長野に行く所用があり、この時期では関越周りがいつものコースになりますが、今回は雪道や道路の凍結もないことから、以前(2022年7月)道路工事のため通行止めで訪れることができませんでした、南伊那にある熊谷氏坂部館を訪れてみようと思い、浜松から奥三河を通るコースで向かいました。

  この熊谷氏坂部館に訪れる計画は、2回目です。前回は、新東名浜松いなさJCTから国474号線(三遠南信自動車道)に入り、佐久間川合ICで降り県道1号線を行けば最短距離で行けるかと思って行きました。が、この県道1号線は、正式名が長野県道・愛知県道・静岡県道1号飯田富山佐久間線とやたらに長いです。後で知りましたが「険道1号」とも呼ばれる道路でした。車1台がようやっと通れる道幅で、カーブがうねりくれるほどで対向車を気にしながらのヒヤヒヤの運転でした。たまたまなのか、対向車には遭遇しませんでしたのでよかったです。

 そんな道を約28kmほど行った鷹巣橋(橋を渡ると大嵐駅)につきましたが、なんと「終日通行止』の立看板でした。熊谷氏坂部館のある坂部までは、あと7kmでしたが、迂回していくと仮名力寄りのたる断念いたしました。

 

 今回は、国151号線を阿南町新野まで行き、国481号線を通り天竜川に出て南下するコースを考えていました。しかし、このコースも約5km先の「おきよめの湯」まで鹿行けない。土砂崩れの復旧工事で通行止めと相成っていました。

 まぁ~、2回もこうなると、3回目を目指すしかないのかな、と。

 

 熊谷氏坂部館を知ったのは、吉田ゆり子著『兵と農の分離』を読んだ中に出てきた家です。『兵農分離」は、戦国時代末から江戸時代にかけて進行した社会現象です。が、吉田氏は、『これまでの説明では、結果として実現された兵農分離の体制を述べていても、その歴史的過程を解明しているとはいえない。」として「どのような人びとが武士になったのか、それを生み出していた母体はなにか。他方、武士と百姓とはどこで分けられたのか、。武士ではなくて百姓となることを選んだのはなぜか。」を探る中で、この坂部熊谷氏が出てきています。吉田氏は坂部熊谷氏について「武士として功名をあげるより、従軍を拒否し、みずからの開発地と家を守り続けた家』と紹介しています。

 また、この坂部館については、信濃の山城をあまた紹介してる宮武武雄氏も縄張図を付けて、この館が「堀や土塁を設けなくとも近づくことのできない要害の地にある」と説明しています。この要害の地を一度見たいと。

 

まぁ~、こんなことで熊谷氏坂部館を訪れてみようと思っていました。が、2回もふられてしまいました。

 

参考文献

『兵と農の分離』 吉田ゆり子躇 山川出版社

『信濃の山城と館 6 諏訪・下伊那編』 宮坂武男著 戎光祥出版

 

 湯村城は、甲府市湯村3三丁目にある比高160mの山城です。近くにある武田氏館(躑躅ヶ崎館)へは何度も訪れていますが、湯村城には行きそびれていましたが、湯村温泉に行くついでに訪れてみました。         訪城日:2026.2.2   晴れ

 城址へは、甲府駅北口から武田氏館へ行く県道31号を少し北に向かい、県道6号と交差する武田信号を左折して約1.3km先の総合グランド入口信号で、右折して緑ヶ丘スポーツ公園の体育館の駐車場を目指します。東奥のトイレの裏手から山側に入る道を進むと城址への表示板があります。そこから緩やかに登る舗装道を約1.2km歩くと主郭にたどり着きます。途中にトイレがあります。スポーツ公園駐車場上の登城口

城歴

『高白斎記』に大永3年(1523)四月「廿四日湯ノ島ノ山城御普請初」とあります。普請に「御」があることから、甲斐守護武田信虎が新府中防衛ために整備した城砦群の一つとして築城したものと思われます。

 ただ、上記の『高白斎記』の記述以外の記録が無いため、その後の動向は定かでは降りませんが、西方面の連絡網(烽火)の要として武田三代まで重要な役割を担っていたと思われます。 廃城についても不明です。

登城路(ハイキング)の途中に見られる古墳です。この古墳は、約1300年ほど前に、礫を積み上げて築かれたもので『積石塚』と呼ばれています。甲府盆地北部の山麓部に見られるもので、180基余り確認されるようで、当城のある湯村山には7基あるようです。

 舗装道路でしたが、久しぶりの山城訪問でちっと疲れましたが、ようやっと城の北側にある復元狼煙台に着きました。

 復元狼煙台にある狼煙についての説明板です。

 復元狼煙台の南側の高まりが城址で、道が二手に分かれていますが、城址を周遊する道でどちら側を進んでも元のところに戻るのが後でわかりましたが、右手に道に進みました。

 1・2と郭の北側にある二本の堀切の南側の堀切に堀切に着きます。

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 堀切の土塁から見える3郭で、手前に3郭寄りの堀切が見えます。郭内部は、安山岩の岩が点在していて、郭の体をなしていないです。

 主郭は、主要3郭の中で最大の郭で、整った区画です。虎口が3カ所あり北側には「コ」の字状の枡形虎口が検出されているようです。 

 大手は、2郭南東下に虎口状の小規模な平坦地が見られることから、そこであろうと。

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 主郭下段にある井戸跡です。

 

 今回は、下調べもなく訪れてしまいましたので、虎口や大手筋とうの見落としが多々あり、かなり不十分な訪城になってしまいました。機会があれば、もそっとよく見てみたいとは思いますが、果たしていけるか?ですね。

 

参考文献

『甲信越の名城を歩く 山梨編』 山下孝司・平山優編

『甲斐の山城と館 上』 宮坂武男著 

①では、敵前での籠陣への補給する小荷駄隊を扱いましたが

②では領国に侵攻した敵に向かう際の行軍時の小荷駄隊

 

 天正6年(1578)10月25日

深溝松平家忠は

前日に旗頭の酒井忠次からの陣触があり

浜松に向かいました。

この陣触は、武田勝頼が遠州侵攻がみとめられ

早急な着陣が要求されていたのではないかと思われます

実際

晦日までには勝頼は遠江に侵攻し

11月2日 小山城に陣を構え

翌日 横須賀城を攻めた 後高天神城に退き

17日 島田を攻撃し

25日 田中城を経由して帰国の途についた

 

このような武田勢の動きに

徳川勢は

横須賀城・牧野城等の後詰などの防護体制を取り

家忠も各地を転戦しています

さて、家忠はこの戦いに小荷駄隊を帯同させていたのかです

武田勢の動きに合わせて家忠も動き

行軍し陣を構えたり、城に入ったりしたのでしょう

城に入ればまあ~兵粮や飼葉などは支給されたのかな

行軍・陣構えの際は、

兵粮や煮炊きの燃料、馬の大豆・飼い葉、陣構築の道具等が

必要となるでしょうし、

武田勢がいつ駿河に退くかわからない状況でもありますから

小荷駄隊を組んだものと思われます

戦国期は、原則兵粮自弁でしたから家忠が用意します

敵地ならば、現地略奪という手もありますが

遠江は徳川の領国ですから、それは無理で

深溝から運ぶか商人から買い付けたのでしょう

 

さて、小荷駄隊の運搬量はいかほどになるか

家忠隊の人数と馬の数で

戦闘員の人数は、たまたま家康からの

着到の使者が来て着到を付けています

侍85人、中間126人、槍使3人

装備は、槍(25)鉄砲(15)弓(6)

この人数は、家忠の知行高2500貫目に見合う

軍役に定められた戦闘員の兵力と思われます

侍の中には、馬上侍がおりその数は不明ですが、30~40頭程か

そうすると

非戦闘員の馬の口取り30~40人と従者60~80人ほどがいりますか

合計 304~334人 馬 30~40頭

この人数と馬の1日の食料はいかほどになるかです

人(兵士・人夫) 米6合(約900g)、味噌2勺(約36g)、塩1勺(約18g)

     馬(騎馬・駄馬) 大豆2升(約3kg)  糠2升(約3kg)

             人間:約1kg   馬:約6kg     これが基本量

975g×304人=296.4kg(79貫)

6kg×30頭=180kg(48貫)

合計127貫

小荷駄隊は、人夫(口取り)と馬がセットで

人夫は4貫目 駄馬は25貫目運べたようですが

この時は領国内で味方の城等もあることから

駄馬に積み、行動しやすく軽めにしたのではないかと

駄馬1頭20貫目として6頭に他の荷物運びで4頭

 

家忠隊の1日分を運ぶ小荷駄隊は、人夫10人駄馬10頭

になりますが、この人夫や駄馬も食べますので

人夫9.75kg 駄馬60kg   合せて18.6貫目で

まあ~これは、人夫に運ばせるかな

で、どれほど勝頼が遠江に居座るかわかりませんので

十日分程度の運搬量とする小荷駄隊の編成は

人夫100人と駄馬100頭だったのでは

味方領内での戦いにおける小荷駄隊を推定してきました

 

家忠もこのような度重なる軍役や城普請などの負担が

増える中で、家計が苦しい状況にあったようです

借銭がかさみ、天正12年には徳政令の対象になっいます

家忠のような徳川家で大身の身であっても

このような状況でありました。

「兵粮自弁」の無理がきしんで来ていたと

 

参考文献

『戦国合戦の舞台裏』 盛本昌広著 歴史新書y

『日本近世国家史の研究』 高木昭作著 岩波書店

購入書籍  2026年

 趣味の歴史にいくら散財しているかの覚書です! ★5ー最高ランク ★3ー普通

 ただ、2022年より購入を厳選するようにしており

 かなり興味の湧くものを選んで 購入しています

 

02.25 『新・古代史』 NHKスペシャル取材班 NHK出版新書 ¥1078

03.13 『戦国信濃と小笠原貞慶』 志村平治 戎光祥出版 ¥2420

    『会津蘆名氏』 伊藤喜良 戎光祥出版 ¥2860

2026年(新訪城 1771~)

                                      訪城数 10    新訪城 8     再訪城 2

 

03.24 長野 上田城

03.22 愛知 黒川城(1778)

03.17 群馬 鑁阿寺・新田荘歴史資料館・世良田館(1777)

03.16 栃木 祇園城(1774)鷲城(1775)中久喜城(1776)

02.17 群馬 白井城・仁井谷城(1772)勝保沢城(1773)  伊香保温泉金大夫

01.14 山梨 湯村城(1771)                                                              湯村ホテル

 小荷駄隊を検索しますと以下のように出てきます。

「小荷駄隊は、戦国時代の軍隊において兵糧(食料)、弾薬、設営道具、馬糧(ばりょう)などを輸送・管理する専門部隊です。一般的に農民から徴用された「陣夫(じんぷ)」「夫丸(ぶまる)」と呼ばれる非戦闘員で構成され、軍列の最後尾に位置するのが原則でした。 」

 華々しい戦いの様子などは、それなりに知りえますが、その戦いに関わる兵員の食糧事情について書かれている本などは、あまりと見かけないないです。まあ~あまり面白くもないですから書かれることもないのが当たり前なのでしょうかね。ただ、腹が満たされていなけれは戦いにもなりませんし、逃げ出す兵(足軽など)も出てくるでこともあったようですから、兵粮や軍需物資等の確保は戦国大名や戦国領主にとって悩ましくも重要な課題であったようです。

 小荷駄隊は、どのくらいの量の物資を運んだものなのか。小荷駄隊は、いろいろな物資を運んでいますが、数量としてわかりやすい兵糧(米等)で見積もって見たいと思います。

 戦国時代の軍学や史料から兵士1人当たりの米・味噌・塩の消費量や馬の食料は、推定できるようです。

  人(兵士・人夫) 米6合(約900g)、味噌2勺(約36g)、塩1勺(約18g)

     馬(騎馬・駄馬) 大豆2升(約3kg)  糠2升(約3kg)

             人間:約1kg   馬:約6kg     これが基本量

また、駄馬と人夫の運べる運送量は、駄馬32貫目、人夫4貫目のようで

おおよそ、この辺りが標準的な量と言えるようです。

 

①第4次川中島の戦いでの上杉軍の小荷駄隊

この時の謙信の動きは、永禄4年(1561)8月14日 春日山を出陣し、15日に善光寺に着陣、8月16日に妻女山の陣馬平に布陣した。その後の9月10日早朝に八幡が原で武田勢と激闘した後に善光寺に引き上げたと言うのがおおよその流れです。

謙信軍の兵力は諸説ありますが、『謙信と信玄』(井上鋭夫)では

「善光寺を兵站基地として大荷駄と五千の兵を置き、自らは一万三千と小荷駄を率いて犀・千曲川を渡り、妻女山の陣場平に陣して海津城を攻撃しようとした。」

善光寺5000人と妻女山に13000人というのは、天正3年の軍役帳などから鑑みますと、ちっと盛りすぎているのではないかと思いますので、荷駄隊の人夫を含めた人数としてみると妥当な数字になるのではないかと思います。

この戦いの際の謙信の輜重隊は、大荷駄と小荷駄があったようで、この時の規模は大荷駄が二千余、小荷駄が五百余と推定されます。小荷駄奉行は、直江景綱で直江衆1500人の陣容で、善光寺の兵站基地から妻女山に兵糧・馬の飼葉・燃料等を供給していたと思われます。

さて、謙信勢の妻女山での1日の消費量は、どのくらいになるか?

1人1kg×13000=13000kg

兵糧だけで約13tです。さらに、馬も1頭約6kg(大豆・糠)必要ですから、

騎馬武者用の馬600~700頭と駄馬300~400頭として

6kg×1000頭=6000kg  

兵糧   約13t   馬用 約6t  合計 19t

この約19tを運ぶを駄馬1頭に人夫1人単位で運ぶわけですが、敵を目の前にしての輸送になるわけですかせ、敵からの襲撃を受けても対応できるように、いつもより軽量にしていたとしますと、

19000÷(95+15)=172.7で、他の物資もあるので最低でも200頭と200人が必要となりますか。

兵站基地の善光寺から妻女山まで約15kmあります。敵を目の前にしてのこの距離を輸送するのは難しかったと思われます。小荷駄隊に着く警固役の兵も数百人はいたのでしょうか。

謙信勢は、妻女山に8/16~9/9までの25日間在陣していましたから、小荷駄隊もヶなりの規模で、何度も往復したのでしょう。

 

この謙信の小荷駄隊の苦労がしのばれる川中時の戦いであった。

新高山城は、以前から訪れてみたい城址で、周辺地域にはたびちたび来ていましたが、なかなか機会が無く未訪城になっていました。今回三原に泊まったのも三原城の遺構も見たかったのもありますが、新高山城へ行くのが大きな理由でした。

⑭新高山城

城に行く前に、新高山城の城門が三原市の宗光寺にあるとのことで寄りました。

宗光寺は、新高山城にあっ(きょうしんじ)を小早川隆景が三原築城・移転に伴い移りましたが、福島氏が芸備に移封後に曹洞宗に改宗し、寺名を変えています。このような経過から、新高山城の城門を寺門として移築されたと伝えられています。

四足門の切妻造りで、重厚な造りの門でした。

    左手 新高山城  右手 高山城

パンフレットにある千田喜博氏作図の縄張図

番所跡⑦で3段あり、ここはその一番上の平場です。大手筋を守る関門に当たります。虎口に石積みが見られます。

匡真寺跡で、小早川氏の菩提寺。三原城築城で三原に移っています。ただ、ここを通過時、木の根元にススメバチが群がり恐る恐る通りました。

中ノ丸(二の丸)の南虎口④で、両脇に石積みが見られます。ただ、匡真寺跡からの道が、現在この虎口に至りますが、改めて考えると、ちっと違うのではないかと思います。西側の北の丸・西の丸を通り中ノ丸に入るのではないかと。南虎口は、西の丸と連絡するための虎口だったのではないかと。

中ノ丸⑤です。縄張図には、中ノ丸が主郭の西側と北側に書かれ、主郭に西下の堀底道で繋がっています。

本丸②で、居館跡と思われる礎石が見られる。詰の丸①で巨石が露出しています。

詰の丸からの眺めは、とても素晴らしかったです。

主郭北側の郭群で、中ノ丸・釣井の段・ライケンガ丸・東の丸と別れているようです。かなり広い郭群で、すべてを見てはいません。

西側の中ノ丸から本丸西下の通路を進むと北の中の丸に入る虎口で、両側に石積みで、当時は立派な門があったのではないかと思われます。

釣井の段は、二段の平場に立派な石造りの井戸があります。これだけ立派な井戸はあまりみられませんで、北の郭群は家臣団の屋敷地だったと思われます。

最後に西の丸に向かいました。大手は、こちらを通ったのでしょうか。あまり詳しく見てこなかったのが悔やまれます。

よくできたパンフレットが、登城口を少し行ったところにおかれていますので、これを見ながら行くと案内板もあり、迷わずに本丸まで行けます。

毛利の最有力一族の居城の姿が垣間見れる城址でした。

向の高山城にも行ってみたいと思いましたが、足の疲労度かかなり来ていましたので残念しました。登りは、それなりに行けますが、下りがとてもきついです。まさに足弱にになっていることが改めて実感しました。(苦笑

⑮庭瀬城

新高山城から岡山に向かいました。時間があったので簡単に訪れる城として庭瀬城に行きました。

戦国期に、宇喜多勢に備えて三村氏が築城したようで、周辺一帯が泥沼地のため築城に苦労したようですが、備えとしては最適な地であったのでしょう。秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の「境目七城」の一つとして使われています。

江戸期、板倉氏が元禄12年(1699)に2万石で入封し、明治維新まで続いた。

城内に設けられていた清山神社(板倉重昌、重矩を祀る)と城堀とおぼしき濠です。

 

以上で今回の城巡りの旅は尾張になります。8日目は、古い職場仲間であった知人とお会いして、神奈川に戻りました。

 

行程距離  2125km

費用    十数万円

 

西国は、九州を除いてほぼ行けました。ただ、広島の吉川城館跡などが心残りですが。

 

6日目、道後温泉にも湯築城にも、行かずにホテルを出発です。しまなみ海道を通り三原を目指しました。しまなみ海道は今治を通過することに気づきまして、ちょっと今治城に寄っていこうかと思い、向かいました。

⑪今治城

今治城は、築城の名手と言われる藤堂高虎によって慶長7~9年に築城されました。

関ヶ原合戦以後、家康は豊臣への対策として大阪を取り囲む徳川系城郭を築城しますが、その際に築城の名手と言われる高虎が起用され、高虎は今治城の縄張を雛形にした城造りをしたとされています。

①鉄門は、二の丸・本丸の大手門になります。復興再建ですが、桝形の石垣が明治期に撤去されていたので門・石垣とあわせて再建されました。中央の巨石は、勘兵衛石と呼ばれています。

②天守は、昭和55年(1980)に本丸北隅櫓跡に建てられた模擬天守です。高虎が層塔型五重天守を創建したと伝わりますが、敷地内に天守の遺構が確認されてこともあって築城当時に天守があったかどうか不明のようです。

③広い濠

高虎の城の特徴になる濠です。今治城の濠は、海水が出入りする内・中・外の三重の水濠ですが、現在残るのは幅55mの内濠のみです。

④石垣

高石垣も高虎の城の特徴で、高10~13mの野面積です。角隅は、ほぼ完成された算木積みです。ちょっと珍しいのが、高石垣の裾の水際に広め(5~7m)の犬走が全周しています。これは、この地が砂地の軟弱地盤なため、石垣の重量を分散・安定・補強するために設けられたものと考えられているようで、訪れた際は是非ご覧ください。

 

⑫能島城(遠景)

島々が密集する芸予諸島を根拠にした村上氏は、因島・能島・来島の三家に分かれ、瀬戸内の海の支配権を握っていました。能島城は、村上海賊の能島村上氏の根拠地でした。以前から、ここに訪城してみたいと思っていましたので、あれこれ調べましたら、能島上陸&潮流クルーズ(土・日・祝日)やツアーでいけるようです。ただ、それにあわせるのがちっときつくまだ希望が叶っていません。と言うことで、遠目でも見たいと思いよってみました。

芸予諸島の瀬戸内海航路と村上海賊の城(今治市HPを参考)

因島村上氏 安芸・備後国の沿岸部に沿った安芸地乗り航路を掌握

能島村上氏  芸予諸島の中央を通過する最短航路(沖乗り)を掌握

来島村上氏 四国側の沿岸部に沿った伊予地乗り航路を掌握

能島城西側の大島の道沿いから見える能島城

ほんにちっちゃい島でした。穏やかに見えますが、大潮には潮の満ち引きですさまし程の潮流が起こり海の難所のようです。来島には定期航路の船が行けますし、能島も日を決めれば行けますので、行ってみたいと改めて思っています。

⑬因島村上城(資料館)

因島村上城は、因島村上氏が残した歴史資料を展示している資料館で、昭和58年に建築された。

青陰城は、村上水軍城から南に約1.5kmにある山城です。因島村上氏が、戦国時代後期に本拠とした城です。なぜ海賊が山城を本城と、不思議になりますが、どうも因島村上氏が勢力を拡大し芸予諸島北部を治めるようになり、他勢力との抗争に備えての築城になったものであり、周辺の監視や海城との連絡場としても活用したのでしょうか。

 

村上水軍城内の展示物で、戦国期に活躍した軍船の模型です。

 

⑭三原城

一昨年に近くの福山城を訪れた際に三原城も訪れようと思っていましたが、行けませんでしたので今回訪れました。

三原城の遺構は、駅の北側と南側にあります。

天主台の入口は、駅構内にあります。本丸を横断して駅・線路が建設されていますのでこのような形になり、まぁ~珍しいですね。

天主台は、中に入るより周りの石垣を見るのが面白いです。

天主台の隅角を見ると、築城に関わった大名がわかると。算木積になっている左手は福島正則時代で、右手の不完全算木積は小早川隆景時代のものと推定されるようです。

あとは、駅南側の本丸中門跡の堀と船入櫓跡の石垣と船入の一部です。

本丸天主台は見応えがありました。

 

 朝、寝坊をしてしまい、慌てて1階の朝食会場に行きました。時間ギリギリなので朝飯抜きで良いかとは思ったのですが。どうも、5日目になりそれなりに疲れが出てきていたのかもしれません。

⑨中村城

 ホテル近くの中村城に向かいました。

中村城の概念図です。中村城は、上図の左手より御城・為松城・東城の連郭式山城です。今回、見てきたのは為松城です。為松城城が本城と思い込んでいたため、御城は予定に入っていませんでした。下調べが足りなかったです。。

①為松城の詰の段で公園になっています。

②は、駐車場ですが詰の段南下の空堀跡のようです。かなりの上巾があったのか

③中の森の土塁 中の森は、為松城詰の段左手の郭です。

④郷土資料館で、為松城の二の段にあります。

 

中村から宿毛をへて松山に向かいました。中村や宿毛周辺にも、訪れたい山城がいくつかありましたが、何か山城ヘ向かう気が失せた感じがあり、土佐のお城は中村城で打ち止めとしました。

 

宿毛から国56号を北上している際に見えた宇和海です。じつにきれいで、関東で見る海とはなにか違っているようで、じっと眺めていました。

 

⑩伊予松山城

松山城は、記憶が確かならは3度目の訪城になるかと思います。今回は、じっくりと石垣や城門などの建物を見たいと思いました。

城内案内板にあった松山城の古地図で、麓の二之丸、三ノ丸からの斜面を囲う登り石垣の様子がよくわかる図です。今回、この登り石垣を見落としました。残念ですが、二回目の訪城の時、麓の二之丸から登りましたから見たと思いますが、覚えてはいません。

ロープウェイで山頂に着いて少し行ったところにある「高石垣」で、高さ17mあり横矢掛りの張り出しが見事です。この石垣は、加藤嘉明が慶長7年(1602)から築城した際のもので、打込みハギです。ほかにも、加藤期時代の石垣や建物がよく残っています。

大手門跡からの戸無門へ繋がる大手道。奥に太鼓櫓があり、狭い通路に全面と右手上からの横矢が厳しい備えです。

扉のない戸無門を抜けると、大手口の最強の防衛線の筒井門と隠門にでます。筒井門と隠門は、攻守一体之造りで、筒井門に迫る寄手の側面を隠門から急襲する仕組みのようです。戸無門に入った寄手からは隠門は、見えないようになっています。

本丸大手門の太鼓門を抜けると本丸広場に出ます。約100m先に松山城本壇(天守を中心とする城郭建物群)が見えます。

本壇入場料は、520円です。

いざ本壇へと 正面に天守を仰ぎ右に進むと一ノ門。切り込みハギの石垣が見事です。

本壇内の石垣で、切り込みハギで積まれています。右の写真は、たまたま目にした石垣で、見事な成形で驚きました。

天守からの眺めです。いつもは、天守内部にはあまり入ることはありませんが、今回ここと高知城では入りました。もう、来るのはこれが最後だと思う気持ちもあったのかなと。

本壇南側からの見ています。これから、紫竹門をくぐり搦手方向に向かいました。

乾門(いぬいもん)は、搦手口の要衝で、慶長年間の築城時に正木城から移築されたものと言われています。重厚な造りです。

 

これでロープウェイ乗り場まで戻りました。一通り見てきたつもりでしたが、北側の石垣や艮門を見逃しました。とても残念でした。それでも、まあ~満足の訪城でした。

 

どうも、高知城が長くなりすぎているようで、簡素にこの後はしたいと思います。

3日目

山城は、高知市周辺に多くありもう少し訪れてみたい山城もありましたが、この後の計画もあり、高知市を離れて西に移動しました。

松尾城

眼下に高知から松山へ通じる松山往還が通り、須崎へ通じる須崎往還を扼する位置にもある交通の要衝で、春日川左岸にある佐川城と連携して機能した城

①松尾八幡宮    ②主郭〔詰の段〕の南西にある郭の虎口と思われる

③南西郭奥で奥に物見岩が見える   ④主郭

登城口が、八幡宮の本堂の背後にあり、すぐわかりましたのでこれは楽勝かと思われたのですが、階段を登った先で道がわからず右往左往してしまいました。草をかき分けてようやっと階段が現れやれやれ進めました。

この城は、堀切、竪堀を多用した城として土佐では代表格のようですが、それらは藪に覆われてみることができませんでした。郭面は、斜面ほどではなかったですが、縄張図と比べてもなんとなく分かりにくかったです。なんか、印象が薄い城址でした。

佐竹城

佐竹城は、春日川を挟ん対岸にあります。登城口のある説明板には、天正初年(1573)頃、長宗我部元親の重臣久武内蔵助が、松尾城の水不足を嫌いこの地に築城したとありました。

城址のある古城山の山腹は、牧野富太郎ゆかりの公園で山野草が植栽されていました。城址は、公園最上部にあり公園管理道を登っていくのですが、結構な坂でしかも長いので疲れました。

登城口にある縄張図です。

公園の最上部にある①物見岩で、北側を守る郭の先端部にある。公園整備でトイレや休憩施設が設けられていますが、おおよその郭の輪郭は把握できます。

Ⅰ郭(主郭と思われる)西下を通り、Ⅱ郭の②坂虎口に着きます。虎口周辺に石列の跡が見とれ、石が散乱していますので、石積みがつれていた虎口と見とれます。

③堀切は、Ⅰ郭とⅡ郭の間にあります。Ⅰ郭とⅡ郭共に木々が立ちが並び整備はされていません。

Ⅰ郭東面にある石垣で、当城最大の見所です。ただ、これを見るにはちっと骨が折れました。Ⅲ郭からしか見ることができませんが、Ⅲ郭へ行くには急斜面を横断するするしかなく、危険な道でしたね。

下城後、牧野富太郎の生家跡に建つ「牧野富太郎ふるさと館」を訪れました。

牧野富太郎の生家は、造り酒屋で近郷に知られた家だったようです。ここでは、博士の遺品や直筆原稿などがあり、朝ドラで見ていたことと重なりました。

 

この後、久礼城を訪れる予定でしたが、ちっと疲れましたので久礼城は明日に回すことにして、ホテルに向かいました。

 

4日目

久礼城

このたびの土佐西部の山城巡りの最目的の一つである、久礼城に向かいました。

※詰ノ段にある説明板に加筆。赤線=登城路 橙色=推定される大手道

『中世城郭事典Ⅲ』では、当城について「土佐における連続堀切り、連続竪堀の両型を備えもった代表的な城郭例のひとつである。」とあり、期待の持てる城址と思っていました。

登城口で、左の建物は保育園です。車は、保育園したの町役場の駐車場に止めました。登城口のまでの道がわかりませんでしたので、たまたまいた人が役場の方に聞いていただき教えていただきました。わからないことは、人に聞くことだと!。

登城口からここ二ノ段まで30分ほど掛かりました。途中、堀切や竪堀が見られましたが、あまりはっきりと確認できないのが残念でした。登城ルートに繋がる虎口が3カ所確認できました。当城の防御拠点の郭と思われます。周囲は、土塁にかこわれれ、虎口に石積みも見られます。

詰め郭で、二ノ段より5~6m程高く、周囲は高1m強の土塁が取り囲み石積みの跡も見られます。

「佐竹氏居館跡」と刻まれた城址碑がたってます。鎌倉時代に新補地頭としてこの地に入った佐竹氏で、常陸の佐竹氏の別れになるようです。なんとも感慨深いです。

この後、三ノ段へ向かいました。そので当城の目玉と思われる石垣(石積みか?)と竪堀を見ることができました。ただ、竪堀は何畳か見られましたが、なかなか写真では判別しにくいのが残念です。石垣は、よく残り見応えがありました。

 

帰りに道を間違え、中学校の裏手にでてしまいました。登城路が明確でないので気をつけてはいたのですがね。

 

この後、訪れる城址がありましたが、なんか疲れまして(年ですかね)

知り合いに、行けたら良いからと頼まれた『日本の国立公園めぐりスタンプラリー」の公園乃印をもらいに100km先の竜串ビジターセンターにむかいました。

最後後に足摺岬に行き、灯台を見てきました。ついでに38番札所金剛福寺にお参りしてきました。