ものづくりは愛である -2ページ目

「かがく、じゃなくて、かんかく」(その3)

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(その3)

もう3月で修了しましたが、運営に関わっていた東京デザイン塾の講義の中で、今年の1月に工業デザイナーの秋岡芳夫さんと共に活躍されていた山口泰子さんを講師に招いた時の話。

秋岡さんは打合せ中も常にナイフを手にし、木片や竹を削ってかたちを作っていて「手で考える人」だと山口さんは思ったそうです。その講義の中で『皮膚感覚と人間のこころ』傳田光洋(新潮選書)という本を紹介して頂き、これを読んだら秋岡さんのことがとてもよく分かったと言われました。

環境の変化を受容するシステムとしての皮膚を考えた時に、単細胞から多細胞へと進化していく中で複雑化し、原生動物でさえも感覚器を身体の表面に備え始めます。やがて感覚器が神経になり、神経網の一部が脳になったと考えられることから、脳ができる前には生物は体表で音や光を感じていた(p.43-44抜粋)、とあります。

脳科学がもてはやされ、様々なことが脳に還元されてしまうかのような昨今ですが、皮膚で感じることの方が「先」であるというくだりには、思わずガッテン・ボタンを何度も押してしまいました。

他にも、皮膚とこころの関係や物理的な身体の表皮としての防衛機能、皮膚が聴覚や視覚さえも持ち得るという話(!)、皮膚装飾の文化論、果ては自己意識を形成するのも皮膚ではないかという、心身二元論を解体する(!)話まで、興味深い話が並びます。

「生理学的には、例えば感覚の固定化、つまり神経細胞のネットワークにおいて変化しないように処理された記憶が、自己意識の本質ではないでしょうか」(p.132)

ま、ここだけピンポイントで取り出しても…ですが、かんかくの話を逆にかがく的に捉えた本として非常に面白かったので、この流れで紹介したかったのです。

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全身を使って絵を描く時の皮膚感覚!(撮れたて画像)



「かがく、じゃなくて、かんかく」(その2)

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(その2)

昨秋、娘がクラスで「生き物係」になり「いきものがかり新聞」を毎月発行することになったと話してくれました。その新聞をパソコンで(Wordか何かで)つくると言い出したので、それはちょっとどうなんだろうと話し合いになりました。

ちょうど(その1)のように私自身、漢字をトリモロスために手書きを始めたこともあり、覚える段階にある君たちが何故進んで忘却しようとしているのだ!などとは言いませんでしたが(笑)、やはりクラス新聞は手書きの方がいいのではと。

パソコンの基本的な操作を覚えるとか、将来使えるようにWordやExcelなどに慣れておくというのはありますが、それはそれで覚えればいい。また、そもそも何故親が操作を教えてクラス新聞を手伝うのか、というのもありました。

さらに一番大事だと思うのが、Wordなどでつくった新聞が写真を貼ったりカラーを使ったりして一見キレイに見えるのですが、何だか画一的で面白くないのです。3Dレンダリングした建築のCGパースが、皆同じに見えてしまうように。

やはり手書きの方が絵も自由に描けるし、ちょっとした装飾なども出来るし、たとえ字がひん曲がっていようが、その子の個性が丸出しになる所が面白いワケです。個性なんて出そうとしなくても自然と出てしまうもの。

この冬の大雪の時に、小学校では雪合戦を「危ないから」やらせてもらえなかったらしく、そのことにも驚愕でしたが、マウスやキーボードやタッチパネルを介さず、アナログ的にリアルに世界を「体感」すること、それが小学校時代に一番やるべきことなのではないか、とさえ思うのです。

いや、大人も同様。ジョブズが残していったパソコンやスマホによって、確かに世界は変わったけれど、人間の感覚としてはこれでホントに良かったのだろうかと。「書を捨てよ、町へ出よう」ではないですが、「スマホを捨てよ、町へ出よう」的な、寺山修司な気分なのです。

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願わくば、田んぼへダイブ!するくらいの世界を体感出来れば!(撮れたて画像)

「かがく、じゃなくて、かんかく」(その1)

昨年末最後に、来年(つまり今年)のテーマは「かがく、じゃなくて、かんかく」とつぶやいたんですが、そのことに関連した話についてモロモロと、ダラダラと。

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(その1)

昨秋逝去した父。その介護をしながら父の身体に触れた時、そういえば握手や髭剃りはしていましたが身体に触れることはなかなか無かったなと。そして、もうたぶんこれが父に触れる最期になるであろうことへの予感を孕みながら、そのリアルな感覚を大事にしようと思いました。その時の感覚や出来事を備忘録として、亡くなる3ヶ月前くらいから「父との時間」としてメモしていました。

最近ひどく漢字を思い出せなくなってきていて、年のせいにしたり、スマホやパソコンのせいにしたり。そこで、漢字を体感的に取り戻すために、9月の初め頃から「父との時間」をノートに手書きし始めました。さすがにメール等はダイレクトに打込みますが、業務日報やちょっとしたメモやスタディなどを全て手書きにしたところ、ズルズルと言葉が引き出されてくるような感覚になることもしばしば。(evernoteで検索することは出来ないけれど・笑)

未だに思い出せない時は辞書やパソコンで探したりして、娘の漢字の書き取り同様、ノートにあらためて書き直すようなことを続けています。もう忘却との戦いです。(おおげさ)

小学校3年生くらいから学校で習う漢字の数がグンと増え、書き取りの宿題に「ひーひー」言っていた娘を見ていて、小3から小4、小5くらいまでが身体の成長と共に脳もすごく発達するのだろうなと思いました。その時期に基礎学力としての漢字や九九といったものを「詰め込む」ことを文科省は義務化しているワケですね。

自分の小学校時代を思い返してみても、相当漢字練習を(上手く乗せられて)やらされていたなと思います。その頃覚えたことって、山手線一周の駅名とか、手旗信号とか、ルービックキューブとか(笑)いまだに忘れないですもんね。ま、それはいいとして。

要は、漢字というのは体感的に覚えてきたのだろうから、体感的に手書きすることで思い出すのではないかと思い至ったのです。(実際は果てしなき戦いですが…)

『里山資本主義』→田植えへGO!(無理矢理)

里山を「手入れ」することで、川下→海への循環が良くなるという話は小学校の教科書にも載っていますが、数年前に奥多摩へ東京の林業の実態を見学に行った時には、現実的な問題が山積みでした。

人件費の高騰や安い洋材の普及に伴いますます林業が衰退し、山が荒れてきているという話を聞く一方で、その林業を建て直そうと山に入る人や流通の末端から東京の木を使って住宅を造ろうという頑張っている人達もいるということに、微かながらも希望を感じたりしていました。

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先日、叔母が「読んでみれば」と置いていった『里山資本主義』という本をパラパラとめくってみてました。

『里山資本主義』では、3年前の震災以降のエネルギー問題に絡めて、バイオマス産業の創出によって林業を立て直し経済的自立を進めている地方都市(岡山県真庭市)や、オーストリアにおける先端事例などを紹介したり、過疎であること・何もないことを逆手に取った地方独自のアイデアで都市部の人々を惹きつけ、里山の活性化をしている事例などが紹介されていて、まだまだ発想の転換をしていく余地があるんだなぁと思わされたり。

特に森を資源とするからには、乱伐御法度、50年~100年先を見越して管理していくことが必要で、オーストリアではその「持続可能性」にも対応できていることが印象的でした。

最近よく話に聞くCLT(Cross Laminated Timber)という集成材を使った木造の高層建築化についても紹介されていたけれど、うーむ、あまり触手が伸びません。鉄筋コンクリートに変わる素材として集成材に置き換えられても…。木という素材の特性を突き詰め、温熱環境を含めた木造ならではの空間のあり方を探るという方がむしろ、興味ありですね。

また、ゼネコンや電機メーカーなど蒼々たる企業の参加している「スマートシティ」構想が「企業版・里山資本主義」であり、21世紀は「里山資本主義」と「スマートシティ」の両輪で現代日本の様々な問題を解決していく、という話は、先の見えない現在において一つのビジョンを示してはいるものの、かなり楽観的過ぎるのではないだろうかと。

でもこれくらいのビジョンがないと世の中つまらないので、多少なりともバランスの取れた(裏を返せば当たり障りのない)希望を提供してくれるという点で、良いのでしょうね。(本として売れるのでしょうね>辛口)

それでも、全体的に読んでいて林業や地方活性化において元気の出る事例が多かったので、自分も動かなきゃーと思わされる本でした。

なので、今週末5/4、千葉鴨川の里山で田植えをしてきます。(>全く関係ないけどw)
8年目に入りますが、まだまだ。今年はもっと突っ込んで、地元の人から教わりたいと思っています。

田植え→稲刈り体験したい方、いつでもウェルカムですので御連絡下さい!
気持ち良いですよ~

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「自己表現」なく、「表現」あるのみ

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先週の土曜日、中野のテルプシコールで行われた加藤啓×千野秀一《人形サーカス》を観て来ましたが、これはやばかったです。何がやばかったって、もうやばいのなんのって>お前はボキャブラリーの乏しい若いヤツラか?

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流木などから創られた、大・小の人・動物など様々な表情を持った人形たちを、加藤さんが順番に生命を吹き込むかのように登場させ、そこに千野さんのオルガン、ピアノなどが被さってきます。

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パントマイムのように言葉はなく、その繊細な動きで見る側にストーリーを想像させるという即興パフォーマンス。創造された人や動物が観客を果てしない想像へと巻き込み、音と共に空間全体で創造へと好循環していくかのようなステージは、素晴らしかったです。

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吹き込まれた生命が宿るその人形たちの姿・動きが何とも言えない哀愁さえ漂うほどで、自分の感情の奥底にいつしか沈んでしまっていたスイッチを押され、揺さぶられるようでした。

加藤さんが生命を吹き込むことによって、彼の表現になる。
至極あたりまえのことだけれど、「表現」とはその人そのものに他ならない。つまり「自己表現」という言葉はdouble meaningであり、馬から落馬するようなものだ(ホントか?)、ただただ「表現」があるのみだ、ということに思い至った、美しい夜でした。

子供にお金の使い方を教えるのは結構難儀だ

そのうちいつかは来るとは思っていたが、今度小学校4年になる娘が「3DS欲しい、買っちゃダメ?」と聞いてきたので、妻も私も「宿題から生活まで、自分のことがチャンと出来るようになってからだね」とまずは賛成しなかった。

とりあえず頭ごなしに反対するのもナンなので「なぜ欲しいの?何がやりたいの?」と聞くと、友達がみんな持っているし、「どうぶつの森」や「コナン」をCMでやっていて欲しくなったからだという。まぁ、CMというのはそういうもので、繰り返し見せて感覚を麻痺させ「欲しく」させておいて、君たちから金をふんだくろうとしているんだよ、君はそのワナにまんまと嵌ろうとしているのだよ、ハッハッハッ!と説明してみたものの、あまり納得していない様子。

じゃあ3DSやっている子の生活がどうなってるか知ってるでしょ?夜遅くまでゲームしていて朝起きられない、授業にも身が入らない、何も良いことがない、というより学校で問題にさえなっているのは知ってるでしょ?あなただって、一緒に遊んでいる友達が3DSばっかりやっていて面白くないと言ってたんじゃなかったっけ?と言うと、頭では理解出来ていても、まだ「欲しい」に傾いていて、自分のお金、お年玉で買うから、という。

それに対し、妻が援護射撃で「ソフトも買わなければならないし、オンラインで課金されたりして知らない間にどんどんハマっていくのよ」と脅しにかかった。ゲームには中毒性があるということを理解してやっているのと、それが分からないでハマっていくのとでは、雲泥の差、あなたはそれさえも分かっていないからまだ早い。

まぁ父と母による総攻撃を受け、自分の提案が受け入れられなかったことに、娘は納得がいかずにご立腹の様子。その場はひとまず時間切れ。私はシャワーを浴びに行き、3DSの否定よりもお金の使い方の話をした方がいいかもしれないと思い立ち、自分がお金を使う時のことを検証してみる。シャワーから出てきて娘に、私が普段お金を何のために使っているかを話す。

一番目には生きるためや生活するために必要なものに使う。食べることや電気ガス水道や家賃、保険、税金など。
二番目には感性を高めるために使う。アートや音楽、ライブ、映画、舞台など。あなたの音楽の習い事にも、それが感性を高めるならば、喜んで使う。

この前ライブに行った帰りに、みんなで立ち寄った雑貨屋さんで、私が買ってあげたバードコール。あれは、鳥好きで鳴き真似が得意なあなたの感性にとって、とても良いモノじゃないかと思ったから買ったの。自然の木を使っていたし、鳴らしたらとても綺麗な音がしたからね。

あなたもこの前自分のお年玉で動物造形作家さんの作品を迷い無く買った時に、私は素晴らしい使い方をした!と褒めたよね。そういう使い方の方が3DSを買うよりも良いと思うなぁ。

お金の方も、気持ちの良い使い方をされれば、またこの人の所に戻って来ようと思うんだよ。汚い使い方をすると、なかなか戻って来ない。そうやって血が身体を巡るように、お金はこの世の中をまわっているのね。

さて、ここまで言って娘は納得したのか煙に巻かれたのかは分からないが、話は一応終わった。

その後も、お金の使い方について考えていて、そういえば三番目に「嗜好のために使う」というのもあるなとも思ったけれど、そしたら「3DSも私の嗜好である」と言われたらおしまいなので、黙っておくことにした。

土との対話

遅ればせながら、今年もよろしくお願いします~

東京デザイン塾の第11講座は、自然素材について学んできていまして、総論、土、漆、和紙、と4回を終えて、明後日14日にも第5回が開催されます。

第2回に招待講師をされた原田左官工業さんの作業所@千駄木で、昨日土壁の左官塗りを体験させて頂きました。これがまた最初は難しいけれど、コツが掴めてくると面白くなってくるという、とても楽しい作業。(でも現在筋肉痛…)

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1畳ほどの面積を塗り上げるのに四苦八苦しながら20~30分くらいかかったかどうか。左官職人の見習いは、これを3分で仕上げるとのこと。恐れ入谷の鬼子母神。

座学もあり、左官の歴史や、西洋と日本の違い、その建築構造の違いから鏝(こて)の形の違いに至るまでも興味深くお聞きしました。日本の建築は軸組が構造として主であるために、左官がむしろ装飾的に発展してきたのですね。確かにプラスターだけでなく、デコレーターの要素も入っています。

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現在のような流通が発達する以前はその地方の土をその場で使ってきたために、土壁の色がその土地の色になっていたわけでして、まさに「土着的」という言葉が示すとおりの建築文化。

でも実際の現場では、湿式→乾式へと簡略化することによって省力化、ローコスト化が進んできているのも事実で、最盛期は30万人いた左官職人も現在は7万人くらい、高年齢化も進んでいるとのこと。それでも、土壁や左官の意匠的な自由度はアイデア次第でその幅は無限に広がります。

現在では調湿効果はもちろんのこと、遮熱効果なども見直されてきていて、自然素材としてもまだまだその可能性は、はかりしれません。

地下60mの世界

都内某所、知人が監理をしているドボクの現場で「一番下まで行ってみる?」というので、急遽おとなの社会科見学へ。

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1階から地下11階へ、というエレベーターなんて、生まれて初めて見ましたよ。

地下60mの世界は1.95m角(!)の柱が並び、外壁(地中壁)の厚さはナント2.5m。えーと、この前竣工した狭小住宅の壁が、芯々2.5mだったんですが…(涙目)

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なに記念写真撮ってんねんw

ドボクの世界は、何事においてもスケールアウトしてますね。これが何のための施設かと聞くだけでバカらしくなるワケでして。

都市生活を成り立たせるためのインフラストラクチャーであると言ってしまえばそれまでなのですが、壮大なる無駄(ゴメンなさい、でも無駄だもんw)を生産し続ける人間の業について、大きな施設の中でちっぽけな人間が考えていたのでございます。

雄勝出張食堂の話(その3)

飲み過ぎて、前夜打合せしたはずなのに、皆さんすでに予定より30分以上遅く起きるという朝を迎え、いきなりドタバタ。2日目は雄勝の森林公園仮設住宅へ。

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それぞれの持ち場で、仕込みに入りました。それでも、ちゃんと時間に間に合わせる(ちょっと遅れたかな?w)という素晴らしい動き。

以下、美味しそうな(ホントに美味しかった!)画像をどうぞ。

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ここでも、なるべく一緒のテーブルについて、膝を交えて話をしようという方針でいきました。

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でも、ここの仮設の方々も、ホントに明るく屈託無く接して頂いて、最後にはカラオケとかw
なんだか、女性の強さをヒシヒシと感じながら、海を生活の糧とする海洋系の母系社会が脈々と息づいているのかな、などと妄想していたのでした。

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最後に皆さんでパチリ!

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北上川の夕日

そんなこんなで15時半に撤収して、いざ東京へ。途中渋滞に巻き込まれそうになりながらも回避して、22時くらいに解散となりました。

今回の雄勝行きは、あらためて貴重な経験だったと思います。
初めて「ほんまちネットワーク」に参加させて頂いて、彼らが今まで築いてきた現地との関係や、参加出来なかったけれど様々な物資を提供して頂いた東京にいても現地のことを思う方々や、いろんな人たちの思いが渦巻いていたことを感じることが出来ただけでも、とても良かったと思います。

本当に、お疲れさまでした!

雄勝出張食堂の話(その2)

一級建築士による住宅あれこれ相談とはいえ、実際は殆どお話をお聞きするだけで、高台移転などの計画がどれくらい進んでいるのかを私自身知りたいと思っていたのでした。

数名の方とお話しすることが出来、ここの仮設に住まわれている方々は、集団移転の敷地計画も決まってきていて、約8割の高齢の方は公営住宅(戸建)、残りの比較的若い(とはいえ、50代くらい?)は自力再建することがようやく決まったとのことでした。

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公営住宅に入居予定の方は、役所から間取りまで提示されていました。(写真撮れなかった…)

「敷地の関係から部屋が一つ北側になるというんだけども、部屋は当然南側という家に住んできたから、納得いかなくて…」という方の話を聞いていた時に、なるほど…と思うと同時に、この地域に昔から造られてきた住宅が、当たり前のようにその風土を取り入れて成り立っていたのだなと思ったのでした。

たとえ公営でもそういう意見はどんどん出して言った方がいいですよ、と言うと、なかなか反映されないんだ、とのお言葉。うーむ…。

他にも、今住んでいる仮設住宅で結露が多くて…という女性の話があり、冬場の結露かと思いきや夏場に収納の裏側が結露するとのこと。あらためて仮設住宅の配置を見に行ったら、風通しが殆ど無いような配置と、出入口付近にも物が積まれていてその設え自体に問題があるなと思いました。

結局、この問題についてはその場では結論が出なかったので、自分の中では次回夏前に行ければその時までに解決策を持っていきたいなと。(水とりゾウさんか?w)

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自力再建にしろ公営住宅にしろ、実際どういう建物になるのか、そのスペックまでの情報はありませんでしたが、立て看板には寒い建て売り住宅の広告もアリ…うーむ…。

それでも、来春までに敷地の造成が終わり、再来春までには入居という工程とのこと。それでも、それでも…あと1年半先に、ようやく仮設住宅から出られるという見通しが出てきている明るさが、皆さんの表情にも感じられました。

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そんなこんなで、あれこれいろんなお話しを聞かせて頂きながら、お母さん方が漁の網を染めて作ったミサンガに驚き、その販路の開拓をみんなであれやこれや話をして、初日は終わったのでした。

夕方までに撤収し、再び上品の郷まで行って温泉に浸かって疲れをとり、泊まらせて頂くところまで睡魔と戦いながら運転し、飲みながら反省会をし、半分意識が飛び、結局何が何だかよくわらかないままシュラフに滑り込んで爆睡、というとてつもなく長い一日でした。

(つづく)