こんにちは!
いとです。
前回の『私のこと②〜我が家のブラックホール』の続きを書きますね。
ちなみに『私のこと①~母と母』から読むとわかりやすいと思います。
今回は産みの母と育ての母のことを。
といっても、私が知っているのは育ての母だけで
産みの母は私が3歳の時に亡くなっているので、記憶はありません。
なので、育ての母の記憶を。
小さい頃の、一番記憶にある想い出は
幼稚園のスモッグ。
指定のものがあったんですが、
そのスモッグに、女の子の刺繍をしてくれてたんです。
三つ編みの髪の毛で、頬にそばかすがついていて
ちょっとお転婆さんな女の子♪
ほかの子はどんなだったのかは覚えてないんですが
私はそれがとてもうれしくて、かなり自慢げだったと思います。
それは、今の私の仕事にもつながってるんですよね。
たぶん入園入学グッズもちゃんと作ってくれて
とっても器用な母でした。
小学生の3年生ごろかな。
家庭科の授業が始まる前に、かわいいお裁縫箱を買ってもらったんです。
そしたら、そのカバーを作ってくれたりね。
すっごい見てたなあ、作ってるところ。
取っ手が真ん中についてたんだけど、その部分に四角く穴をあけてくれて
『へえ、そうやってつくるんだ…』って。
お料理も、いつも手の凝ったものを作ってくれて、
お菓子作りとか、パン焼いたり、いろんな経験させてくれました。
高校生の時からお弁当生活だったんですが
必ず大好物の厚焼き玉子を入れてくれてました。
社会人になってからも7~8年ぐらいは作ってもらってたなあ。
当時は同僚に
『我が家にはお弁当製造機があるんだ』なんて言ったりしたりして💦
なんて失礼な!
そんな感じで、まあ普通に思春期&反抗期はありましたが
良好な親子関係でした。
もちろんね、前回書いた通り鉛のようなブラックホールは心の底の方にあるんです。
でも、表面的はきっと良好に見えてたと思う。
それはね、きっと共通の敵がいたからだと思います。
それって誰だと思いますか?
父?
父は、もう本当に忙しい人で、ほとんど存在感ゼロでした。
ザ・昭和のお父さん!っていう感じ。
共通の敵は
産みの母
でした。
そう、私にとって産みの母は『悪人』だったんです。
だって、私のこと置いて死んじゃったでしょう。
だから、子どもの私にとっては
産みの母 = 悪い人
でした。
育ての母にとっては、ずっと嫉妬心があったんでしょうね。
赤ちゃんの頃のアルバム、産みの母が写っていた写真がすべて捨てられていたそうです。
↑兄から最近聞いた話。
そういう、育ての母への気遣いで
産みの母のことは禁句になってましたね。
なにせ、幼い私にとっては
『このお母さんに嫌われたら生きていけなーい💦』
わけですから。
今考えるとね、わかります。
産みの母だって、幼子を残して死ぬに死にきれなかったでしょうにね。
今の時代、昔よりは離婚する夫婦が増えてると思います。
もしお母さんが子どもを連れて離婚したとして、お子さんにお父さんのことを聞かれたら、絶対悪いことを言わないで欲しい。
だって、その子にとっては唯一のお父さんだから。
お母さんだって、一時は好きで結婚して愛の結晶が生まれてきたんでしょう。
少なくとも、お子さんが聞きたいことはごまかさずにきちんとこたえてあげてくださいね。
次回は、産みの母のこと(聞いたことですが)を書こうと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。