新高山城は、以前から訪れてみたい城址で、周辺地域にはたびちたび来ていましたが、なかなか機会が無く未訪城になっていました。今回三原に泊まったのも三原城の遺構も見たかったのもありますが、新高山城へ行くのが大きな理由でした。

⑭新高山城

城に行く前に、新高山城の城門が三原市の宗光寺にあるとのことで寄りました。

宗光寺は、新高山城にあっ(きょうしんじ)を小早川隆景が三原築城・移転に伴い移りましたが、福島氏が芸備に移封後に曹洞宗に改宗し、寺名を変えています。このような経過から、新高山城の城門を寺門として移築されたと伝えられています。

四足門の切妻造りで、重厚な造りの門でした。

    左手 新高山城  右手 高山城

パンフレットにある千田喜博氏作図の縄張図

番所跡⑦で3段あり、ここはその一番上の平場です。大手筋を守る関門に当たります。虎口に石積みが見られます。

匡真寺跡で、小早川氏の菩提寺。三原城築城で三原に移っています。ただ、ここを通過時、木の根元にススメバチが群がり恐る恐る通りました。

中ノ丸(二の丸)の南虎口④で、両脇に石積みが見られます。ただ、匡真寺跡からの道が、現在この虎口に至りますが、改めて考えると、ちっと違うのではないかと思います。西側の北の丸・西の丸を通り中ノ丸に入るのではないかと。南虎口は、西の丸と連絡するための虎口だったのではないかと。

中ノ丸⑤です。縄張図には、中ノ丸が主郭の西側と北側に書かれ、主郭に西下の堀底道で繋がっています。

本丸②で、居館跡と思われる礎石が見られる。詰の丸①で巨石が露出しています。

詰の丸からの眺めは、とても素晴らしかったです。

主郭北側の郭群で、中ノ丸・釣井の段・ライケンガ丸・東の丸と別れているようです。かなり広い郭群で、すべてを見てはいません。

西側の中ノ丸から本丸西下の通路を進むと北の中の丸に入る虎口で、両側に石積みで、当時は立派な門があったのではないかと思われます。

釣井の段は、二段の平場に立派な石造りの井戸があります。これだけ立派な井戸はあまりみられませんで、北の郭群は家臣団の屋敷地だったと思われます。

最後に西の丸に向かいました。大手は、こちらを通ったのでしょうか。あまり詳しく見てこなかったのが悔やまれます。

よくできたパンフレットが、登城口を少し行ったところにおかれていますので、これを見ながら行くと案内板もあり、迷わずに本丸まで行けます。

毛利の最有力一族の居城の姿が垣間見れる城址でした。

向の高山城にも行ってみたいと思いましたが、足の疲労度かかなり来ていましたので残念しました。登りは、それなりに行けますが、下りがとてもきついです。まさに足弱にになっていることが改めて実感しました。(苦笑

⑮庭瀬城

新高山城から岡山に向かいました。時間があったので簡単に訪れる城として庭瀬城に行きました。

戦国期に、宇喜多勢に備えて三村氏が築城したようで、周辺一帯が泥沼地のため築城に苦労したようですが、備えとしては最適な地であったのでしょう。秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の「境目七城」の一つとして使われています。

江戸期、板倉氏が元禄12年(1699)に2万石で入封し、明治維新まで続いた。

城内に設けられていた清山神社(板倉重昌、重矩を祀る)と城堀とおぼしき濠です。

 

以上で今回の城巡りの旅は尾張になります。8日目は、古い職場仲間であった知人とお会いして、神奈川に戻りました。

 

行程距離  2125km

費用    十数万円

 

西国は、九州を除いてほぼ行けました。ただ、広島の吉川城館跡などが心残りですが。

 

6日目、道後温泉にも湯築城にも、行かずにホテルを出発です。しまなみ海道を通り三原を目指しました。しまなみ海道は今治を通過することに気づきまして、ちょっと今治城に寄っていこうかと思い、向かいました。

⑪今治城

今治城は、築城の名手と言われる藤堂高虎によって慶長7~9年に築城されました。

関ヶ原合戦以後、家康は豊臣への対策として大阪を取り囲む徳川系城郭を築城しますが、その際に築城の名手と言われる高虎が起用され、高虎は今治城の縄張を雛形にした城造りをしたとされています。

①鉄門は、二の丸・本丸の大手門になります。復興再建ですが、桝形の石垣が明治期に撤去されていたので門・石垣とあわせて再建されました。中央の巨石は、勘兵衛石と呼ばれています。

②天守は、昭和55年(1980)に本丸北隅櫓跡に建てられた模擬天守です。高虎が層塔型五重天守を創建したと伝わりますが、敷地内に天守の遺構が確認されてこともあって築城当時に天守があったかどうか不明のようです。

③広い濠

高虎の城の特徴になる濠です。今治城の濠は、海水が出入りする内・中・外の三重の水濠ですが、現在残るのは幅55mの内濠のみです。

④石垣

高石垣も高虎の城の特徴で、高10~13mの野面積です。角隅は、ほぼ完成された算木積みです。ちょっと珍しいのが、高石垣の裾の水際に広め(5~7m)の犬走が全周しています。これは、この地が砂地の軟弱地盤なため、石垣の重量を分散・安定・補強するために設けられたものと考えられているようで、訪れた際は是非ご覧ください。

 

⑫能島城(遠景)

島々が密集する芸予諸島を根拠にした村上氏は、因島・能島・来島の三家に分かれ、瀬戸内の海の支配権を握っていました。能島城は、村上海賊の能島村上氏の根拠地でした。以前から、ここに訪城してみたいと思っていましたので、あれこれ調べましたら、能島上陸&潮流クルーズ(土・日・祝日)やツアーでいけるようです。ただ、それにあわせるのがちっときつくまだ希望が叶っていません。と言うことで、遠目でも見たいと思いよってみました。

芸予諸島の瀬戸内海航路と村上海賊の城(今治市HPを参考)

因島村上氏 安芸・備後国の沿岸部に沿った安芸地乗り航路を掌握

能島村上氏  芸予諸島の中央を通過する最短航路(沖乗り)を掌握

来島村上氏 四国側の沿岸部に沿った伊予地乗り航路を掌握

能島城西側の大島の道沿いから見える能島城

ほんにちっちゃい島でした。穏やかに見えますが、大潮には潮の満ち引きですさまし程の潮流が起こり海の難所のようです。来島には定期航路の船が行けますし、能島も日を決めれば行けますので、行ってみたいと改めて思っています。

⑬因島村上城(資料館)

因島村上城は、因島村上氏が残した歴史資料を展示している資料館で、昭和58年に建築された。

青陰城は、村上水軍城から南に約1.5kmにある山城です。因島村上氏が、戦国時代後期に本拠とした城です。なぜ海賊が山城を本城と、不思議になりますが、どうも因島村上氏が勢力を拡大し芸予諸島北部を治めるようになり、他勢力との抗争に備えての築城になったものであり、周辺の監視や海城との連絡場としても活用したのでしょうか。

 

村上水軍城内の展示物で、戦国期に活躍した軍船の模型です。

 

⑭三原城

一昨年に近くの福山城を訪れた際に三原城も訪れようと思っていましたが、行けませんでしたので今回訪れました。

三原城の遺構は、駅の北側と南側にあります。

天主台の入口は、駅構内にあります。本丸を横断して駅・線路が建設されていますのでこのような形になり、まぁ~珍しいですね。

天主台は、中に入るより周りの石垣を見るのが面白いです。

天主台の隅角を見ると、築城に関わった大名がわかると。算木積になっている左手は福島正則時代で、右手の不完全算木積は小早川隆景時代のものと推定されるようです。

あとは、駅南側の本丸中門跡の堀と船入櫓跡の石垣と船入の一部です。

本丸天主台は見応えがありました。

 

 朝、寝坊をしてしまい、慌てて1階の朝食会場に行きました。時間ギリギリなので朝飯抜きで良いかとは思ったのですが。どうも、5日目になりそれなりに疲れが出てきていたのかもしれません。

⑨中村城

 ホテル近くの中村城に向かいました。

中村城の概念図です。中村城は、上図の左手より御城・為松城・東城の連郭式山城です。今回、見てきたのは為松城です。為松城城が本城と思い込んでいたため、御城は予定に入っていませんでした。下調べが足りなかったです。。

①為松城の詰の段で公園になっています。

②は、駐車場ですが詰の段南下の空堀跡のようです。かなりの上巾があったのか

③中の森の土塁 中の森は、為松城詰の段左手の郭です。

④郷土資料館で、為松城の二の段にあります。

 

中村から宿毛をへて松山に向かいました。中村や宿毛周辺にも、訪れたい山城がいくつかありましたが、何か山城ヘ向かう気が失せた感じがあり、土佐のお城は中村城で打ち止めとしました。

 

宿毛から国56号を北上している際に見えた宇和海です。じつにきれいで、関東で見る海とはなにか違っているようで、じっと眺めていました。

 

⑩伊予松山城

松山城は、記憶が確かならは3度目の訪城になるかと思います。今回は、じっくりと石垣や城門などの建物を見たいと思いました。

城内案内板にあった松山城の古地図で、麓の二之丸、三ノ丸からの斜面を囲う登り石垣の様子がよくわかる図です。今回、この登り石垣を見落としました。残念ですが、二回目の訪城の時、麓の二之丸から登りましたから見たと思いますが、覚えてはいません。

ロープウェイで山頂に着いて少し行ったところにある「高石垣」で、高さ17mあり横矢掛りの張り出しが見事です。この石垣は、加藤嘉明が慶長7年(1602)から築城した際のもので、打込みハギです。ほかにも、加藤期時代の石垣や建物がよく残っています。

大手門跡からの戸無門へ繋がる大手道。奥に太鼓櫓があり、狭い通路に全面と右手上からの横矢が厳しい備えです。

扉のない戸無門を抜けると、大手口の最強の防衛線の筒井門と隠門にでます。筒井門と隠門は、攻守一体之造りで、筒井門に迫る寄手の側面を隠門から急襲する仕組みのようです。戸無門に入った寄手からは隠門は、見えないようになっています。

本丸大手門の太鼓門を抜けると本丸広場に出ます。約100m先に松山城本壇(天守を中心とする城郭建物群)が見えます。

本壇入場料は、520円です。

いざ本壇へと 正面に天守を仰ぎ右に進むと一ノ門。切り込みハギの石垣が見事です。

本壇内の石垣で、切り込みハギで積まれています。右の写真は、たまたま目にした石垣で、見事な成形で驚きました。

天守からの眺めです。いつもは、天守内部にはあまり入ることはありませんが、今回ここと高知城では入りました。もう、来るのはこれが最後だと思う気持ちもあったのかなと。

本壇南側からの見ています。これから、紫竹門をくぐり搦手方向に向かいました。

乾門(いぬいもん)は、搦手口の要衝で、慶長年間の築城時に正木城から移築されたものと言われています。重厚な造りです。

 

これでロープウェイ乗り場まで戻りました。一通り見てきたつもりでしたが、北側の石垣や艮門を見逃しました。とても残念でした。それでも、まあ~満足の訪城でした。

 

どうも、高知城が長くなりすぎているようで、簡素にこの後はしたいと思います。

3日目

山城は、高知市周辺に多くありもう少し訪れてみたい山城もありましたが、この後の計画もあり、高知市を離れて西に移動しました。

松尾城

眼下に高知から松山へ通じる松山往還が通り、須崎へ通じる須崎往還を扼する位置にもある交通の要衝で、春日川左岸にある佐川城と連携して機能した城

①松尾八幡宮    ②主郭〔詰の段〕の南西にある郭の虎口と思われる

③南西郭奥で奥に物見岩が見える   ④主郭

登城口が、八幡宮の本堂の背後にあり、すぐわかりましたのでこれは楽勝かと思われたのですが、階段を登った先で道がわからず右往左往してしまいました。草をかき分けてようやっと階段が現れやれやれ進めました。

この城は、堀切、竪堀を多用した城として土佐では代表格のようですが、それらは藪に覆われてみることができませんでした。郭面は、斜面ほどではなかったですが、縄張図と比べてもなんとなく分かりにくかったです。なんか、印象が薄い城址でした。

佐竹城

佐竹城は、春日川を挟ん対岸にあります。登城口のある説明板には、天正初年(1573)頃、長宗我部元親の重臣久武内蔵助が、松尾城の水不足を嫌いこの地に築城したとありました。

城址のある古城山の山腹は、牧野富太郎ゆかりの公園で山野草が植栽されていました。城址は、公園最上部にあり公園管理道を登っていくのですが、結構な坂でしかも長いので疲れました。

登城口にある縄張図です。

公園の最上部にある①物見岩で、北側を守る郭の先端部にある。公園整備でトイレや休憩施設が設けられていますが、おおよその郭の輪郭は把握できます。

Ⅰ郭(主郭と思われる)西下を通り、Ⅱ郭の②坂虎口に着きます。虎口周辺に石列の跡が見とれ、石が散乱していますので、石積みがつれていた虎口と見とれます。

③堀切は、Ⅰ郭とⅡ郭の間にあります。Ⅰ郭とⅡ郭共に木々が立ちが並び整備はされていません。

Ⅰ郭東面にある石垣で、当城最大の見所です。ただ、これを見るにはちっと骨が折れました。Ⅲ郭からしか見ることができませんが、Ⅲ郭へ行くには急斜面を横断するするしかなく、危険な道でしたね。

下城後、牧野富太郎の生家跡に建つ「牧野富太郎ふるさと館」を訪れました。

牧野富太郎の生家は、造り酒屋で近郷に知られた家だったようです。ここでは、博士の遺品や直筆原稿などがあり、朝ドラで見ていたことと重なりました。

 

この後、久礼城を訪れる予定でしたが、ちっと疲れましたので久礼城は明日に回すことにして、ホテルに向かいました。

 

4日目

久礼城

このたびの土佐西部の山城巡りの最目的の一つである、久礼城に向かいました。

※詰ノ段にある説明板に加筆。赤線=登城路 橙色=推定される大手道

『中世城郭事典Ⅲ』では、当城について「土佐における連続堀切り、連続竪堀の両型を備えもった代表的な城郭例のひとつである。」とあり、期待の持てる城址と思っていました。

登城口で、左の建物は保育園です。車は、保育園したの町役場の駐車場に止めました。登城口のまでの道がわかりませんでしたので、たまたまいた人が役場の方に聞いていただき教えていただきました。わからないことは、人に聞くことだと!。

登城口からここ二ノ段まで30分ほど掛かりました。途中、堀切や竪堀が見られましたが、あまりはっきりと確認できないのが残念でした。登城ルートに繋がる虎口が3カ所確認できました。当城の防御拠点の郭と思われます。周囲は、土塁にかこわれれ、虎口に石積みも見られます。

詰め郭で、二ノ段より5~6m程高く、周囲は高1m強の土塁が取り囲み石積みの跡も見られます。

「佐竹氏居館跡」と刻まれた城址碑がたってます。鎌倉時代に新補地頭としてこの地に入った佐竹氏で、常陸の佐竹氏の別れになるようです。なんとも感慨深いです。

この後、三ノ段へ向かいました。そので当城の目玉と思われる石垣(石積みか?)と竪堀を見ることができました。ただ、竪堀は何畳か見られましたが、なかなか写真では判別しにくいのが残念です。石垣は、よく残り見応えがありました。

 

帰りに道を間違え、中学校の裏手にでてしまいました。登城路が明確でないので気をつけてはいたのですがね。

 

この後、訪れる城址がありましたが、なんか疲れまして(年ですかね)

知り合いに、行けたら良いからと頼まれた『日本の国立公園めぐりスタンプラリー」の公園乃印をもらいに100km先の竜串ビジターセンターにむかいました。

最後後に足摺岬に行き、灯台を見てきました。ついでに38番札所金剛福寺にお参りしてきました。

  さて、高知市二日目ですが、昨夜からまた雨が降り始め、朝方も小雨模様で山城訪城は無理なので、高知城に向かうことにしました。ついでに昨夜NHK放映された高知市の路面電車にも乗って見たいとも思いました。わたしの生まれ育ったところにも子供の頃、路面電車が走っており、よくそれに乗って夏海水浴に行きました。まさに、昔ながらのチンチン電車で車輪と線路のガタゴト感が懐かしかったです。ただ、はりまや橋で、行き先の反対方向の電車に乗ってしまい、慌ててしまった失敗談もありましたが、長く乗れたのは儲けものでした。

天守内ある高知城の縄張図 この図の番号で説明します

また、天守内に素晴らしい立体模型がありましたので、載せておきます

 

⑫追手門

追手門は、慶長年間に創建され手いますが、現在の門は寛文4年(1664)に再建されたもので、享保12年(1727)の城下大火で多くの城内建物も焼失したが、かろうじてこの門は焼失を免れています。桝形の石垣は、よく巨石がドート置かれていまして、「鏡石」と呼ばれるものです。鏡石は一石というのが多いのですが、ここ高知城は大きな石を並べて桝形の石垣を作っていて、珍しい造りと言えるようです。

 

⑧杉ノ段からの三ノ丸石垣と⑦鉄門跡

最近、頓に石垣が気になっていまして、ここでもよさげな野面積の高石垣〔約13m〕を見ることができました。また、石垣背後の発掘調査で長宗我部元親が積んだと思われる石垣が見つかっているようです。

鉄門跡は、見栄えもあるようで打ち込みハギの積み方で堅固な造りになっています。

⑰獅子ノ段

鉄門跡に入るのは後にして石垣沿いにグルと回ろうと背後に回りました。

写真は詰門の後ろ側からとっものです。石垣は、野面積です。

⑦鉄門跡

一回りして鉄門跡に戻ってきました。打ち込みハギの石垣の上に入母屋造りの二階建てで、扉に鉄板が貼り付けていた門が建っていたようです。桝形門で堅固な造りですが、ここを破ると正面に詰門が見えます。二ノ丸へは階段を登り右手ヘ進みますが、この位置からは見えませんので、攻めては詰門に攻め込む具合になります。が、詰門を破っても二ノ丸・本丸にたどり着きませんで、裏面の獅子ノ段にでるという えげつない造りです。

⑤三ノ丸

城内で一番広い曲輪で大書院が建っていたようです。

曲輪の一角に、高知城独特の装置である「石樋(いしどい)」の構造を見せているところがありました。

三ノ丸石垣上部にある石樋で、三ノ丸から構造がわかるように展示されています。蓋があり、掃除できるようになっていたようです。

雨の多い土佐のため、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部につきだして石樋を突き出している。城内に16ヶ所見られるようです。

④二ノ丸

二ノ丸桝形虎口で、二ノ丸詰門があったようです。桝形から天守方向を見ています。よき眺めです。

二ノ丸から天守が見え、手前に本丸の廊下門、手前に詰門の入口が見えます。

詰門の内部です。廊下橋で、家老の待合場所として使われていたようです。

①②本丸・天守

詰門を通ると,本丸野入口に当たる廊下門です。本丸には、延享4年(1747)に再築された本丸御殿・天守を初めとして東西両多聞・廊下門・詰門・黒金門がある。

天守は、現存する木造の12古天守の一つで、しかも本丸御殿が現存している唯一の城です。

帰りは、黒金門です。

 

小雨の中3時間近く歩き回りました。疲れましたが、よき石垣と建物を堪能できました。帰りは、繁華街を通り駅近くのホテルに帰りました。

 

 10月上旬,高知市西部から愛媛・広島・岡山を回る旅から帰ってきました。

1日目

前日の夜10時に自宅を出発

まずは、最初の訪城先の徳島県美馬市の脇町の脇城を目指しました。

7時半頃登城口の秋葉神社に着きました。途中、渋滞もなくこれましたが、600kmも走ってきましたので、燃料が怪しくなり予定のIC手前で降りて給油所によりました。

脇城

登城口の秋葉神社から7分ほど登りましたら、①の『脇城跡↲』があり、左手に進むようでした。左手下をふと見ますと、大きな竪堀とおぼしきものが見えましたが、藪に覆われ写真を撮りましたが何が何だかわかりません。左手に進むと平場かあり③城址碑が見えました。平場の右手に②道がありましたが、どうもこれが主郭と2郭の間の空堀だったのではないかと思いました。

ただ、主郭や2郭は竹藪で覆われ、3郭は太陽光パネルが設置されていました。段丘先端部を空堀によって後背地と絶縁して郭を設けていることは,なんとなくわかりましたが、どうもそれ以上にはなりませんで、残念でした。

 

この後、徳島自動車道で高知に向かいましたが、この高速道は愛媛県の東部(四国中央市川之江東Jct)まで行って南下と。かなりの遠回りになりますが、徳島から室戸岬をへての道のりを考えるとこれがベストなのだと納得しましたね。〔苦笑

また、間の悪いことに雨が降り出してきまして、高知市についてもやみませんでしたので、傘を差しても行けそうな城址をとりあえず物色。

万々城

比高20mと言うことで訪れました。

この城は、『図説中世城郭事典3』に掲載されていて、この山城巡りで参考にした『土佐の山城』には未掲載の城址でしたが一応ビックアップしていた城址でした。

高知市北西部の山裾にあり、熊野三所神社の東側の脇にあります。奥の鳥居の手前に駐車スペースがありましたので、①左右の石塔を通り抜けましたが、すれすれでヒヤヒヤしましたが、どうも車で行くようではなく、この石塔の手前で車を置いて行くのが正解のようでした。

②登城口は、鳥居手前を右に入っていきます。どうも竪堀を登るようで、少し登ると③大きな堀切に至りました。詰の段背後の堀切です。この左手尾根に大小三本の堀切があり尾根を遮断しているようですが、通路ができ堀切がわからなくなっています。④詰の段は藪に覆われて中に入るのがちっと無理でした。そのため詰の段東下の郭を確認できませんでした。

※土佐では、主郭を『詰の段』と言うようです。

蓮池城

土佐市の市街地西側の独立丘陵にある比高20mの城址です。公園として整備されていますが、切岸で防備する城なので、その面影は濃厚に見とれます。

雨もやんできましたが、木々や地面はぬれていますので、うっそうとした山城は無理ですな。

①駐車場背後が城址です。急な階段を上ると②帯郭の平坦部があり切岸の上部に主要郭があります。かなりの高い切岸で、これがこの城の主要防御装置で、竪堀や堀切はないです。また、周辺は湿地だったようで自然の堀として機能していたと思われます。

③は、東側の郭から見た詰の段とそのしたの腰郭です。

④詰の段で、奥の鳥居背後に櫓台状の小規模な平坦部があります。

 

2日目に行く予定の朝倉城に時間があつたので向かいました。大通りから車1台がようやっと通れる曲がりくねった道の先の北城山公民館につきました。が、『無断駐車禁止』の立看板が何カ所も見られましたので、看板にある連絡先に℡しましたが、「使われていません』とのことで仕方なく次の所に向かいました。朝倉城はやむなく未訪城となりました。

 

潮江城

高知市街を望む位置にあり、ホテルに行く前に寄ってみました。ここも、公園になっています。縄張図を見ると北側斜面に築かれている畝状竪堀群が見所のようですが、この畝状竪堀群墓なりのくせ者で、他の城址でもよ~く見ても判別が難しい遺構です。

公園駐車場から北側に向かう道沿いに9状の竪堀が設けられているようでしたが、曇り空の夕方で、しかも木々が生い茂っていましたので、判別と憎いですが①画素の一部ではないかと思われました。グルッと主郭下の段の遊歩道を回り主郭に行きました。

②が遊歩道の入口ですが、窪み具合から主郭北東の虎口ではないかと思いました。

③主郭で東側に低い土塁が見られます。

公園整備で遺構の残り具合が悪く、縄張図を見てもよくわからず、主郭北征したの2郭等は草に覆われ入ることもできませんでした。

 

長い1日でしたが、小雨まじりのなかほどほどにお城へも行きましたので、ほぼ満足といった感じでした。