉を真に受けていたなんて。人間には本音とタテマエ、というものがあるのだ。いい年をして何を考えていたんだろう、俺は。あいつは、どうせ処分するなら誰か、騙されやすい奴に高く売ればと……。
 ふと、俺は足を止めた。
 ……そうだ。なぜ、主人は時計を手放したんだ? これがあれば何だってできるじゃないか。いくら金を積まれたって、それ以上の価値があるだろう、コレには。となると、考えられる事は……持っていてはいけない物……ということか。もしや、盗品……? いや、それなら、なくなっても警察には届けられないはずだ。出所や取引内容など、事細かく調査される。大体そんなもの、一般の客には売れないし、見せることだって出来ないだろう。何か他の理由があるはずだ。手放したくなるような、理由が……。

                                               続く
 どれくらいの時がたったのだろう。気がつくと、受話器からは何の音もしていなかった。明かりはついているのに俺の目の前は真っ暗だ。口の中はカラカラに渇き、頭の奥がガンガンと痛む。こみ上げるものを感じて、俺は洗面所に駆け込んだ。むせるようにして胃の中のものを吐き出す。蛇口をひねり、頭から水をかぶると少し、落ち着いた。
 もう俺には何もない。
 ……誰も……いない……!
 翌朝、俺は会社に電話をすると警察に行き、遺体の確認や引き取りの手続きを済ませた。本間家にも連絡をいれる。が、そちらの親族は全て九州方面なので、来るのはどんなに早くても今夜だろう。これからいろいろと段取りを組まなくてはならない。俺には何をどうしたらいいのかさっぱり分からなかった。せめてこんな時、美砂子がいてくれたら…。
 涙も枯れ果てて、ボーッとしながら警察を出た時、何かが脳裏をかすめた。
 近くにいた警官達はさぞや驚いたことだろう。生気の抜けたような顔つきの男がいきなり、何かに取りつかれたように走り出したのだから。
 一目散にあの骨董屋へと向かう。……決まってる。あの時計を手に入れるためだ。五百万だろうが一千万だろうがかまうもんか。騙されたっていい。娘達が戻るなら、昨日までの生活に戻れるのなら何だってしてやる。俺にはもう、失うものは何もないのだ。
 駅の階段を駆け降り、ちょうど来ていた電車に滑り込むとさすがに息が切れた。あいにくと、空いている席はない。ドア近くの手すりにつかまり、少しずつ呼吸を整えた。
「えっ、時間を戻す時計?」
 息が止まりそうになった。先程とは別の動悸が激しくなる。声のした方を振り返ると、大学生らしき男が二人、笑いながら話していた。
「いや、あったらいいなってさ」
「あるわけねーよ、ンなもん」
 電車はもどかしいくらいにノロノロと進んでいる。窓の外を流れる景色がまるでスローモーションのようだ。
 俺は、早く目的の駅へ着く事だけを願っていた。一刻も早く、時計を手に入れて娘達を取り戻したい――あの話しが本当ならばだが――というのもあったが、それ以上にあの店の主人が他の奴に時計を売ってしまわないかという不安が大きかった。あの時俺は、とてもじゃないが信じられないといった体で逃げるように帰ってしまった。店の主人は三日待つと言っていたが、まさか本当に俺が戻ってくるなどと思ってはいまい。そういう態度をとってしまったのだ。
 俺は不可知論者ではなかったが、この時ばかりは世界中の神々に祈りたい気分だった。娘達が戻る、その可能性が一パーセントでもあるならばそれに賭けてみたいのだ。
 ホームに電車が入り、ドアが開くや否や俺は飛び出した。あせる気持ちが先走る。額から吹き出した汗が目に入り、一瞬視界がぼやけた。何かが左の方から聞こえる。そして耳をつんざく急ブレーキの音。
 驚いて転んだところに、タクシーの運転手の罵声がふりかかった。
 落ち着け、店はもう少しだ。
 自分にそう言い聞かせながら立ち上がる。仮に、今死んだところで悲しむ者は一人もいないが。
 チラリと腕時計を見やる。確かあの店は十一時から営業している、と言っていたはずだ。時刻が十一時を回っていることを確認して歩き出す。
 店が見える位置まで来た時、俺はその場に凍りついた。
 店の正面に、主人と客らしき男が立っている。主人が深々と頭を下げた。片手を上げて背中を見せた男の小脇に抱えられている物は……あの桐の箱だ!
 俺は走り出した。
「おや、斎藤さん、おはようございま……」
 そこまで言った店の主人は、まるで親の仇でも見るような目つきをして突進してくる俺を見て、顔を青ざめさせると急いで店の中へ引っ込んだ。間髪入れずに俺も飛びこむ。
「あの時計を売ったのか!? 三日待つと言ったじゃないか! それともあれは作り話だとでも言うのか!!」
 店の外までも響くような俺の怒鳴り声に主人は肝を冷やしたらしい。ヒェッと口の中で小さく叫ぶと、ブルブルと頭を振った。
「違う、違うんですよ、斎藤さん。さっきいらした方は、前から欲しがっていた中国の小皿を買っていかれたんです。時計ならありますよ、あなたが来るのはわかっていましたから……」
 その言葉を聞いた途端、情けない事に俺が腰を抜かしてヘナヘナとその場に崩折れてしまった。まあ、気絶するよりはマシだったかもしれないが。
 暑くもないのにビッショリと汗をかいて放心している俺を見て、主人は哀れに思ったのか、
「何かあったんですね……? よければ話してください。楽になれるかもしれませんよ」
 しばらく宙を見ていた俺は、少しずつ、とつとつと昨日の事を話し始めた。主人は最後まで一言も言わず黙って聞いてくれた。
「それは……困りましたね……」
「でもそれはあの時計で……!」
 言いかけた俺の言葉を制すると、主人は店の奥に来るようにと手招く。
 店と住居をつなぐ形で出来ている畳敷きの部屋に向かい、三和土に腰を下ろすと、辺りを見まわして話の続きを始めた。
「もちろん、お譲りは出来ます。ただ……」
「ただ?」
 主人はひとつため息をつく。
「時計を使うのを、ひと月先にして欲しいんです」
 ひと月先……? この時計は、今日この時から一ヶ月の間しか自由にならないのではなかったか。来月の今日といったら……時計を手に入れても何にもならないではないか。戻したいのは昨日なのだ。
「どうして……どうしてです!!」
「私が、あなたに時計を売った事を忘れてしまうんです」
 つまり、主人が言いたいのはこういう事らしい。
 時間を戻すと、本人以外の人は全て、今この時を忘れてしまう。俺が時計を買うのは今日。昨日まで主人は『売ってもいいな』と思っていたとしても”売った”という記憶がない。今日金を渡しても、金は俺のところへ戻ってきてしまう。
「もし時計がなくなっている、と私が思ってしまったら警察沙汰になってしまうかもしれません。日付入りの懐中時計なんて珍しいですから、結局、後々あなたに迷惑がかかるかもしれませんし……」
「じゃあ……じゃあ明日、いえ、時間を戻したらすぐに金を持ってここに来ます! そしてきちんと説明します! 何度でも!」
 腕組みをして考えこんでしまった主人に、俺は必死に頼み込んだ。
「あんた、俺を信用できると言ったじゃないか……! 頼む!!」
 この通りだ、とばかりに恥も外聞もなく土下座したのが功をなしたのか、主人は慌てて立ち上がる。
「わかりました、わかりましたから顔を上げて下さい」
「それじゃ……」
 昨日のように座敷へ上がり、埃のかぶった金属製の棚から、同じように桐の箱を出してきた主人は、蓋を開けて俺に中身を確認させた。
 間違いない。昨日話していた物だ。
「約束は守って下さいね」
「……ありがたい……必ず……守ります……」
「……本当に守れますか……?」
 怪訝そうな顔つきで覗きこむ主人に、俺は精一杯真剣なまなざしで言った。
「もちろんです!」
 当然だ。いくら払ったっていい。すべてが元通りになるのなら。
「もし、約束を破るようなことがあったら、あなたの身に恐ろしいことが起こりますよ。……それだけは忘れないで下さいね……」
「……?」
 警察沙汰になるぞ、という警告だろうか。まあ、いい。俺がきちんとすれば何も問題はないのだ。俺はその桐の箱を大事に胸に抱き、帰路に着いた。
 これで昨日に戻れる。娘達と今まで通りの生活を送ることが出来るのだ。
 人気の全くない我が家へ入ると、後ろ手に鍵を閉め、靴も脱がずに玄関先で恐る恐る桐の箱の蓋を外した。
 くすんだ銀色の時計は鈍色の光を放っている。その光を見ていると、まるで今までのことが全て夢のように思えてクラクラした。箱から取り出し文字盤を出すと、あの店の主人が調整していたのか一分一秒違わず正確に、時計は動いていた。
 慎重にリュウズを引き出す。時間は娘達が出かける前、朝の七時とすることにした。
 少し手前に回すと、カチリという音と共に日付が戻る。ということは、時間を戻すにはもう一段階、リュウズを引き出さなければならない。
 くるくると時計が回っていく。知らず、額から汗が吹き出していた。心臓がどくんどくんと激しく波打つ。最後の一仕事、震える指でリュウズを元に戻した。
 カチリ。
 その音がいやに大きく響く中、周囲を見まわしてみたがこれといって特別な変化はない。俺は急に不安になった。
 どういう事だ……? やはり俺は騙されたの……か……?
 そのとき不意に、台所の方でガタンという物音がした。
 心臓を鷲掴みにされたような気分だった。
 台所に通じるドアが徐々に開いていく。誰かが立っているようだが、朝日が向こうから差し込んでいるので顔が陰になっていて見えない。
 俺は眼をこれ以上はないというくらいに見開いたまま、その、瞬間を待った。
「何やってるの、お父さん」
 現れたのは真美だった。いつもの花柄のパジャマ姿。
 あの店の主人が言っていたことは本当だったのだ!
「やっ……た……。やった、やったぞ!」
 俺は実の娘にすがりついて泣いた。こうなるともう、父親の威厳も何もあったもんじゃない。今まで子供を支えてきたと思っていたが、何のことはない、俺の方がみんなに支えられていたのだ。
「何よ、ちょっとどうしたの。今、帰ってきたの?」
 その言葉に改めて自分の格好を見下ろすと、くたびれたワイシャツに曲がったネクタイ、しわくちゃのスラックスが目に入った。着替えもせずに走り回っていたのだ。
 俺は気の抜けた声で笑った。

                                                  続く
 それは馴染みの骨董屋での事だった。馴染みとは言っても、まだ五、六回来た程度だったが。ただ、いつ来ても客がいないため、必ず一、二時間は話し込んでしまう。店の主人はそろそろ七十を越えるだろう思うのに、二十ほども年下の俺となぜだか妙にウマがあってしまうので、昔からの常連のような雰囲気になっていた。
「斎藤さんだから打ち明けるんですけどね」
 いつものように、店の品物を見ながら三十分ほど話した頃だった。白髪も随分と薄くなっている主人は、奥の方からうっすらと埃のかぶった小さな桐の箱を出してきた。
 ビッシリと詰められた綿の中から取り出したのは、ところどころくすんではいるが、銀色の楕円形の物だった。
「それは……?」
「懐中時計なんですがね」
 そう言うと、店の主人は時計の蓋を開けてみせた。
 片手に収まるほどの大きさ。外見は最近の物とそう変わりはない。
「いつ頃造られたのか、どこの国の物なのか、はっきりしないんですがね、かなり昔に造られたはずなのに日付け入りなんですよ」
「へえ……」
 骨董品は好きだが、時計に関してはほとんど知識がない俺は感心して主人の手の中を覗きこんだ。
 時計の中心の右隣、真横に小さな円がついていて、その中を小さな針が回っている。どうやらこれが秒針のようだ。さん三しんこ針小びょうしん秒針どけい時計というやつだろうか。そしてその円の下に日付があるのだ。時計の上部には、かつてはもう少し長さがあったろうと思われる同色の鎖がほんの十センチ程、申し訳程度についていた。
「斎藤さんなら、コレをお譲りしてもいいと思いましてね。……どうです、きっかり五百万という事で」
「ご、五百万……!?」
俺は主人の言葉に呆然とした。いくら珍しい懐中時計とはいえ、マニアでもないこの俺に五百万円とはふっかけすぎだ。
「高いですか? でも私の話を聞けば、安いと思いますよ」
 主人は、自分たちの他には誰もいないはずの店の中で周囲を気にするように声をひそめた。
「実はこの時計、時間を戻すことが出来るんですよ」
 耳を疑うような言葉が聞こえる。
「まさか」
「私も初めはそう思いましたがね。何の知識も持たなかった私が今、こうして骨董屋をやってこれたのは実はコレのおかげなんです。……買い取りに失敗したり、売った直後にとてつもない値打ちが出たり。そんな時は時間を戻して……なるべく失敗しないようにしてきたんです」
 あまりに突拍子もない話だったが、仮にそれが事実だとしたら、思い通りの人生も夢ではない。三年前からの不景気が何の進展もない今、会社はこぞって役員の首を切り、賞与、給与は物価が上がっているというのにスライドしていかない。家庭では女房が、金がないだのなんだのとブツクサ言い、かといってパートで働く場所もない。こんな世の中に、そんな奇跡を起こす代物があったら……。
「でも、どうして俺なんかに……」
 主人の言っている事が事実ならば、いくらでも値がつけられるだろう。一千万でも二千万でも、いや、一億だって出す奴がいるに違いない。
 そんな俺の思惑に気づいたのか、主人は言った。
「お金じゃないんですよ。そりゃあ、お金持ちや政治家の人に売れば、かなりの大金が貰えるでしょうがね。でも、そんな世の中を動かす人達の手に渡ったらどうなると思います?ただでさえ不景気なのに、それこそ本当に日本は、いや世界が破壊してしまいますよ」
 また、大げさな……。いや、そうでもないか。私利私欲の為、他人はどうなってもいい、という輩はたくさんいる。
「私はね、私利私欲でもいいから、夢のある人に売りたいんですよ」
「夢……ですか……」
「斎藤さんは、確か一年前に奥さんを亡くされたって言ってましたよね。さすがに一年も前じゃどうしようもないですけど……」
「そんな事も出来るんですか!?」
「出来ますよ。でも、一年前じゃ……」
「時間を戻せるんでしょう!? だったら……!」
 俺の妻は一年前にガンで死んだ。まだ四十二歳の若さだった。あちこちの医者に診てもらったが、どこでも結果は同じだった。
 ――手遅れです……。
 俺は、仕事ばかりであまり家庭を顧みなかった。いや、そうではない。仕事を一番にしているのが、家庭の為だと思っていたのだ。だが、実際は違った。一人娘である真美は、今でこそ結婚もして、子供も出来たからうまくやっているが、反抗期のときは大変だった。妻の美砂子もそんな俺に気を使って、調子の悪いこともなかなか言えなかったのだろう。俺は夫としても父親としても失格だった。
「日付がね、一ヶ月分……でしょう?」
 主人は言いにくそうに口に出した。
「……あ……」
「一ヶ月までの時間だけが、自由に使えるんです」
 それだけでも悪くない話だ。だが…。
「斎藤さんなら、これを夢の為に使ってくれる、そんな気がしたんです」
「俺だって俗物ですよ」
「あなたは人を陥れるような人じゃない。それは信用できますからね」
 たかが五、六回会ったくらいで信用したというのか。俺はそんなにおめでたい奴じゃない。大体、その時計の話だってこの目で確かめたわけじゃないからな。この店の主人が、俺を騙そうとして話をでっちあげたとしてもおかしくはない。
「でも、やっぱり俺には五百万なんて、とてもじゃないが出せませんよ」
「……そうですか……」
 やんわりと断ると、がっかりとした顔で俯く。やっぱり作り話じゃないのかな、と俺は思った。
「じゃ、俺はそろそろ……」
 何となく気まずくなり、そそくさと店を出ようとした俺の背中に、主人は未練がましく言葉を投げかけた。
「三日たったら日付を昨日に戻します。気が変わったら、三日以内にまた、来て下さい……!」

 よく考えてみれば馬鹿馬鹿しい話だ。少しでもそんな話を信じた自分に呆れながら、俺は早く忘れてしまおうと、そろそろ活気づいてきた一軒の居酒屋に足を運び入れた。
 店を出る頃には、辺りは既に闇に包まれていた。千鳥足の酔っ払いが家路に着く時間帯だ。俺もそろそろ帰らないと、一緒に暮らしている娘がうるさい。
 ほろ酔い気分で駅を出ると、あとは歩いても十分とかからない。我ながら、この年で都内に一戸建てのマイホームを持てた自分が誇らしかった。タクシー待ちの行列を尻目にスタスタと歩き出す。
 鼻歌まじりで家の目の前に来た時、俺はふと、妙な事に気づいた。家中の灯りが消えているのだ。
 既に寝てしまったのかと思い腕時計を見ると、まだ十一時を少し回ったところだ。いつも真美はこの時間まで必ず起きている。今の若者は夜が遅くても平気なのだ。念のため車庫を覗いてみると、車がない。そういえば、今日は圭一郎君が休みだから、家族三人で遊びに行くと言っていたな…と俺は朝のやり取りを思い出した。
 鍵を開けて家の中に入ると、ひっそりと静寂だけが俺を迎える。居間の明かりをつけてネクタイをゆるめ、ソファにくつろいだ時に、家というものは一人でいると随分と広く感じるものだなどとつい、感傷的になってしまった。もし、真美達がこの家を出ていってしまったら……。いや、圭一郎君は入り婿でないとしても本間家の三男だ。ずっとここで暮らしてくれるだろう。
 だが、なぜか不安が重くのしかかる。言いようのない、胸騒ぎがした。
 電話が鳴った。
 午後十一時五十一分。
 こんな夜中に一体誰が?
 俺は手を伸ばした。動悸が激しくなる。
 心の中でもう一人の自分が叫ぶ。
 やめろ……その電話は、取ってはいけない……!
「――もしもし……?」
『斎藤さんのお宅でしょうか?』
「はい、そうですが……」
 電話は警察からだった。
 自動車事故?遺体の確認?一体何を言ってるんだ。
 俺には相手が何を言っているのか全くわからなかった。


                                            続く