これも相当古いものです。今じゃやっぱりありがちな内容です。
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何もかも静まり返っている。闇の中に響く雨の音が次第に大きくなっていく。季節は既に七月も半ばだというのに肌寒く、テレビでは三月下旬の気候だと言っていた。
私は耳を澄ませる。
こんな夜は何かを思い出しそうで……。
忘却の彼方の大切な何か、を。
ザアザアと降り続く雨。もう梅雨も明けてもいい頃なのに、今年は雨足が弱かったせいかだらだらと、なかなか終わりそうにない。こう雨の日が続くと、決して雨が嫌いではない陽子もさすがに気分がうっとうしくなってくる。かといって、週末でもない今日、仮病をつかって休むわけにもいかない。今日は期末テスト最終日なのだ。高校三年ともなると、大学受験やら就職やら、もうこの時期には結構慌ただしい。
――起きなくちゃ……。
陽子はあまり力の入らない自分の体を無理に起こすと、ピシャッと頬を叩いた。少し頭がスッキリする。
今日の科目は英語と国語。四年制大学に進学しようとしている陽子にとって、今日は本当に大事な日だった。昔から進みたかった通訳への道が、この試験にかかっているといっても過言ではないくらいに。その実力如何によっては夏休みの予定が変わってくるし、下手をすれば大学のレベルを落とすことにもなりかねない。
「あら、今日は早いのね」
階段を下りていくと、母の真澄が声をかけた。
「うん…。少し早めに行って、一美ちゃんと勉強するから……」
そう言いながらテーブルにつく。いつもより、かなり早いにも関わらず朝食の支度はほとんど済んでいる。
真澄はとてもしっかり者で、家の事は何でもまかせられる、と父である健一はよく言っていた。確かに、料理は上手く、きれい好きでいつも家中片付いている。そして、よく気がつき責任感が強い。かといってやたら気が強いわけではなく、上品で優しい。若い頃の写真を見ても、容姿がほとんど崩れていない…など、まさに良妻賢母を地でいくような女性であった。近所の人達にも評判がよく、陽子も母を誇りに思っていた。そんな母が通訳の仕事をやっていたからか、はたまた遺伝のせいなのか、陽子もまた同じ道を歩もうとしている。
真澄は黄金色に焼けたトーストを、陽子に差し出しながら言う。
「陽子はホント、手がかからなくてお母さん助かるわ」
「そお?」
「近所の奥さんに言わせると、うちはまるでドラマに出てくるような家庭なんですって」
寝起きが悪かったおかげで、トーストを一口かじると胃がもたれるような気分になる。
「食べるの無理ならヨーグルトになさい」
こういう時、何も言わなくてもわかるのだろうか、母親というものは。
「あなたとお母さん、体質がよく似てるから。お母さんもダメなのよ、こういう日……」
母の気遣いを嬉しく思いながら、陽子は家を出た。
運がいいことに、雨はかなり小降りになっていた。濡れて、新しくなったような色のアスファルトの上を、水たまりをよけながら歩く。この時間だとあまり車も通らない。
「ういーす」
ちょっと間延びした声が、後ろから聞こえた。
「あ、左右田君、おはよう」
同じクラスの左右田真彦は、密かに陽子が憧れている男の子である。勉強も運動も、一通りはソツなくこなしてしまう彼は、女子の間でも結構な人気であるのに、いつも陽子には特に優しい言葉をかけてくれる。
「随分と早いな、清水は」
ずっと走ってきたようで、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「少し早めに行って勉強しようと思って…。左右田君は?」
「俺はバスケの朝練。試験中に出てくんの、俺くらいだけど、今年最後だからさ」
「そうだね。がんばってね」
「おうよ。清水もな」
話ながらも足踏みを続けていた彼は、そう言うや否や飛ぶように走り去ってしまった。つい、クスクスと笑いがこぼれてしまう。
「陽子!」
声のした方を見ると、工藤一美がニヤニヤしながら立っていた。
「あ、おはよう」
「相変わらず仲がいいですねぇ」
軽くひじでつつかれる。
「やだ、見てたの?」
そう言いながらも嫌な気はしない。
「ここは家の目の前ですッ。目に入って当然でしょ」
少しずつ気分が晴れていった。今朝のヨーグルトが良かったのかもしれない。この分なら、今日のテストは大丈夫だろう。
「でもいいよねー、陽子んちは」
「えー、どうして?」
「美人なのはお母さん似でしょ? 頭はいいし、しっかりしてるし、スポーツもそこそこできる。かっこいい彼がつくわけよね。陽子とおばさん、ソックリだもん」
確かに自分でも似ているとは思っていた。いや、似ているだけでなく、お互いが考えている事も大体はわかる。だが、母の体内から分裂するように生まれてきたのだ。似すぎていても、おかしくはないだろう。
「そういえば、ここんちの犬も超ソックリなんだよ。あっ、ホラホラ!」
一美はそう言うと、一軒の家の庭先を指差した。見ると、窓辺に二匹の小型犬がちょこんと座っている。成る程、模様といい、片耳が下がっている所といい、本当にうり二つだった。
――似ている……。同じ人形が並んでいるみたい……。
「かわいいよねー。ね、兄弟かな?」
そうだね。
そう言おうと思った陽子の口から飛び出した言葉は、
「ううん。……親子よ」
であった。
学校を出る頃にはまた、雨がひどくなっていた。胃がもたれるような感覚が、またぞろ上がってくる。
「清水、一緒に帰ろうぜ」
こんな気分の時、必ず彼が現れる。まるで、陽子の気持ちがわかるかのように。
――なぜ、彼は私に優しくしてくれるんだろう……。
素朴な疑問。
……好きだから? 自問自答してみると、少し違う気がする。何だか……そう、監視しているみたいな……。
なぜ――?
思イ出サナイヨウニ。
思い出す? 何を?
『何をするんだ!貴様らは一体何者だ!!』
ハッとして振りかえると、電器屋の店先に置いてあるテレビで刑事ドラマを映しているのが目に入った。カップルの女性が何者かに車で連れ去られる。男性は追いかけるが、とても追いつけそうにない。
頭の中が白くなった。まぶたがヒクヒクと痙攣を起こす。
雨が、降っている。パチパチと傘に落ちては、はじかれてアスファルトに散ってゆく。どんどんその音が大きくなって……。
アノ日。
カリフォルニア。英語。
仕事ノ帰リ道。
車ノ、エンジンノ音。
……健一サン!
胸の鼓動が激しくなり、眼の奥がズキズキと痛んだ。
「清水?」
怪訝そうな顔で、彼は彼女の顔を覗きこむ。ふと、テレビのドラマに気づくと、
「ああ、これを見たのか。大丈夫、君には関係のない事だよ」
ニッコリと微笑み、優しく肩を抱きかかえた。
関係ノナイ事……。
「君は知らなくてもいいんだ」
ソウネ……知ラナクテモ、イイ事……。
記憶は忘却の彼方。遥か昔の闇の中へ。幾度も時を遡ってゆく永遠の想い。二度と思い出すことのないように、特別な鍵をつけよう。人類の未来の為に。
「遅かったな、左右田」
京王プラザホテル最上階の部屋でこちらに背を向け、窓から下界を見下ろす男がいた。昔、スポーツでもやっていたのだろうか、五十歳を越えたとは思えないほど、ガッチリとした体格の男だ。
「申し訳ありません」
左右田真彦は深々と頭を下げた。男はそのままの姿勢で、
「G1期のナンバー23はどうだ?確か、清水陽子とか言ったな。報告書は出来ているか?」
「は、そろそろ成長は終わるかと思いますが、一つ問題が……」
「私には報告だけで結構だ。それは科学班に処理させろ。……このプロジェクトが失敗したら人類は滅亡だ。あのいまいましいR菌は、最早世界中に蔓延しつつある。他の国がどこまで成功しているかはわからんが、日本は日本で対策を立てねばならない」
「既に、三十歳未満の、抵抗力のあるクローン人間が約九千人、そうとは知らず生活しています。現在六十歳以上の市民に関しては、感染は免れないかもしれませんが……」
男は何かを考えているようだったが、やっと左右田の方に向き直ると、大きく息を吐き出して言った。
「ナンバー23は初期化した後、再度M期からやり直せ」
再び、左右田は頭を下げると言った。
「首相のご随意のままに」
終
20年以上前の作品です。今ではもうありがちな都市伝説ですが、せっかくなので載せます。
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あれは五年前、当時私が十八歳の頃の出来事です
私には双子の妹がいました。一卵性という事もあってか、私たちはとても仲がよく、何をするにも一緒でした。その姉、京子、と私、涼子は高校最後の夏休み、初めて二人だけの旅行をすることに鳴ったのです。
静岡県H市は、東海道新幹線で東京から約一時間程の距離です。
私たちは二泊三日の限られた時間を有効に使うため、午前九時には支度を終え、自宅を出ました。
H駅に着くや否や、私たちは海へと直行し、その日一日中海水浴を楽しみました。
楽しいときは時間のたつのが早いもので、あっという間に時刻は午後の六時を回っていました。私たちは慌てて、今夜泊まる予定の別荘へと急ぎました。別荘は山の中にあり、外灯などがあまりないから七時までには来るようにと、管理人さんに言われていたからです。
別荘と言っても、うちの所有物ではなく、レンタルで旅行客が宿泊する、いわば一戸建ての旅館みたいなものです。一件一件の間が結構離れているため、見ず知らずの他の客と顔を合わせたり、隣に気を使ったりという事が少ないせいか、若い人の間ではなかなか人気があるようです。その代わり、食事は全て自炊。鍋類や食器はある程度揃っているので、材料さえ買っていけばかなり自由に生活できます。それが魅力で、私たちもその貸別荘に泊まる事にしたのです。
あんな恐ろしいことが起こるなんて、夢にも思わずに……。
*
「はい、じゃあこれが鍵ね。出かける時と寝る時は、必ず戸締りを確認して下さいね。それと、電話の上にかかってる白い電話は管理人室専用ですから、わからない事があったら使って下さい」
白髪まじりで人のよさそうな管理人のおじさんは、そう言って”家”に案内してくれました。
玄関の鍵をかけると、旅の疲れが一気に押し寄せてくるようです。それでも食事を作ってくれる人はいません。今日と明日は全部、自分達でやらなければならないのです。別荘は、玄関を入るとすぐ右に台所、その目の前に六畳の部屋がひとつ、左側にお風呂とトイレがありました。その六畳の部屋に荷物を無造作に置くと、私たちは夕食を済ませました。
そして、それが起こったのです。
「京子、水着一緒に洗っちゃうから出して」
私は荷物の整理をしながら、そう言いました。割と几帳面な方なので、化粧品や洗面道具をバッグに入れっぱなしにするのは嫌いなのです。京子はおおらかで、細かいことにはこだわらないタイプ。だらしないわけじゃないけど、双子のクセに性格はそれほど似ていないのです。
「先に、化粧落とさせて。海水と潮風で、もうバリバリなのよ」
そう言って、京子は備え付けのドレッサーの前に座り、化粧品を広げ始めました。
私が鼻歌まじりにせっせと手を動かしていると、しばらくして、
「……ねぇ涼子、玄関の鍵、かけたっけ?」
と、京子が妙なことを聞いてきたんです。彼女は戸締りや火の元に関しては非常にうるさいのに。
「んー、さっきかけたじゃない」
「涼子が?」
「自分でかけたでしょー! もうボケちゃったのぉ?」
私が笑いながら言うと、妙に真剣な顔で、
「私かけた覚えないよー」
そう言うのです。
「大丈夫だよ、私見てたモン」
「じゃあ、用心のために見に行こう。……怖いから一緒に来てよ」
私は少しイライラしていましたが、それで気が済むのならと思い、立ち上がりました。
玄関までくると、京子は急に蒼白な顔になり、小声でこう言ったのです。
「いい? 一、二の三で逃げるんだよ」
「はぁ?」
何の事だかわからずにいる私にかまわず、京子は鍵をガチャリと開けると、
「一、二の三!」
と、いきなり私の手首をつかみ、靴もはかずに走り出したのです。
「な、何よ、一体……」
「いいから早く!」
私たちは真っ暗闇の山の中を、隣の外灯めがけてひたすら全力疾走を続けました。
隣の家にたどり着いた途端、
「助けて! 開けて下さい!」
と、叫び、激しくドアを叩く京子を見ながら、私は言いようのない不安にかられていました。後ろの方から、獣のような息づかいが聞こえてきたからです。
住人がドアを開けてくれた瞬間、私たちは飛び込んですぐにドアを閉め、鍵をかけました。
その時です。
ガッガッ、と何かをドアに叩きつけるような音が二度ほど聞こえ、すぐに静かになりました。
「い……今の、何……?」
ガタガタ震えている京子に話しかけても返事はありません。一体、彼女は何を見たというのでしょうか。
落ち着いた頃に、意を決したように口を開いた京子の話はこうでした。
私たちが泊まるはずだった貸別荘には、部屋がひとつしかありません。そこには備え付けのドレッサーとちょっとした洋服ダンス、それと小物入れがありました。ドレッサーの反対側には押入れがあったのですが、そのフスマが十センチ程開いていて、化粧を落としていた京子が鏡越しによく見ると、中にカマを持った男の人が、うずくまりながらこちらをジッと見ていたと言うのです!
あまりの恐怖に私たちはバカンスを楽しむ気もなくなり、翌日家に帰ることにし、その日は管理人さんの家に泊めてもらいました。
管理人さんの話によると、私たちが来た日に一度、窓やドアを開けて虫干しをしたそうです。その隙に入り込んだ変質者だろう、という事でした。
あれだけ他人に気を使わなくていいから、と思っていたのに、その他人が今回ほど頼りになると思ったことはありません。
警官が来て事情聴取され、現場検証を行い、やっと眠りについたのは朝の五時頃だったと思います。
次の日、隣の人に挨拶をしにいった時、ドアに二ヶ所、小さな穴が開いているのを見つけました。その傷は、昨夜の出来事が夢じゃないことを物語っているようでした。
駅まで警察の方に送ってもらうと、私たちは帰路につきました。
「犯人を捕まえたら、必ず連絡します」
という言葉を聞きながら…。
でも、残念なことに未だに連絡はありません。
終わり
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あれは五年前、当時私が十八歳の頃の出来事です
私には双子の妹がいました。一卵性という事もあってか、私たちはとても仲がよく、何をするにも一緒でした。その姉、京子、と私、涼子は高校最後の夏休み、初めて二人だけの旅行をすることに鳴ったのです。
静岡県H市は、東海道新幹線で東京から約一時間程の距離です。
私たちは二泊三日の限られた時間を有効に使うため、午前九時には支度を終え、自宅を出ました。
H駅に着くや否や、私たちは海へと直行し、その日一日中海水浴を楽しみました。
楽しいときは時間のたつのが早いもので、あっという間に時刻は午後の六時を回っていました。私たちは慌てて、今夜泊まる予定の別荘へと急ぎました。別荘は山の中にあり、外灯などがあまりないから七時までには来るようにと、管理人さんに言われていたからです。
別荘と言っても、うちの所有物ではなく、レンタルで旅行客が宿泊する、いわば一戸建ての旅館みたいなものです。一件一件の間が結構離れているため、見ず知らずの他の客と顔を合わせたり、隣に気を使ったりという事が少ないせいか、若い人の間ではなかなか人気があるようです。その代わり、食事は全て自炊。鍋類や食器はある程度揃っているので、材料さえ買っていけばかなり自由に生活できます。それが魅力で、私たちもその貸別荘に泊まる事にしたのです。
あんな恐ろしいことが起こるなんて、夢にも思わずに……。
*
「はい、じゃあこれが鍵ね。出かける時と寝る時は、必ず戸締りを確認して下さいね。それと、電話の上にかかってる白い電話は管理人室専用ですから、わからない事があったら使って下さい」
白髪まじりで人のよさそうな管理人のおじさんは、そう言って”家”に案内してくれました。
玄関の鍵をかけると、旅の疲れが一気に押し寄せてくるようです。それでも食事を作ってくれる人はいません。今日と明日は全部、自分達でやらなければならないのです。別荘は、玄関を入るとすぐ右に台所、その目の前に六畳の部屋がひとつ、左側にお風呂とトイレがありました。その六畳の部屋に荷物を無造作に置くと、私たちは夕食を済ませました。
そして、それが起こったのです。
「京子、水着一緒に洗っちゃうから出して」
私は荷物の整理をしながら、そう言いました。割と几帳面な方なので、化粧品や洗面道具をバッグに入れっぱなしにするのは嫌いなのです。京子はおおらかで、細かいことにはこだわらないタイプ。だらしないわけじゃないけど、双子のクセに性格はそれほど似ていないのです。
「先に、化粧落とさせて。海水と潮風で、もうバリバリなのよ」
そう言って、京子は備え付けのドレッサーの前に座り、化粧品を広げ始めました。
私が鼻歌まじりにせっせと手を動かしていると、しばらくして、
「……ねぇ涼子、玄関の鍵、かけたっけ?」
と、京子が妙なことを聞いてきたんです。彼女は戸締りや火の元に関しては非常にうるさいのに。
「んー、さっきかけたじゃない」
「涼子が?」
「自分でかけたでしょー! もうボケちゃったのぉ?」
私が笑いながら言うと、妙に真剣な顔で、
「私かけた覚えないよー」
そう言うのです。
「大丈夫だよ、私見てたモン」
「じゃあ、用心のために見に行こう。……怖いから一緒に来てよ」
私は少しイライラしていましたが、それで気が済むのならと思い、立ち上がりました。
玄関までくると、京子は急に蒼白な顔になり、小声でこう言ったのです。
「いい? 一、二の三で逃げるんだよ」
「はぁ?」
何の事だかわからずにいる私にかまわず、京子は鍵をガチャリと開けると、
「一、二の三!」
と、いきなり私の手首をつかみ、靴もはかずに走り出したのです。
「な、何よ、一体……」
「いいから早く!」
私たちは真っ暗闇の山の中を、隣の外灯めがけてひたすら全力疾走を続けました。
隣の家にたどり着いた途端、
「助けて! 開けて下さい!」
と、叫び、激しくドアを叩く京子を見ながら、私は言いようのない不安にかられていました。後ろの方から、獣のような息づかいが聞こえてきたからです。
住人がドアを開けてくれた瞬間、私たちは飛び込んですぐにドアを閉め、鍵をかけました。
その時です。
ガッガッ、と何かをドアに叩きつけるような音が二度ほど聞こえ、すぐに静かになりました。
「い……今の、何……?」
ガタガタ震えている京子に話しかけても返事はありません。一体、彼女は何を見たというのでしょうか。
落ち着いた頃に、意を決したように口を開いた京子の話はこうでした。
私たちが泊まるはずだった貸別荘には、部屋がひとつしかありません。そこには備え付けのドレッサーとちょっとした洋服ダンス、それと小物入れがありました。ドレッサーの反対側には押入れがあったのですが、そのフスマが十センチ程開いていて、化粧を落としていた京子が鏡越しによく見ると、中にカマを持った男の人が、うずくまりながらこちらをジッと見ていたと言うのです!
あまりの恐怖に私たちはバカンスを楽しむ気もなくなり、翌日家に帰ることにし、その日は管理人さんの家に泊めてもらいました。
管理人さんの話によると、私たちが来た日に一度、窓やドアを開けて虫干しをしたそうです。その隙に入り込んだ変質者だろう、という事でした。
あれだけ他人に気を使わなくていいから、と思っていたのに、その他人が今回ほど頼りになると思ったことはありません。
警官が来て事情聴取され、現場検証を行い、やっと眠りについたのは朝の五時頃だったと思います。
次の日、隣の人に挨拶をしにいった時、ドアに二ヶ所、小さな穴が開いているのを見つけました。その傷は、昨夜の出来事が夢じゃないことを物語っているようでした。
駅まで警察の方に送ってもらうと、私たちは帰路につきました。
「犯人を捕まえたら、必ず連絡します」
という言葉を聞きながら…。
でも、残念なことに未だに連絡はありません。
終わり
同じとき時間が過ぎてゆく。一度経験したことのある時間。既視感とは全く違う、同じことを繰り返す日々。
「あれ? ここ、お義父さんがよく行ってたところじゃないですか?」
圭一郎君が折りたたんだ新聞を持ってくる。
「数千万円の価値がある、古い懐中時計がなくなったらしいですよ」
「そりゃあ、大変だな」
「盗まれたんですかね?」
「さあ……。俺はここ最近行ってないからな……」
あれから随分と考えた。が、主人がどうして手放したのかなんて、もうどうでもいい。店の方にも一切近寄らなかった。主人に話をしても無駄な以上、あまり気分のいいもんじゃないが、これが一番いい方法だと思う。そう、証拠は何一つないのだ。
ゆっくりとコーヒーを飲み、俺はぶらぶらと、近所の床屋へ出かけた。
あれ以来、時計は必ず持ち歩くことにしている。何かあった時にはすぐ、時間を戻せるように。
「誰か、救急車を!」
「事故だぞ!子供が轢かれた!」
こんな事も、俺には造作がない。リュウズをちょっと回せば五分前だ。
坂道の方から楽しげな声が聞こえてくる。
「車が来るから、気をつけなさい」
「えー、来てないよぉ」
俺が声をかけると、子供達はキョロキョロと周りを見まわした。
「これから来るんだよ。だから、もう少し端によりなさい」
その時ちょうど、坂道の上から車のエンジン音が聞こえてきた。
「わー、ホントだぁ」
「おじさん、ちょーのーりょくしゃ?」
超能力者か。と言うよりは、一種神に近い存在とも言えるか。
「斎藤君、最近冴えてるね。この調子でガンガン頑張ってくれよ」
いつもは気難しい顔で話しかけてくる社長も、業績がうなぎ登りに上がっているので機嫌がいい。当然だ。俺の辞書からは”失敗”という文字が永久になくなったのだから。
これで、何もかも解決したかのように思えた。いつも通りの穏やかな生活に戻る。
だが、それは次の週の日曜、突然やってきた。誰かが午前中からチャイムを鳴らしているのだ。
うちの日曜は遅いんだ、また後にしてくれ。寝ぼけまなこで布団をかぶり直すと、真美が不安そうな顔つきで部屋に入ってきた。
「……お父さん、警察の人が……」
その言葉に、一瞬にして目が覚める。
「警察……? 何の用だって……?」
なるべく平静を装って言ったつもりだったが、うまく口がまわらない。
「骨董屋さんの時計について、少し聞きたい事があるんですって……」
俺は急いで着替えを済ますと、二、三度深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
大丈夫、証拠は何もない。知らぬ存ぜぬを通しきればいいのだ。下手なことを言いさえしなければ……。
また、膝が痛んだような気がした。
階段をおりて応接間に顔を出すと、二人の刑事らしき男が立ち上がって会釈をした。二人ともまだ三十代前半だろうか、テレビに出てくるような刑事とは全然違う。どこかの商社の営業マンのようだ。一人は七・三分けで銀縁メガネをかけたインテリ風、もう一人は髪を短く刈り上げた、体育会系の男だった。
俺も、少し頭を下げるとソファに腰を下ろす。ちょうど、真美がお茶を淹れてきたところだ。
「お休みのところすみません」
男達は、身分証明を見せて名乗った。やはり、あの時計は盗難事件として捜査されているらしい。
「……で、斎藤さんは、九月二十二日、どちらにいらっしゃいました?」
「え?」
「あ、疑うわけじゃないんです。あのお店の常連さんは、疑われないように全員のアリバイを伺っているんですよ」
「……先月の二十二日……は……」
少し時間を戻しすぎたせいか、当日のことがなかなか出てこない。が、その時、真美が助け舟を出してくれた。
「やだ、お父さん。その日は私達に出かけるなって言った日よ。有給まで使って、一日中家にいたじゃないの」
「ああ、そうか。そう言えばそうだったな。……確か、お前の友達の上原さん……ていう人が突然遊びに来たよな。刑事さん、その人が証明してくれますよ」
俺は真美の方から向き直ると、そう言った。
「……立ち入った事を聞くようですが、なぜ、その日は家にいらっしゃったんですか? 何か大事な用でも……?」
「……それは……」
娘が死ぬのが分かっていたから。
そんなことは言えない。
「それが、本当は私と主人は子供を連れて出かける予定だったんです。でも、父が、どうしても今日は家にいろって。いやな予感がするからって言ってたら、夕方、私達が通る予定だった高速で事故があって……」
「ほほう、虫の知らせ、っていうやつですかな」
……嫌な笑い方だ。こういうのをアルカイックスマイルと言うんだろう。口元だけが歪んだように引きつり、眼だけは笑っていない。
「何にせよ、きちんとしたアリバイがある以上、問題はありません。ご協力ありがとうございました」
刑事達は、念のため、と言って上原さんの連絡先を書きとめて帰っていった。
次の日も、そのまた次の日も、俺は仕事が手につかなかった。あの刑事の笑い方が、頭から離れないのだ。証拠がないとはいえ、あの刑事達は俺を疑っている。令状がとれれば、すぐにでも家宅捜査に来るだろう。
あれからずっと、誰かに尾けられてるような気が、いや、気のせいじゃない。絶対に尾けられている。電車のガラスごしに、じっと俺を見ていたり、スーツにサングラスといった男が、車の中から様子をうかがっていたり、必ずと言っていいほどそんな奴が近くにいる。多分、物的証拠を探しているんだろう。
唯一の証拠は、俺が肌身離さず持っているこの時計だ。これが見つからない限り、警察は俺を捕まえられない。だが、もしも万が一、落としでもしたら……。
日付入りの懐中時計。滅多にあるもんじゃない。このまま持って歩く方がいいか、それともどこか、安全な場所に隠した方がいいか。だが、絶対に見つからない、安全な場所なんて……。
十月二十一日。俺は会社が終わると、真っ直ぐにあの骨董屋へ向かった。刑事達が、俺のいない間に家に来ても分かるように、真美には店にお見舞いに行くと言ってある。後で奴らが来た時に、運良く見つけてくれればいうことはない。
そう、木の葉を隠すには森の中、と言う諺があるように、骨董品を隠すには骨董屋が一番いいのだ。あれだけごちゃごちゃした場所だ。さりげなく、何かの後ろにでも置いておけばわからないだろう。これ以上の上策はない。あの時計が欲しければ、今度はきちんと金を払って買えばいい。俺の嫌疑も晴れるし、時計は見つかる。一石二鳥だ。
「あ……っと……」
曲がり角まで来た時、また、右膝が痛んだ。周りの時間は戻っても、自分の時間は戻らないらしい。前に、女子高生とぶつかったときに痛めたところだ。こりゃあ、きちんと医者に診てもらった方がいいかな。もう、そんなに若くないだろうし。
店まであと少し、といった所まで来た時、店の主人が出てくるのが見えた。警官の一人でもいるかと思いきや、相変わらず誰もいないらしい。
「おや、久しぶりですねぇ」
主人が大きめな声を出したので、俺は小走りに通りを突っ切ろうとした。
がくん、と目の前が反転し、アスファルトが見えた。右膝の痛みに顔をしかめながら、やっぱり医者通いだな、と思う。
「斎藤さん、早く!」
主人の声に振り向くと、軽自動車がすぐそこまで迫っていた。
慌てて立ち上がろうとするが、膝が痛くてままならない。ようやく道の端まで這っていった時、フロントガラスに見えたのは、居眠りをしながらこっちへ突っ込んでくる青年の姿だった。
……後は、どうなったのかなんて分からない。分かるのは、体の感覚がない、という事と、主人が冷ややかな目つきで俺を見ている、という事だけだ。
「……この事故で、全て分かりましたよ……。私は言った筈です、約束を守らないと恐ろしい目に遭うって……」
ど、どういうことだ!?
「本来の十月二十一日、あなたは娘さん夫婦を亡くして生きる希望もない、と私に相談しに来たんですよ。ま、あなたにとっちゃもう、記憶はないと思いますがね。あんまり気の毒なんで、私は好意で時計を差し上げようと、ギリギリ九月二十二日まで時間を戻しました。でも、無料であげると言ってもあなたは信じないでしょう? だから、五百万なんて言ったんですよ。それなのに、あなたはお金を持ってこなかった……」
「そ……れは……」
俺は声を振り絞って反論しようとした。
「分かってますよ、持ってきたけど私が信用しなかったと言いたいんでしょう。何度も聞きましたからね。私も何度も言いますけど、あなた、私が信用するまで説明すると言ったじゃないですか。そうすれば、この事故だって避けられたのに……」
主人は俺をじっと見下ろしたまま、動こうとしない。俺を助ける気がないのか!? このままでは死んでしまう! ……時計……! 時間を戻せば……!!
カキッと時計の蓋が開く音がした。何とか顔を上げると、主人が時計を持っているのが見える。
「た、頼む……時間を……」
「あなたのおかげで、私は十月二十一日から、この事故から先へ行けないんですよ。もう情けをかけるのはやめにします。あなたがこの事故で助かるのか死んでしまうのか、それは分かりませんが、もし助かったならその時に、きちんと時計をお譲りしましょう」
主人はクルリと背を向けると、店のほうに歩いていく。
そ、そんな!
「……つ……ぎは……かな……ず……約そ……守……か……ら……」
俺はまだ、やりたいことがたくさんあるんだ! こんなところで死にたくない!
叫びたいのに、体どころか口までいうことをきかない。
その時、主人は一度俺の方を見ると、
「そのセリフも、もう聞きあきました。……車の方もいるから、救急車は呼んでおきますよ。
それでは、よい時間を……」
そう言ったかどうか、俺にはもう、何も分からなかった……。
終