能登半島へ行った帰りに、もう二度とこの地を訪れルことは無いと思い、予定を変えて寄ることにしました。               訪問日;2026.5.13    晴れ

   縄張図は、『中世城郭事典 Ⅱ』より借用し、説明のため加筆しています

 七尾城には、4回目の訪城になりますか?2回目(2010年)の訪城記録として「七尾城ー城歴についてその弐その参」を載せています。そして、3回目(2015年)に本丸南の上巾40m、深さ25mの大堀切を隔ててある長屋敷に行ってみたいと思っていましたが、城友のえいきさんが行かれた情報をいただき訪れてみまして、その訪城記録として「七尾城長屋敷支群」を乗せています。

 今回は、珠洲市からの帰りであまり時間が無いので、桜馬場北斜面の段石垣等の本丸周辺が地震でどうなっているのか見たいと思って訪れました。

 大堀切

 駐車場から調度丸に向かう道 この辺に木戸が設けられていたのではないかと思います。

 調度丸に入ると、左手に七尾城の見せ場の一つである段石垣が見え的ます。

 右手は、大手道の虎口郭で大手道の案内標識があります。ですが、大手道は残念ですが、立入禁止となっています。まだ、整備が終わっていないのでしよう。

 上の段の桜馬場に登る大手道で、数段に重なる段石垣で、高石垣が築けない前の普請です。野面積みの石積みがきれいに見れました。地震で一部が崩落したと聞いていましたが、きれいに直されていました。

 主郭群の郭の一つで、本丸西側にあります。守護代遊佐氏の屋敷跡と伝わります。

 遊佐屋敷西側の桜馬場の南東端から本丸西方に突き出した枡形虎口・馬出の小郭に至る道がありますが、こちらから行こうとしましたら、立入り禁止の札が掛かり行けませんでした。この虎口は、本丸大手虎口で当城の見せ場の一つでしたが、残念至極でした。

 遊佐屋敷から本丸への道

 算木積みが、まだ未完成の形になっていますが、これも良いですね。

 本丸大手虎口で、ここからも立入禁止でした。したがだめなら上からと思いましたが、残念。ここは、手前に木戸があり、奥に石塁の食違い虎口で、ここと木戸の間の空間が兵溜りで馬出と言えそうです。織田系の城によく見られ目構造だと思います。前田の関与が考えられます。

 本丸からの長屋敷 木々が茂りまったくわかりませんがなー!

 

下の博物館から歩いてこられた方のお話ですと、一部迂回するが上れると。地震で多子葉の被害を受けてはいますが、まず見事な石垣や虎口など見られますので、機会を見つけて、今しか見られない七尾城や能登の姿を見に行っていただきたいと思います。

 

 中久喜城は、小山市中久喜字城之地にある比高5mの平城です。平成3年に祇園城と鷲城が小山氏城跡として国指定を受けた後、平成13年に中久喜城が追加指定を受けています。                      訪城日:2026.3.16  晴れ

 城址へは、鷲城から行きましたので、鷲城をでたところの国50線の神鳥谷交差点を東に進み、約4.5km先の小田林(西)交差点を左折して国4号線に入ります。次の小田林(北)信号で、左折して約500m進む途中に城址案内板がありますので、左折して

案内標識に従いますと城碑と案内場の所につきます。駐車場はありませんが、農道の端に止められます。

 城の場所はわかりましたが、国4号線からは入ることは分かっていましたが、4号からの細い農道に入り込みあっちこっちと走り回りましたが、ようやっと上記の道を見附ほっとした次第でした。(💦

 城は、西仁連川と谷戸川に挟まれた台地の先端部にあり、周囲は現在でも田んぽに囲まれてilいる低湿地です。

 城のほぼ中央部にJR水戸線が走り、二分されています。遺構の残る主郭に行くには、城碑のあるところから東に約100mほど行き、水戸線の踏切を渡ります。

 遺構は、主郭のみと言えます。

 主郭で、南側に虎口が設けられています。とても広い主郭で、周囲を土塁で囲まれていたようです。鷲城や祇園城も広い郭があり、この三城とも戦国後期まで利用されていたようですが、基本形は小山義政時代の城造りの形がそのまま受け継がれてきたのでしょう。

 主郭南の虎口で、現在は破壊されて平虎口のようになっていますが、枡形虎口の可能性高いと思われます。

 

 主郭を出て東側は、土塁が主郭に沿って設けられています。その間は空堀だったのではないかと思われます。西側は主郭が湾曲にまがっていますが、その外側に土塁はありません。

 主郭東側の二重土塁の外側です。

 城碑・説明板の後ろにある空堀です。

 線路の北側に西郭と三郭があったと推定されるようですが、宅地や畑地になり遺構はなく、確定できない。

 

参考文献

『鷲城・祇園城・中久喜城』 鷲城・祇園城跡の保存を考える会 ずいそうしゃ新書

『関東の名城を歩く北関東編』 峰岸純夫・齋藤慎一編 吉川弘文館

『図説栃木の城郭』 余湖浩一・渡邉昌樹編 国書刊行会

 鷲城は、 小山市外城にある比高20m程の平山城です。鷲城は、平成3年に祇園城城と共に小山氏城跡として国指定を受け、さらに平成13年に中久喜城が追加指定を受けています。以前から行けそうで行けていない城址で,今回佐野にラーメンを食べに行くことになり、ついでに近くの鷲城・祇園城・中久喜城を訪れ見ました、   訪城日:2026.3.16 晴れ

 城址へは、小山御殿公園から国4号線を南に約1.7km(国50線神鳥谷交差点の先)を右折して350m先で右折して少し進むと鷲神社鳥居が見えます。鳥居前に駐車できます。

 城址東側にある鷲神社の入口の鳥居です。中城(主郭)の東の虎口のようです。

 左手の灯籠の後ろにある説明板です。城の説明し縄張図かあり、わかりやすい説明板と思われます。

 鷲神社の参道が、中城のほぼ真ん中を通っています。 中城は、東西約200m、南北約150mほ土と広大な郭です。左手に木々に茂っていますが、南の外城と区切る土塁があるようです。

 鷲神社

 神社の南側に踏み跡のある道があり、窪地に降りていきました。虎口の看板があり、西虎口のようです。

 西虎口周辺に見られる、土塁と堀です。土塁は、基底部は約30m、高さ5~6m程の規模のようです。かなりの規模で、『関東の名城を歩く 北関東編』で当城を担当した、市村高男氏は「現存する鷲城の遺構がそのまま小山義政の乱の時代にそかのぼるのではなさそうである。」「内城・外城の間にある巨大な土塁・空堀といい、内城の西側ののこりの良い虎口といい、戦国時代の改修と考えざるを得ないであろう。」と。天正4年に小山氏を下した北条氏照が城を接収氏、手を入れた可能性が考えられます。

 

 外城は、宅地になって入るため遺構は見られません。

 

参考文献

『関東の名城を歩く 北関東編』 峰岸純夫・齋藤慎一編 吉川弘文館

 祇園城は、小山市城山町にある比高15mの平山城です。別名小山城と呼ばれ、平成3年に鷲城と共に小山氏城跡として国指定を受け、さらに平成13年に中久喜城が追加指定を受けています。この三城については、30年も前に出版されている『鷲城・祇園城・中久喜城』(1995年)を持っていまして、以前から気になっていたと思われましたが、栃木に向かうとついつい宇都宮周辺から那須方面に向かっていましたので、行きそびれていました。今回、佐野ラーメンを食べにいこと言うことになり近くの小山の三城も行けるかな~と言うことで訪れてみました。  訪城日:2026.3.16 晴れ

 『鷲城・祇園城・中久喜城』所収の周辺図

 城址へは、東北道佐野藤岡ICから国50号線を東進し、思川を渡った先の神取谷信号を左折して国4号線に入り、1.5km先の信号(市役所先)を左折して250m先の信号を右折して進み、城址駐車場の案内に沿って進んでください。

城歴 

 祇園城の築城時期や築城主体は、不明です。ただ、武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田政光が、平安時代末期に小山に移住して小山氏を名乗りこの地に城を築いたと言う伝承が残っています。

 当城の初見史料としては、康暦2年(1480)から永徳2年(1582)かけて起こった小山義政の乱で小山勢の拠点として見えます。小山義政の乱で拠点城として名があげられているのは、鷲城・岩壷城・新城・祇園城・宿城の五カ所で、鷲城がこの乱の時期の小山氏の本城であったようです。第2次小山義政の乱で降伏した義政が、鷲城から祇園城に移っていますので、祇園城は副次的拠点城であったのでしよう。

 義政の乱で、小山氏直系は滅びましたが、鎌倉公方足利氏満の命で同族の結城基光の次男泰朝が小山氏を再興して、祇園城に入り結城氏流小山氏の代々の本城となりました。以後,結城氏の庇護下で小山領を治めていましたが、応永6年(1399)鎌倉公方足利満兼が就任するに際し、定められた関東八屋形の一家として小山氏も列した。

 永享12年(1440)~嘉吉元年(1441)の結城合戦で小山氏は、勝利した幕府側につき没落した結城氏から自立し定期ます。15世紀後半から16世紀前半に最盛期を迎え戦国小山氏は、現在見られる城域にまで拡大整備していったと思われ。

 天正3年(1575)北関東侵攻を進める北条氏に祇園城に攻められ落城ます。北条氏は、城の大改修を加え、現在見られる遺構の姿になったと思われます。その後、小山氏が城主に復帰しますが、小田原合戦で北条氏方に加勢したため領地没収となり没落しました。その後、当城は、結城秀康の管轄下になり、慶長6年(1601)秀康の越前転封により本多正純が入封し、小山御殿が整備されました。

 元和5年(1619)本多正純の宇都宮転封により廃城となりました。

 駐車場を出て階段を降りると幅広の通路があり、左手に堀に架かる橋が見えていました。駐車場が城址の何処なのがわかりませんでしたので、駐車場向いが塚田郭で通路が横堀であることがわかったのが,あとからでした。いやぁ~まだまだ修行がたりんと思った次第です。

 帰り際に寄った塚田郭と堀切ウですが、見学の際はこちらが先になりますかなと思い、先に乗せておきます。

 塚田郭で、横堀の西側にあり、小山氏一族の塚田氏が配置されていることがこの名があるようです。郭の広さは中央部に横堀があるので、主郭・2郭と比べて格段小さいです。東の郭は現在駐車場になっていますが、かって老人福祉センターが建てられ削られてしまったため遺構は残っていません。

 塚田郭の北東部には、一段高く土塁が盛られ北側に突き出しています。櫓台と考えられ横矢掛かりで、北郭の馬出に掛かる通路(橋か土橋)を狙い撃ちする役目を持ったところと思われます。

 堀切ウです。自然地形を利用した広めの空堀があります。北郭は、事前調査が不十分で見ていませんが、ここにも馬出があるようです。残念なことをしてしまいました。

では、堀切イから2郭へ

 堀切イに架かる橋からの西側と東側で、橋は2郭から撮ったものです。自然の谷を利用した堀切で、深さ10m以上・上巾20mといった途方もないもので、長野であまたな堀切を見ていますが、これほどのものは北信の仙当城に匹敵するものでした。

 2郭を南東橋から撮ったものです。広大な郭でほぼ100m四方の規模です。

 南西に、深さ6m、幅10mのL字状の空堀に囲まれた平場(馬出)があり、現在は

橋が掛かっています。

 平場(馬出)です。

 『中世城郭事典Ⅰ』では、「行き止まりの曲輪」としています。「行き止まりの曲輪」とは、「防御専用の曲輪で、侵入する敵を横合いから攻撃するためのもの」(『鷲城・祇園城・中久喜城』)と説明されます。

 図にするとこんな感じですか。平場が、武者だまりという感じになりますか。これですと平場は、馬出としては考えにくいです。

 馬出とするとこんな感じになります。

 馬出と考えると、この馬出は主郭に準ずる馬出となるので、橋を架けるならばもう少し西よりに掛け馬出に兵が進めるか、あるいは川沿いに堀底におり土橋を渡って平場に入ることになります。

 平場を「行き止まりの曲輪』と考えるか,あるいは「馬出」と考えるかとすると、「馬出」とする方が、防御力としては優れているのではないかと考えます。

 堀切アで、上巾20m,深さ10m以上ある大規模なもので、現在は道路になっています。

 現在、主郭弐架かる橋の出入り口で一応虎口と言えます。左右に土塁が設けられており、特に東側の土塁は高3mほどありよく残っています。

 主郭で、長軸100mほどの広大な郭です。公園化で周囲の土塁は残るが内部はきれいに整備され、城としての遺構は残っていません。

 

小山御殿

 主郭を見た後、道路を隔てた小山御殿に向かいました。

 小山御殿は、徳川将軍家の日光社参の際の休憩・宿泊所としても受けられました。関ヶ原の戦井の前、上杉景勝討伐の最中に石田三成挙兵を聞いて東軍の去就を決めた天下分け目のターニングポイントとなった小山評定が行われた場所でした。説明板より

 小山御殿公園として、広場になっています。遺構が残るのは、北側の土塁です。広場からは、こんもりと盛り上がっていますが、北側の外から見るとかなりの高さが見とれます。

 櫓台と思われ、堀がL字状の堀があり、虎口だったのではないかと思われます。北条氏時代のものなのかもしれません。

 

 公園化で駐車場やトイレなどが整備され見やすいです。大規模な堀切(空堀)や馬出などよく残っていますので、見応えのある城址だと思われます。

 

参考文献

『鷲城・祇園城・中久喜城』 鷲城・祇園城跡の保存を考える会 ずいそうしゃ新書

『中世城郭事典Ⅰ』 村田修三編 新人物往来社

『関東の名城を歩く北関東編』 峰岸純夫・齋藤慎一編 吉川弘文館

『図説栃木の城郭』 余湖浩一・渡邉昌樹編 国書刊行会

 長野に行く所用があり、この時期では関越周りがいつものコースになりますが、今回は雪道や道路の凍結もないことから、以前(2022年7月)道路工事のため通行止めで訪れることができませんでした、南伊那にある熊谷氏坂部館を訪れてみようと思い、浜松から奥三河を通るコースで向かいました。

  この熊谷氏坂部館に訪れる計画は、2回目です。前回は、新東名浜松いなさJCTから国474号線(三遠南信自動車道)に入り、佐久間川合ICで降り県道1号線を行けば最短距離で行けるかと思って行きました。が、この県道1号線は、正式名が長野県道・愛知県道・静岡県道1号飯田富山佐久間線とやたらに長いです。後で知りましたが「険道1号」とも呼ばれる道路でした。車1台がようやっと通れる道幅で、カーブがうねりくれるほどで対向車を気にしながらのヒヤヒヤの運転でした。たまたまなのか、対向車には遭遇しませんでしたのでよかったです。

 そんな道を約28kmほど行った鷹巣橋(橋を渡ると大嵐駅)につきましたが、なんと「終日通行止』の立看板でした。熊谷氏坂部館のある坂部までは、あと7kmでしたが、迂回していくと仮名力寄りのたる断念いたしました。

 

 今回は、国151号線を阿南町新野まで行き、国481号線を通り天竜川に出て南下するコースを考えていました。しかし、このコースも約5km先の「おきよめの湯」まで鹿行けない。土砂崩れの復旧工事で通行止めと相成っていました。

 まぁ~、2回もこうなると、3回目を目指すしかないのかな、と。

 

 熊谷氏坂部館を知ったのは、吉田ゆり子著『兵と農の分離』を読んだ中に出てきた家です。『兵農分離」は、戦国時代末から江戸時代にかけて進行した社会現象です。が、吉田氏は、『これまでの説明では、結果として実現された兵農分離の体制を述べていても、その歴史的過程を解明しているとはいえない。」として「どのような人びとが武士になったのか、それを生み出していた母体はなにか。他方、武士と百姓とはどこで分けられたのか、。武士ではなくて百姓となることを選んだのはなぜか。」を探る中で、この坂部熊谷氏が出てきています。吉田氏は坂部熊谷氏について「武士として功名をあげるより、従軍を拒否し、みずからの開発地と家を守り続けた家』と紹介しています。

 また、この坂部館については、信濃の山城をあまた紹介してる宮武武雄氏も縄張図を付けて、この館が「堀や土塁を設けなくとも近づくことのできない要害の地にある」と説明しています。この要害の地を一度見たいと。

 

まぁ~、こんなことで熊谷氏坂部館を訪れてみようと思っていました。が、2回もふられてしまいました。

 

参考文献

『兵と農の分離』 吉田ゆり子躇 山川出版社

『信濃の山城と館 6 諏訪・下伊那編』 宮坂武男著 戎光祥出版

 

 湯村城は、甲府市湯村3三丁目にある比高160mの山城です。近くにある武田氏館(躑躅ヶ崎館)へは何度も訪れていますが、湯村城には行きそびれていましたが、湯村温泉に行くついでに訪れてみました。         訪城日:2026.2.2   晴れ

 城址へは、甲府駅北口から武田氏館へ行く県道31号を少し北に向かい、県道6号と交差する武田信号を左折して約1.3km先の総合グランド入口信号で、右折して緑ヶ丘スポーツ公園の体育館の駐車場を目指します。東奥のトイレの裏手から山側に入る道を進むと城址への表示板があります。そこから緩やかに登る舗装道を約1.2km歩くと主郭にたどり着きます。途中にトイレがあります。スポーツ公園駐車場上の登城口

城歴

『高白斎記』に大永3年(1523)四月「廿四日湯ノ島ノ山城御普請初」とあります。普請に「御」があることから、甲斐守護武田信虎が新府中防衛ために整備した城砦群の一つとして築城したものと思われます。

 ただ、上記の『高白斎記』の記述以外の記録が無いため、その後の動向は定かでは降りませんが、西方面の連絡網(烽火)の要として武田三代まで重要な役割を担っていたと思われます。 廃城についても不明です。

登城路(ハイキング)の途中に見られる古墳です。この古墳は、約1300年ほど前に、礫を積み上げて築かれたもので『積石塚』と呼ばれています。甲府盆地北部の山麓部に見られるもので、180基余り確認されるようで、当城のある湯村山には7基あるようです。

 舗装道路でしたが、久しぶりの山城訪問でちっと疲れましたが、ようやっと城の北側にある復元狼煙台に着きました。

 復元狼煙台にある狼煙についての説明板です。

 復元狼煙台の南側の高まりが城址で、道が二手に分かれていますが、城址を周遊する道でどちら側を進んでも元のところに戻るのが後でわかりましたが、右手に道に進みました。

 1・2と郭の北側にある二本の堀切の南側の堀切に堀切に着きます。

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 堀切の土塁から見える3郭で、手前に3郭寄りの堀切が見えます。郭内部は、安山岩の岩が点在していて、郭の体をなしていないです。

 主郭は、主要3郭の中で最大の郭で、整った区画です。虎口が3カ所あり北側には「コ」の字状の枡形虎口が検出されているようです。 

 大手は、2郭南東下に虎口状の小規模な平坦地が見られることから、そこであろうと。

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 主郭下段にある井戸跡です。

 

 今回は、下調べもなく訪れてしまいましたので、虎口や大手筋とうの見落としが多々あり、かなり不十分な訪城になってしまいました。機会があれば、もそっとよく見てみたいとは思いますが、果たしていけるか?ですね。

 

参考文献

『甲信越の名城を歩く 山梨編』 山下孝司・平山優編

『甲斐の山城と館 上』 宮坂武男著 

①では、敵前での籠陣への補給する小荷駄隊を扱いましたが

②では領国に侵攻した敵に向かう際の行軍時の小荷駄隊

 

 天正6年(1578)10月25日

深溝松平家忠は

前日に旗頭の酒井忠次からの陣触があり

浜松に向かいました。

この陣触は、武田勝頼が遠州侵攻がみとめられ

早急な着陣が要求されていたのではないかと思われます

実際

晦日までには勝頼は遠江に侵攻し

11月2日 小山城に陣を構え

翌日 横須賀城を攻めた 後高天神城に退き

17日 島田を攻撃し

25日 田中城を経由して帰国の途についた

 

このような武田勢の動きに

徳川勢は

横須賀城・牧野城等の後詰などの防護体制を取り

家忠も各地を転戦しています

さて、家忠はこの戦いに小荷駄隊を帯同させていたのかです

武田勢の動きに合わせて家忠も動き

行軍し陣を構えたり、城に入ったりしたのでしょう

城に入ればまあ~兵粮や飼葉などは支給されたのかな

行軍・陣構えの際は、

兵粮や煮炊きの燃料、馬の大豆・飼い葉、陣構築の道具等が

必要となるでしょうし、

武田勢がいつ駿河に退くかわからない状況でもありますから

小荷駄隊を組んだものと思われます

戦国期は、原則兵粮自弁でしたから家忠が用意します

敵地ならば、現地略奪という手もありますが

遠江は徳川の領国ですから、それは無理で

深溝から運ぶか商人から買い付けたのでしょう

 

さて、小荷駄隊の運搬量はいかほどになるか

家忠隊の人数と馬の数で

戦闘員の人数は、たまたま家康からの

着到の使者が来て着到を付けています

侍85人、中間126人、槍使3人

装備は、槍(25)鉄砲(15)弓(6)

この人数は、家忠の知行高2500貫目に見合う

軍役に定められた戦闘員の兵力と思われます

侍の中には、馬上侍がおりその数は不明ですが、30~40頭程か

そうすると

非戦闘員の馬の口取り30~40人と従者60~80人ほどがいりますか

合計 304~334人 馬 30~40頭

この人数と馬の1日の食料はいかほどになるかです

人(兵士・人夫) 米6合(約900g)、味噌2勺(約36g)、塩1勺(約18g)

     馬(騎馬・駄馬) 大豆2升(約3kg)  糠2升(約3kg)

             人間:約1kg   馬:約6kg     これが基本量

975g×304人=296.4kg(79貫)

6kg×30頭=180kg(48貫)

合計127貫

小荷駄隊は、人夫(口取り)と馬がセットで

人夫は4貫目 駄馬は25貫目運べたようですが

この時は領国内で味方の城等もあることから

駄馬に積み、行動しやすく軽めにしたのではないかと

駄馬1頭20貫目として6頭に他の荷物運びで4頭

 

家忠隊の1日分を運ぶ小荷駄隊は、人夫10人駄馬10頭

になりますが、この人夫や駄馬も食べますので

人夫9.75kg 駄馬60kg   合せて18.6貫目で

まあ~これは、人夫に運ばせるかな

で、どれほど勝頼が遠江に居座るかわかりませんので

十日分程度の運搬量とする小荷駄隊の編成は

人夫100人と駄馬100頭だったのでは

味方領内での戦いにおける小荷駄隊を推定してきました

 

家忠もこのような度重なる軍役や城普請などの負担が

増える中で、家計が苦しい状況にあったようです

借銭がかさみ、天正12年には徳政令の対象になっいます

家忠のような徳川家で大身の身であっても

このような状況でありました。

「兵粮自弁」の無理がきしんで来ていたと

 

参考文献

『戦国合戦の舞台裏』 盛本昌広著 歴史新書y

『日本近世国家史の研究』 高木昭作著 岩波書店

購入書籍  2026年

 趣味の歴史にいくら散財しているかの覚書です! ★5ー最高ランク ★3ー普通

 ただ、2022年より購入を厳選するようにしており

 かなり興味の湧くものを選んで 購入しています

 

02.25 『新・古代史』 NHKスペシャル取材班 NHK出版新書 ¥1078

03.13 『戦国信濃と小笠原貞慶』 志村平治 戎光祥出版 ¥2420

    『会津蘆名氏』 伊藤喜良 戎光祥出版 ¥2860

05.20 『北条家年表』 黒田基樹編 高志書院 ¥2750

2026年(新訪城 1771~)

                                      訪城数 14    新訪城 9      再訪城 5

 

05.24 福島 会津若松城

05.13 石川 七尾城

05.12 石川 松波城(1779)

05.11 富山 阿尾城

03.24 長野 上田城

03.22 愛知 黒川城(1778)

03.17 群馬 鑁阿寺・新田荘歴史資料館・世良田館(1777)

03.16 栃木 祇園城(1774)鷲城(1775)中久喜城(1776)

02.17 群馬 白井城・仁井谷城(1772)勝保沢城(1773)  伊香保温泉金大夫

01.14 山梨 湯村城(1771)                                                              湯村ホテル

 小荷駄隊を検索しますと以下のように出てきます。

「小荷駄隊は、戦国時代の軍隊において兵糧(食料)、弾薬、設営道具、馬糧(ばりょう)などを輸送・管理する専門部隊です。一般的に農民から徴用された「陣夫(じんぷ)」「夫丸(ぶまる)」と呼ばれる非戦闘員で構成され、軍列の最後尾に位置するのが原則でした。 」

 華々しい戦いの様子などは、それなりに知りえますが、その戦いに関わる兵員の食糧事情について書かれている本などは、あまりと見かけないないです。まあ~あまり面白くもないですから書かれることもないのが当たり前なのでしょうかね。ただ、腹が満たされていなけれは戦いにもなりませんし、逃げ出す兵(足軽など)も出てくるでこともあったようですから、兵粮や軍需物資等の確保は戦国大名や戦国領主にとって悩ましくも重要な課題であったようです。

 小荷駄隊は、どのくらいの量の物資を運んだものなのか。小荷駄隊は、いろいろな物資を運んでいますが、数量としてわかりやすい兵糧(米等)で見積もって見たいと思います。

 戦国時代の軍学や史料から兵士1人当たりの米・味噌・塩の消費量や馬の食料は、推定できるようです。

  人(兵士・人夫) 米6合(約900g)、味噌2勺(約36g)、塩1勺(約18g)

     馬(騎馬・駄馬) 大豆2升(約3kg)  糠2升(約3kg)

             人間:約1kg   馬:約6kg     これが基本量

また、駄馬と人夫の運べる運送量は、駄馬32貫目、人夫4貫目のようで

おおよそ、この辺りが標準的な量と言えるようです。

 

①第4次川中島の戦いでの上杉軍の小荷駄隊

この時の謙信の動きは、永禄4年(1561)8月14日 春日山を出陣し、15日に善光寺に着陣、8月16日に妻女山の陣馬平に布陣した。その後の9月10日早朝に八幡が原で武田勢と激闘した後に善光寺に引き上げたと言うのがおおよその流れです。

謙信軍の兵力は諸説ありますが、『謙信と信玄』(井上鋭夫)では

「善光寺を兵站基地として大荷駄と五千の兵を置き、自らは一万三千と小荷駄を率いて犀・千曲川を渡り、妻女山の陣場平に陣して海津城を攻撃しようとした。」

善光寺5000人と妻女山に13000人というのは、天正3年の軍役帳などから鑑みますと、ちっと盛りすぎているのではないかと思いますので、荷駄隊の人夫を含めた人数としてみると妥当な数字になるのではないかと思います。

この戦いの際の謙信の輜重隊は、大荷駄と小荷駄があったようで、この時の規模は大荷駄が二千余、小荷駄が五百余と推定されます。小荷駄奉行は、直江景綱で直江衆1500人の陣容で、善光寺の兵站基地から妻女山に兵糧・馬の飼葉・燃料等を供給していたと思われます。

さて、謙信勢の妻女山での1日の消費量は、どのくらいになるか?

1人1kg×13000=13000kg

兵糧だけで約13tです。さらに、馬も1頭約6kg(大豆・糠)必要ですから、

騎馬武者用の馬600~700頭と駄馬300~400頭として

6kg×1000頭=6000kg  

兵糧   約13t   馬用 約6t  合計 19t

この約19tを運ぶを駄馬1頭に人夫1人単位で運ぶわけですが、敵を目の前にしての輸送になるわけですかせ、敵からの襲撃を受けても対応できるように、いつもより軽量にしていたとしますと、

19000÷(95+15)=172.7で、他の物資もあるので最低でも200頭と200人が必要となりますか。

兵站基地の善光寺から妻女山まで約15kmあります。敵を目の前にしてのこの距離を輸送するのは難しかったと思われます。小荷駄隊に着く警固役の兵も数百人はいたのでしょうか。

謙信勢は、妻女山に8/16~9/9までの25日間在陣していましたから、小荷駄隊もヶなりの規模で、何度も往復したのでしょう。

 

この謙信の小荷駄隊の苦労がしのばれる川中時の戦いであった。