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『愛と暴力の戦後とその後』 レビュー

日頃ぼんやりと、もしくは漠然と思う、もしくは感じることがある。身の回りに起こる様々な現象・事象に対し、それらが、何故だか分からないがとにかく自分の何かに引っ掛かる、面白い、不思議、何じゃこりゃ、何でこうなるのか!(怒)…何でもいい、自分の何かに引っ掛かったものを、何か言葉にしないと落ち着かない、腑に落ちない、というもの。

これは人間の中のある種の性質であって、とにかく言語化しないとおさまらないという人は少なからずいる。日記をつけている人は日常的に一日の終わりにその日を振り返って言語化しているのだろうし、たとえ論理的でなくとも、詩のような断片を書き殴るという時もあるかもしれない。言語化することで、自分を納得させたり、客観視したり、俯瞰出来たりもする。

しかし言語化した時点で、最初に思った/感じた漠然としたモヤモヤな全体感は、自分の納得と共にその全体をそぎ落とされてしまう。そのことを考え始めると逆に、言語化することを躊躇してしまう時もままある。果たしてこの言葉が、初原的な全体感をうまく言い表せているのだろうかと。

そしてそのことは、あらゆる表現活動について言えることで、絵にしたり、音にしたりする中で、ここだ!というエッセンスが抽出出来た時に、一つの表現となるのであり、それがあわよくば時代の共感をもたらす作品となる。

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前置きが長くなったけれど、赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』を読みながら、今この現代を生きている中、日々公私共々、様々な現象に出会う中で自分がずっと感じていたモヤモヤを、スッと言語化してくれたような快感があった。しかも3.11以降の状況の中で、鬱積してきたと言ってもいいモヤモヤを、(あくまでも)一つの切り口として提示されたことに、そうそう!と膝を何度も打つような感覚だった。

1964年の東京生まれ、自分よりも5歳年上である著者が、二人の姉(4・6歳違い)の間であるような親近感が、たぶん読んでいて多大なる共感を得たのだとは思う。著書の中で描かれる1980年代の風景や、その頃の東京の「郊外」感、ドラえもんのジャイアンを引き合いに「空き地とガキ大将論」を展開するあたり、バブル経済の感じや、オウムに関することも、著者が生きてきた空間を容易に共有出来ることに、言語化することってすごいなーと単純に思った。

そして、『太陽に吠えろ』と『探偵物語』で松田優作が「意味のない」殉職をすることで、戦中の無駄死にを戦後処理できなかった心的なツケを、一段高次の物語として「発明」したとするあたり。その松田優作がテレビの中で「葬り去られた」年に漫才ブームが起こり、今のテレビのお笑いタレントへとつながり、漫才ブームを担った北野武は映画監督となった時に暴力しかない映画ばかりを作った、それは、時代に抑圧された身体性の叫びではなかったか、というくだりとか。

そういった自分たちの生きてきた時代を丁寧に考証し、最終的には日本、民主主義、日本語、憲法とは何か、という現在の「私たちが今生きている」時空間にまでつなげていくその展開は、見事という他ない。まさに、現代のモヤモヤを言語化するという才能を垣間見た気がする。しかも決して大げさではなく、日常的な感覚の延長と、その言葉として。

著者が戦後の日本とアメリカの関係として引用した、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』の、「倒錯的恋愛関係」は全くその通りで、象徴的には終わったかもしれない「昭和」や「敗戦」が、沖縄の基地や原発問題、TPPしかり、まだ現在においても脈々と続いていることに思い至るし、これからの日本/世界を読み解く鍵にもなるに違いない。

断髪式

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昨日17時過ぎに、計5人の立会いの元、私の「断髪式」が滞りなく執り行われたことを、此処にご報告申し上げます。

思えば、父の葬儀の前日に散髪して以来この1年半、別に床屋に行くお金が惜しかったワケでもなく、ただただ何となく世の状況に流されるままに伸ばしてきた、この白髪混じりの髪。

伸ばし始めた頃、ある人から「反抗期ですか?w」と言われ、そうか、そういえば私は亡くなった父に対して、最期まで反抗期というものが全く無かったな~と思い至り、コレはひょっとして父に対する遅れてきた(遅すぎ)反抗期なのか?などと考え込んだり。。。

自分の身体の一部にして一部でないような、外部的な爪や髪というものが、一体どこまで伸びるのだろうか、伸ばせるのだろうかという、ある意味自分の身体を使ったリアルな実験を試してみようと思ったのもありました。同世代においては実験すら難しいかもしれない実験。

また、自分史上初めての長髪に、生活の上でもどんな変化があるのだろうと、少なからずワクワクしていたのも否めません。実際、シャンプーやリンスの量が増えたり、食事の際には後ろに束ねておかねばいけないとか、道行く長い髪の女性がどのように束ねているのだろうかと観察したり、今までには思ってもみなかった様々な「視点」も得ることが出来ました。

昨年、暑い季節を長髪で過ごすにあたり、いつもなら「もう暑くてがまんなんねーっ!」とバッサリスッキリ切ってしまうはずの髪を、はて、私は何故今、伸ばし続けているのだろうかと考えはじめた矢先に、流れてきた情報から、そうか、コレだったんだ!とガッテンボタンを押したことがありました。そう、これから戦争を起こそうとしている人々への「反戦」の意思表明でもあるのだなと。(結果的にLove & Peace的な、懐かしいヒッピーっぽくなって、自分でもビックリw)

まぁ、それはいいとしてw

1年半伸ばしてきた髪を切るにあたり、人の髪を切るという経験をするなど滅多にない機会だと思い、ムスメにも参加(させ)して頂きました。自事務所における断髪式において、美容業界的には百花繚乱な土地でそのマネージメントをされていたプロの方に切って頂くという機会を得られ、その手さばきや造形力にも感服したのでございます。

ちなみに冒頭の写真、切られる前までは私の身体の一部であったにも関わらず、いざ切られてみるとチョット不気味なことになっています。今では、それを使って猫と遊んでいるという、楽しいGWでございます。

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会津・さざえ堂

裏磐梯在住の叔父が年初に骨折し、そのお見舞いを兼ねて遊びに行くという私の姪の企画があり、珍しいメンツだったので便乗してきました。私も叔父の所へ行くのは、おそらく14~15年ぶりくらい。

そして、せっかく行くのだからと、ずっと行ってみたかった会津若松にある「さざえ堂」まで、足を延ばしてきました。

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「さざえ堂」は、正宗寺の僧侶・郁堂が考案したとされる仏塔で、寛永8年(1796年)会津・飯盛山に建立されました。内部が2重螺旋のスロープになっていて、上りと下りが別の通路になっています。その通路に沿って西国三十三観音像が安置されていて、このお堂を参拝することで三十三観音参りが出来るということのようです。つまり、発想的にはものぐさ坊主だったという…

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プロポーションは綺麗

昭和28年に「本堂傾斜復旧工事完成」なる札も掛かっていたので、傾いたのを修復したこともあるのだろうけれど、ハッキリ言って傾いていても全くわからないと思うくらいな、外観。もちろん内部にいても。

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拝観料400円を払い、基壇部の階段を数段登った所の入口から、スロープが始まります。

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途中、中心部を通して上りと下りがお互いに見える場所があったり(行き来もしようと思えば出来る)、決して高くない天井高さの天板が逆方向の床板だったりと、何とも不思議な空間体験。

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芯柱と六角形の平面の角柱を梁で結んでいるシンプルな架構なのだけれど、レベルが常に変わり続けるために、その施工はかなり難儀であったと推測できます。ホント、よく造ったなーって感じ。

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最後は上り口と反対側へと戻り、基壇部を通って元の階段へと。

いやー楽しかったです。このワクワク感は何なんだろうと思ったのですが、これは「遊具」なのだなと。

「さざえ堂」は小さいながらにして空間を持つ「建築」なのだけれど、最初から最後まで機能としての「動線」しかない空間は、「遊具」と同じ構成であるがゆえに、ワクワクするのだなと思った次第です。

『イザイホウ -神の島・久高島の祭祀-』

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写真はアップリンクのサイトより拝借

昨年たまたま、比嘉康雄著『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』を読んでいたので、まさかその祭祀「イザイホウ」の映像が見られるとは!と思い、迷わず予約して観てきました。

「イザイホウ」とは、久高島で12年に一度行われてきた祭祀で、1978年を最後にもう行われていないとのこと。映像は1966年の時の祭祀でしたが、島の生活の過酷さや、島を守ってきた女たちの姿、そして祭祀の様子など、貴重すぎる映像でした。

興味のある方は、上記、比嘉氏の著書を合わせて読むのを絶賛オススメ中です~!

「精神修養」

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謹賀新年
今年もよろしくお願いします!

もうこのブログのことを忘れていたわけではありませんw
身の回りに起こる状況に、記述が追いつかないというくらい、
いろいろありすぎていっぱいいっぱいだったわけで。
あらためて記述することを積極的にしていく年にしたいなと
思っております。

昨年の個人的なテーマとして、「感覚」というのがありました。
それを意識しながら身体を動かしていました。

その流れから、今年の(でも実は去年からダラダラ続く)テーマとしては、

「精神修養」

コレで行くことにしました。

何卒、ごひいきに。

新井淳夫「フランスの最も美しい村々」-第4章-

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フランスの美しい風景画の並ぶ展示です。
会場で「新井さんの眼は広角レンズですね」と言ったら、「みんなそう見えているんだけどね」と新井さん。そうそう確かに、時間と共にシークエンシャルな空間認識というのは歪んでいるし、それを2次元の絵にした時にはそうなるだろうなと。

いつも素晴らしいなと思うのが、グッと惹きつけられる鳥瞰図的な風景画。実際にその風景を見ている場所から50mくらい上方に、鳥のように飛んだらこう見えるのかな、という新井さんの「具体的な」心象風景。

ここでも空間は大いに歪む。けれど、むしろ我々は空間を歪んで認識しているのだけれど、常に自己補正していることにすら気づいていない、ということに気づきましたw
(酔うと自己補正も無くなるけどねw)

絵と共にあるテキストを読んでいくと、新井さんと一緒に旅している気分になれます。
タンバリンギャラリーにて、明日10/5(日)まで!

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『岡本太郎とアール・ブリュット〜生の芸術の地平へ』展

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アーティスト・画家である中津川浩章さんから『岡本太郎とアール・ブリュット』展のお知らせを聞いた時、その親和性を思えば、これは間違いなく良い展示になるだろうと確信しました。しかも、日本で障害のあるアーティストの作品の数々のディレクションをされてきた中津川さんが、今回はどのようにキュレートされるのか、本当に楽しみでした。

アール・ブリュット、アウトサイダー・アート、障害者アート、などいろんな呼び方(や厳密な定義?)があるようですが、もうそんな呼び方や境界さえどうでもいいじゃないか、同じ生命の根源という地平に並ぼうよ、というメッセージさえ聞こえてくるかのような展示でした。とても居心地が良く、2回、3回と繰り返し観てまわっていました。

中津川さんと岡本太郎美術館の仲野泰生さんが、20年くらい前から構想していた企画がようやく実現したとのことで、感慨深げに話すお二人の高揚した表情が印象的でした。そういう意味でも、この展示は本当に素晴らしい出来事(=事件)ではないかと。

10月5日までと会期も長いですが、長いと思っているとあっという間に見逃しますので(そういうもんですw)、生田緑地の中を散策しながら観に行くのを絶賛オススメ中。てか、必見!!

8月10日(日)14:00~ 中津川さんのライブ・ペインティングがあります~コレも楽しみ!

『デザイン・ミーティング』開催のお知らせ

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ソックリ!ビックリ!

昨日までいさらアートスペースでやっていた赤佐ひかりさんの展示に来られた、作家さんの知り合い御夫妻。連れていたヘビーカーでスヤスヤ眠っていた1歳児の寝顔がウチの娘の同じ頃にソックリだね~と私とカミサンで懐かしがっていました。

まぁベイビーなんて寝顔はだいたいみんな似ていて、起きたら違うんだろうな、などと思っていたら、起きてもソックリ過ぎてビックリ。ソックリ!ビックリ!

娘のその頃の写真を御夫妻に見せたら、まるでウチの子の写真ですね、と。(笑
一卵性ではないかという程の似方に、その場に居合わせた人も皆、驚いていました。

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上が昨日のベイビー
下が7~8年前の娘

今日、別の所でその話をしたら「隠し子だったりして」などという冗談も飛び出しましたが、それだったらそれで面白いのですが(>ヲイ!)、それよりも、もっともっと面白い話だと思っているのです。

ウチの娘は母と父のどちらに似ているかと言えば、部分ではそれぞれの部分に似ているけれど、全くソックリなわけではないミックス。一方、御夫妻とベイビーも、ウチと似たような感じなワケです。部分的にはどちらかに似ているかもね~という感じ。

そして、私と御夫妻のダンナさんが似ているかと言えばそうでもないし、なんとなく似ているところもある感じもするし、カミサンと御夫妻の奥さんが似ているかと言えばそうでもないし、なんとなく似ているところも強いて挙げれば無くもない、くらいな…。

世界には自分とソックリな人が3人いる(だったっけ?)というようなことがよく言われますが、いわば「掛け合わせの妙」とでも言うべき現象によって、とてもよく似た造形が出来上がるという、人間という生物の、偶然にしてナンとも不思議な話だな~と感動していたのでした。

「かがく、じゃなくて、かんかく」(その4)

(その4)

(その3)で紹介させて頂いた『皮膚感覚と人間のこころ』によれば、「感覚」と「知覚」の違いは、環境因子による局所的な反応が「感覚」、脳が感覚器からの情報を認識することを「知覚」と定義されている(ニコラス・ハンフリー博士『喪失と獲得』)ようですが、猫を見ていると、殆ど感覚だけで生きているんじゃないかという気がしてきます。

猫を見て「あー私も猫になりたい」という方の発言は、「私は感覚的に生きたい」とついつい翻訳してしまうのですが(笑)、少し前に取り上げられていた猫の話を最後のオマケに。この猫は一体何を感じ取っているのだろうかと、不思議です。

人間の死期を予測する猫、「オスカー」についての考察


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