大堀切から廓馬出・二の丸までで、ーその壱ーが終わりました。その続きの二ノ丸から三ノ丸・石垣➡本丸➡御前曲輪➡稲荷曲輪・丸馬出➡本丸東側堀➡搦手口を簡単に載せていきたいと思います。簡単というのは。今回の訪城目的が廓馬出の城門を一度見てみたいというもので、それ以外の遺構については以前にかなり詳しく見ていましたので、ざっーといった感じ見たためです。

本丸周辺部の図になります。(黒鍬氏のはてなブログから借用)

  

 二の丸は、本丸南にあって三か所に虎口が設けられ、ほぼすべての本丸へのルートが集まる重要な防御拠点の位置にある。

 三の丸は、中は数段に分かれています。発掘されていて、以下のように使われていたようです。

1期(長野・武田時代頃)  屋敷地

2期(北条時代頃) 釘などをつくる鍛冶場

3期(井伊時代頃) 盛土をして大手道として両側に石垣を築き幅5.7mの通路を造る

 通路跡の石垣です。

三の丸石垣説明版

この後二ノ丸に戻り、本丸に向かいました。

  二の丸から本丸へは、曲尺馬出を通り本丸南虎口から入ります。この曲尺馬出からの横矢は、西下の搦手や南の二ノ丸に有効に効くようです。

  この本丸は、北条期に本丸として整備されたと思われ、それ以前の本丸(主郭)は御前曲輪の場所にあったと思われます。周囲を土塁に囲われていたものと思われます。

  御前曲輪説明版

  箕輪城で、とても気になる所が、ここ丸馬出です。越前曲輪が主郭の時期(1期の長野・武田氏頃)に設けられたものが、そのままの形で井伊氏の時代にも残って使われたのでしょうかね。続きに新郭があるのがふに落ちはしませんが。訪れる際には、必ず行くところです。

 帰りは、本丸西堀を通り、搦手口に出て三ノ丸石垣をまた見て、鍛冶郭から虎韜門駐車場に持ってきました。

  堀とは思えない本丸西下の空堀です。搦手に近づくと段差が上がり最後は搦手の平場(右写真)に出ました。ここが搦手の馬出なのかな。

  三の丸の石垣から鍛冶曲輪の道は、井伊氏時代の大手道ということで、石垣造りにしたのかな。ただ、歩くには、ちっときつい道です。

 最後に、大手門によって帰りました。

 箕輪城は、高崎市箕郷町西明屋・東明屋にある比高約20ⅿの丘陵城です。この城址には、十数年前頃に幾度か訪れてはいました。大馬出に立派な城門が復元され、整備も進んでいる様子を耳にはしていたのですが、なかなか行く機会がありませんでした。今回、多少お城巡りとしては時期が悪いのですが、平場の城ならば行けると思い、上田に行くより道として訪れました。                          訪城日:2024.6.20  晴れ

 城址へ行くには、関越道前橋ICを降りて上図のように行くといいと思います。主な駐車場が、西側の大堀切下にある虎韜門駐車場と東側の搦手口の箕輪城跡駐車場の二ヵ所です。ナビの案内で行きましたら、北側から入り西側の道を進んだので、虎韜門駐車場に着きました。以前訪れたことからすると、東側にもあるかとは思ったのですが、まぁーいいやと思いここから出発しました。(後で行った東の搦手口の駐車場は、トイレもあり整備された駐車場でした)

 ただ、城巡りとしては、どうも虎韜門駐車場から大堀切➡郭馬出の城門➡二の丸といったコースで三ノ丸の石積み➡鍛冶曲輪を下って戻ってくるのが、ベストな廻り方思いましたね。

  城歴(簡単に紹介)

 築城時期は不明ですが、浜川(高崎市)を拠点にしていた長野氏が、鷹留城を築いて拠点を移したのが明応年間(1492-1501)と推定され、その後の大永7年(1527)以前に長野憲業が箕輪城を築城したと思われます。

 箕輪城は、長らく発掘調査に関わってこられた秋本太郎氏によると、大きく3時期にわたる変遷が確認されるようです。『関東の名城を歩く北関東編-箕輪城』

1期ー本丸の南側と北側に堀があった時期で、おおむね長野氏と武田氏時期に該当する。

2期ー本丸北側の堀を若干埋めてプランを変え、さらに本丸の南側を埋め立て、新たに

    現本丸の周りを巡る巨大な堀を構築した時期で、おおむね北条氏の時代

3期ー本丸の北側の堀を埋め立て、本丸と御前曲輪の間の堀が掘られた時期で、おおむ  

    ね井伊直政期にあたる

 長野氏は、憲業の子の業政の時に最盛期を迎えますが、くしくも業政死去の永禄4年以降に西毛地域に侵攻する武田信玄に押され、永禄9年に箕輪城が落城、滅亡します。

武田氏時代ー永禄9年(1566)から天正10年(1582)

 当城を西上野支配の重要拠点と、重臣を配置しています

織田氏時代ー天正10年

 滝川一益が北条氏との神流川合戦で破れ、3ヵ月で退去

北条氏時代ー天正10年から天正18年(1590)

 北条氏邦が本城と鉢形城の城主を兼任し、対上方勢の来襲に備えて普請する。

徳川氏時代ー天正18年から慶長3年(1598)

 井伊直政が秀吉の直接指示により12万石で配置され、城普請をするが、慶長3年に新たに高崎城を築城し、廃城となる。

 二の丸にある縄張図です。虎韜門駐車場にもあれば、もっと良かったのにと思いましたね。

 今回の訪城の目的は、廓馬出の城門を見るためで、ぐるっとは回りましたが、あまり詳しくは見ていませんので、気になった所だけあたりを載せていきます。

 まずは、虎韜門駐車場から大堀切を郭馬出へ向かいます。

 大堀切で、説明板によると幅30ⅿ 深さ9ⅿとのことですが、発掘調査で堀底に直交する石垣が見つかりました。直交の石垣の役割は、敵を防ぐ防御壁と土砂の流出を防ぐ砂防ダムと考えられるようです。

 堀切の壁を見上げましたが、この上が三の丸です。直交する石垣は埋まっていますが、この下約⑤mに石垣上端で石垣の高さが2.5ⅿ以上なので、どうも実際の深さは約18ⅿほどとなり、べらぼうな規模です。2期にはあったようですが、この規模であったかちっとわかりません。

 郭馬出から二の丸に渡る土橋が見えてきました。野面積みの石垣があり、3期のもので復元されています。

 最大目的の郭馬出の城門に向かいます。

  いゃー、じつにいいです。「郭馬出西虎口門」と言うようです。

 周りの堀からそびえ立つ城門の姿は、青空に映えていました。ただ、お天気が良すぎて周りの明るさで,城門が暗く写ってしまいました。

  城門あたりを明るくしてみました。発掘時に井伊氏時代の8つの城門の礎石が見つかり、その配置等から2階建ての城門と推定されたようです。

  郭馬出西虎口門をくぐると郭馬出です。

 二の丸からの郭馬出です。馬出としては、大規模でこれほどの馬出は、諏訪原城(牧野城)の馬出に匹敵するか、それ以上なのかも。

 

この後、二ノ丸から三ノ丸・石垣➡本丸➡御前曲輪➡稲荷曲輪・丸馬出➡本丸東側堀を通り搦手口から二ノ丸に戻りました。それらは、-その弐ーで

 

参考文献

『関東の名城を歩く 北関東編』 峰岸純夫・齋藤慎一編 吉川弘文館

『戦国史-上州の150年戦争』  上毛新聞社

 千頭峯城は、浜松市浜名区三ヶ日町摩訶耶にある比高約70m(摩訶耶寺からは比高110m)の山城です。井伊谷城に続いて訪れました。  訪問日:2024.5.9  晴れ

 城址へは、東名三ケ日ICを降り国道362号、国301号を通り摩訶耶寺を目指します。お寺の先約800ⅿで右折して奥三河オレンジロードに入り、トンネルをぬけたすぐ先右側に駐車場があります。

 別ルートとして、東名三ケ日ICを降りて左折して約800ⅿ先の交差点で左折します。入った道が奥三河オレンジロードですので、約5km快適ドライブしますと、駐車場に着きます。このルートが分かりやすくお勧めです。

 ただ、摩訶耶寺の先にj紛らわしい説明版がありますので、ご注意ください。

 管理人は、この坂道の先700mとありましたので、行けども行けどもそれらしきものはなく、畑にいた方にも聞いても要領を得ませんでした。で、トンネルの先に駐車場があることを思い出して、ようやっと着いた次第です。くれぐれもご注意ください。

城歴

駐車場にある説明版からの抜粋です。

 千頭峯城は、大福寺の古い文書「瑠璃山年録編」によると、南北朝時代に後醍醐天皇の第八王子宗良親王を奉じて奮戦した井伊氏の西方、最大の拠点でした。

 南北朝時代の典型的な鶴翼型の山城で、曲輪,空堀、土塁などが今でも残っています。この城の周りには鯉山砦、中千頭砦、長岩砦、池田峠曲輪隠尾曲輪なども設けられ、一大砦群を形成していました。

 当時の守将は井伊氏一族の奥山朝藤といわれ、南朝方の廷臣や浜名神戸庄庄官県氏、大江氏をはじめ勤王の将兵数百名で籠城しましたが、北朝方の武将高師兼の大軍の攻撃に耐えかね、三ヶ月の攻防の末、暦応2年(1339)落城しました。

  この千頭峯城は、戦国時代に砦として再利用された形跡もありますが、長い間、詳細が解明されることはありませんでした。

近年になって、三ケ日町内の郷土史家や地元の千頭峯城史蹟保存会の会員の研究、保存活動のおかけで中世の代表的な城砦として、昭和56年(1981)、静岡県指定史跡に指定されました。

                静岡県教育委員会 浜松市教育委員会 千頭峯城史蹟保存会

 発掘調査が、昭和56・57年に行われ、出土遺物が16世紀初頭だったことから、16世紀前半頃に再利用されたことが推察される。その時期の永正8・9年(1511・12)頃、遠州に攻め込んだ今川勢と迎え撃つ斯波・井伊勢の戦いが井伊谷辺りを中心に行われています。この際に、どうも井伊氏内部の主導権争いもあったようです。斯波・井伊勢が立て籠もった三岳城は、再利用されたのは確かなようですが、その際に千頭峯城も再利用された可能性もあったと考えられます。

 さらに現在見られる遺構の特徴(注1)から、加藤理文氏は永禄年間後半から天正年間初頭(1568~1575年頃)の家康の遠江進攻以後に修築されたとみるのが妥当であると。千頭峯城は、東三河と浜名湖北岸を繋ぐ本坂峠・宇利峠越えの街道が合流する位置にあることから、地域の緊張が強まれば整備活用された城といえるようです。

 廃城は、武田氏が滅亡後ではないかと思われます。

注1

(静岡では)最高所から派生する各尾根筋上に階段状の曲輪を設け、堀切によって遮断し、重要曲輪には土塁を設ける特徴

※駐車場にある説明版の縄張図に加筆しています。

  駐車場横の道を下って少し進むと案内標識が見えてきます。

 13分ほどで城址東端の堀切1に着きました。上巾5ⅿ、深さ2~3ⅿほどでサボ大きい堀切ではありませんが、両端を竪堀で落しているため、尾根の遮断としてはかなり有効な備えといえます。で、どう進むか迷いました。東郭沿いに進み主郭に行こうか、それとも案内板の矢印に沿って井戸郭に行こうかと。矢印があるのでとりあえず井戸郭かなと。

 井戸郭で、堀切1から比高で約10ⅿ下にあります。素掘りで石積みは見られません。主郭や2郭から約30ⅿも下にあります。

  井戸郭から主郭に行けるようですが、この階段を上るのかと・・・で、ここからの水くみをした足軽などの苦労がひしひしと思われましたね。途中、東郭への案内があり、東郭へ。

  東郭は、3つの郭が階段状に尾根上に設けられています。段差は、約1ⅿほどですかな。藪に覆われていますので細部はよくわかりません。

  主郭への直登の階段に戻り二の曲輪(東)に向かいました。二の曲輪は、西と東に独立した腰郭です。縄張図がそのようになっていますので、それに準拠していますが、2郭と3郭としてもよいとは思うのですが。平虎口が設けられています。

 二の曲輪(東)から主郭への虎口。主郭東虎口でスロープのつく平入りの虎口です。

 主郭で、30×40ⅿほどの広さで、虎口は二ヵ所あります。中央西側に一段高い平場(方13ⅿ)がある。この背後西下に西虎口があるので、櫓台が建っていたのかもしれません。土塁は、見当たりません。

 西虎口で、正面に大きな石を使った手志垣があります。桝形虎口のようで、大手と思われます。この石垣の上が一段高い平場になっています。

  二の曲輪(西)と虎口です。坂虎口で、西曲輪に方向から入るものと思っていましたが、『名城を歩く』でこの城を担当した加藤氏は、南尾根からの道が大手と考えられるとしています。

そうしますと、大手道は南尾根を登って、主郭の壁を西側に沿って進み、この虎口に入り主郭西虎口に進むと、なりますか。妥当な見解のようです。

 二の曲輪(西)と西側の堀切2です。上巾6ⅿ、深さ3ⅿあまりです。

  西曲輪で、周囲を高1ⅿほどの土塁が取り巻いています。西下に数段の段郭があるようです。この西曲輪を中心とした曲輪群は、後から構築された感じがします。堀切2まであって増築されたと。この時期を加藤氏は、信玄の三河・遠江侵攻に備えて、元亀年間以降と考えています。 

 次に、南尾根の曲輪群に向かいました。

  かなりの急斜面にいくつかの曲輪がありますが、はっきりとした形としては見れません。西側の曲輪端に竪土塁が見られました。(右写真)

このあと、東尾根にある堀切1へ向かいましたが、明確な道は見られず、城の連絡路はこの方面にはなかったようです。

 

 駐車場へは手間取りましたが、その後はスムーズにまわれました。堀切、虎口、郭など意外によく残り、楽しく見てまいりました。車がないとちっと訪れにくい所にはありますが、お勧めの城址といえます。

 

 参考文献

『東海の名城を歩く 静岡編』 中井均・加藤理文編  吉川弘文館

 

 井伊谷城は、浜松市浜名区引佐町にある比高90ⅿほどの山城です。井伊谷は、近世井伊氏発祥の地です。前々から井伊直政に興味があり、中世井伊氏の本拠地にあった井伊谷城を訪れてみたいとは思っていました。           訪城日:2024.5.9  晴れ

 城址へは、東名三ケ日ICを降り国362号に入り、東に進み約9km先の清水橋交差点で左折して県320号に入り、北に約3km進み神宮寺信号を直進すると地域遺産センターに着きます。車は、ここの駐車場に置けます。城址は、背後の山なので建物の裏手の道を右に進み、多目的研修センター横の道を進むと登城口が見えます。主郭には、10分ほどで着きますが、あれこれ見ましたので、20分かかりました。

 初め多目的研修センターの駐車場に着きましたが、どうもここは城人は使えないことが分かり、図にある地域遺産センターの方に向かいました。

 地域遺産センターで、お城址から降りてからセンター内の常設展示「戦国の井伊谷」を見てきました。井伊谷城のジオラマがありました。

城歴

登城口の説明版に井伊氏について簡潔にわかりやすく書かれています。

 井伊谷城は、井伊谷を根拠地とした井伊氏によって築かれたのは確かだとおもわれますが、築城時期は定かではないようです。ただ、居館との関連が下図のように推察され、遺構を考察している齋藤氏は「城としての軍事性は著しく低いし言わざるを得ない。」とし「戦争を意図した城館として理解することは不可能である。」と「日常的な拠点の一ヵ所として取り立てられた城館」と推察しています。

 南北朝初期に、井伊氏が宗良親王を迎え遠江南朝方の拠点としたのが、要害性の高い三岳城にしたのもうなずけます。

 終末は、齋藤氏は南虎口の石垣で固められた礎石立ちの門から天正年間(1573-92)頃を上限としています。

主郭にある説明版にある縄張図

  多目的研修センター背後にある登城口です。

「山頂までは、徒歩15分ぐらいです。(距離:約300m)」とあります。

  山頂(主郭)までは、舗装され途中には「お休み処」も設けられています。これは、以前に大河ドラマ「おんな城主直虎」が放映された際に市が整備したようです。当城は小規模で登城路もさほどではありませんが、これほど立派な登城路は初めてでして、おかしいですが感激してしまいました。

 西虎口横の写真になりますが、何か横堀のように見える道あります。この道は、主郭を全周していますが、残念ながら横堀ではなく遊歩道のようです。

 

 主郭です。井伊谷城は、主郭のみの単郭で内部は二段になっています。土塁が取り巻いていたようです。虎口は二ヵ所で、大手の南 虎口と搦手の西虎口です。規模は、「長軸65ⅿ、短軸57ⅿほど、南側の土塁は幅2.5ⅿ、下からの高さ2ⅿほどです。」と、説明版に書かれています。

 主郭からの見晴らしは素晴らしいです。井伊谷というと何か狭い感じを受けますよね。わたしもそんな感じを想像していましたが、訪れたら以外にも広々とした田園風景で開放感のある地でした。それを一望する主郭からの風景でした。

  主郭上段は、自然地形のようで大きな石が転がり「井の宮石陵」の標柱があり、祭祀空間と考えられているようです。この地は、城の南西にある天白磐座遺跡と北東の三岳(御岳)神社の中間地点に当たり、城が居館の詰めの城という軍事的なものより、祭礼の場として築かれたものと考えた方が合理的あると齋藤氏は述べています。実際に訪れて。考えてみますと納得できます。

 下段は、削平されていたようで屋敷などがある空間と思われるようです。

 

 南虎口で、平入りで虎口の両側の土塁は高く、その壁面に石垣が3段程見られます。

 草に覆われて見にくいですが、一抱え程の石が数段(3段は確認)積まれています。礎石たち門が想定できるようです。この石垣から天正期までの時期が推定されると。

 西虎口で、平入りです。

 

周辺には、井伊氏等に関わる遺跡があり、歩いて訪れることができます。

 

その中で二ヵ所行ってきました。

 

 ここだけを訪れていろいろとみて回るのもいいのかな~と、思いましたが、いつものごとく別の城址に急き立てられるように行くんです。どうも、このパターンは変わらないですな。

 

参考文献

『東海の名城を歩く 静岡編』 中井均・加藤理文編 吉川弘文館

 

 さて、小生宅近所の池のカルガモ

いくつかの親子が巣立って

近くの川に引っ越していきました

 

カルガモの引っ越しは

以前に道路を渡る姿は見ていました

今回は、池→道路→川までの移動の様子

はじめてみました

 

まずは、池にて移動前です

おやおや、親鳥が二羽

二グループが一緒になって引っ越しかと

なにか 珍しいのではないかと 見てました

この先の低い石積みを登って隣の墓地に向かいます

何度か石積み登りを練習していますね

無事に姿をあらわしましたので ホッとしました

で、この先が大きな道路ですが

日曜の朝8時過ぎですので 大丈夫なのかと

 

さあぁ~ わたりはじめました

渡りとちゅうに 車が来ましたが 待ってもらいました

たのみに行ったので、写真がとれずにざんねん!

無事に 向こうの歩道に着き

草むらに入り込みます

 

ひと安心も束の間で

高さ5mはあります ここから飛び降りる

あぶない と、おもっても ただ見ているだけ

いちグループは 斜面の道を降りていきました

どうも、経験がある母鳥のようです

気絶するのも当たり前ですよね

この後起き上がり ホット

 

まだ 難関が

川には やはり落ち込まないと いけません

ただ先ほどより低く 下が草むらなので

どうやら無事に24羽 川に到着しました

やったね おかあさん

 

日曜日

8:04~8:42

の 

とてもハラハラの道中でしたが

しっかり者の母と勇気ある子どもに

はくしゅ 👏

 小生宅近所の池に

毎年 この時期にカルガモ親子の姿が見られます

 

今年は 少し遅く

どうしたものか 気になってはいました

まあ~小生が気をもんでもなー

 

ほほ 毎日といってもよいぐらいに池に通う連れ合いが

いた!

 

それも 2家族(でいいのか?)

親1子10  と 親1子14

親1子10 には どうも父親が 近くで見張り番しているようです

親1子14の家族

 

この家族 おととい 

道路を渡り 川に引っ越し した

 

親1子10 も 同じくおととい引っ越し

 

やはり残念なのは

途中で カラスが待ち伏せし 

あえなく 連れ去らけたと

 

まだ 池には

親1子2の家族がいます

 杉山城は、芳賀郡市貝町杉山にある比高40mの尾根突端にある。今シーズンは、栃木県那須方面に3回訪れた3回目第1日に訪れた1城です。  訪問日:2024.4,3 晴れ

 城址へは、市貝町役場近くを通る県道163号北上して、県道176号と交差するすぐ先の

左手が登城口があります。

 駐車場はありませんが、県道が新しくなったのか、旧道路が駐車できるようでしたのでとめさせていただきました。

 温室の間を進むと階段があり登った先に杉山観音堂があります。そこを左手に少し進むと右手に堀状の道があり、進むと土塁で囲われた平場にたどり着きました。どうも主郭のようです。

 方50ⅿほどの方形の主郭です。南西方向に二つの郭があるようですが、よくわからなかったです。

 主郭を取り囲む横堀は見事に残っていて、見ごたえがありました。

 

参考文献

『中世城郭事典 Ⅰ』

 村上城は、芳賀郡市貝町大字市塙にある比高30ⅿの山城です。何回に分けて栃木県東部の那須郡・芳賀郡の城館を訪れた際に行った一城です。訪問日:2024,4,3  晴れ

  城址へは、北関東道宇都宮上三川ICを降り、国4号を9km北上し平出交差点を右折して県69号に入ります。約18kmで左折して北上して観音山梅の里第一駐車場を目指します。城や観音堂が史跡のため、いたるところに案内板がありますので、それを目安にしてください。駐車場は、観音堂下に完備しています。

 本丸南下の寿命寺前にある説明版です。簡潔な紹介と縄張図かありましたので、載せておきます。

 観音山梅の里第一駐車場のすぐ脇に観音堂への階段があり、そこが登城口にあたります。城址碑も階段の横にあり、城址訪問としては、とてもありがたい構造です。

  主郭へは、観音堂横の竪堀?を登ると着きます。周囲を高1ⅿほどの土塁が取り巻いています。また、横堀が全周していて見事に残っています。ただ、東側にある2や3郭は、藪でおおわれて立ち入りが難しいのが残念でした。

参考文献

『中世城郭事典 Ⅰ』

 

 

  浄福寺城は、八王子市下恩方町にある比高約160ⅿの山城です。以前、この周辺の城址へは、よく行っていましたが、コロナ禍もあったためか、全く訪れる機会がありませんでした。今回、上越の城友のえいきさんより浄福寺城へのお誘いがあり、久しぶりの浄福寺城なので城友のノラさんもお誘いしまして、いってきました。   訪城日:2024.4.15  晴れ 

 今回の訪城が、4回目になります。2回目の訪城の後に、浄福寺城ーその壱その弐ーとしてブログに載せています。3、4回目の訪城では、2016年に出た『歴史家の城歩き』を参考にして回りましたので、齋藤説の確認といった感じになりました。

 上の縄張図は、斎藤慎一氏作図「東京都江戸東京博物館研究報告第6号」から借用し、説明のため加筆しています。赤線は、斎藤説の大手筋と搦手筋?と推測し記入しています。

 登城口は、やはり浄福寺からが一般的で、わたしも4回ともこちらから登ります。大手筋と思われる恩方一小方からは、以前より道が荒れていて登るより降りてくる方をお勧めします。本堂左手の墓地奥にある白山神社横から主郭南虎口に至る登城路があります。

 白山神社から少し(比高50m)登ると観音堂が建つ平場があります。南尾根②の先端部になり、眼下を通る街道の見張所があったのでしょうか。

 観音堂の平場からなだらかな登り坂(比高50m)を約200ⅿ行くと、そそり立つ切岸に着きます。この南尾根の防衛拠点なのでしょうかね。

 写真奥にある切岸は高7~8ⅿほどで、その上に2段の小平場があり、切岸手前に細尾根をさらに狭める竪堀が設けられていますので、攻め手とするとかなり苦戦を求められるかと。かなり手の込んだ造りとなっています。さらにですが

  そのさらにですが、切岸の真ん中に竪堀があるんです。現在はここを登り道として使っているようですが、本来の城道は左手を「く」の形で行くようです。このような切岸の竪堀は、それなりに山城を訪れていますが,見たことがありません。ほんに珍しいです。ただ、どんな役

割を考えて掘ったんでしょうかね。

 縄張図は、『歴史家の城歩き』から借用。

 また少し(比高50m)登ると主郭です。主郭には二か所の虎口があります。

①南虎口(虎口d)は、スロープ状に登る坂虎口で上から横矢が掛かる仕組みになっています。

②東虎口(虎口C)は、主郭から舌状に突き出た突端に土塁で囲われた枡形の虎口です。

ただ、二か所の虎口のほかにも虎口が見られます。

 上図の中央虎口です。東虎口から入った後、主郭中央部にある一段高い平場に向かう道と、南端に沿って主郭に入る道です。主郭中央部の高い平場は、櫓台というより「軍事生以外の性格を読み解いた方がよい」とお二人の意見は一致しています。

 現在は、藪に覆われて判別しにくくなっています。

 

 どうも、浄福寺から南尾根を登り主郭に至る登山道は、道もはっきりし整備もなされているようですので、主郭までは訪れる方もいるようです。どうもその先は、以前と比べると荒れていて一般的なハイキングコースとは言いにくいです。まぁ~、城巡りの方でしたら普通といった感じではありますが。

 

この続きはーその参②ーで。

 

参考文献

『歴史家の城歩き』 中井均・齋藤慎一著 高志書院

 金鑚御嶽城は、児玉郡神川町渡瀬にある比高約190ⅿの山城です。城は、上武国境武蔵側にあり、金鑚神社御神体の山である御岳山に築かれている。ここは、以前に城郭に詳しい専門家の方がよくその名を出していましたので、一度は訪れてみたいとは城とは思っていました。今回、群馬を訪れる機会があり、そのことを思い出し寄ってみることにしました。

                                      訪城日:2024.2.19 晴れ

 城址へは、関越道本庄児玉ICから国462号を西進し、約11kmに先に大きな鳥居が見えてきます。金鑚神社の壱の鳥居です。ここをくぐって少し進むと左手に駐車場があります。

 拝殿の左手の道が登城路です。二股に分かれますが、右手は約500段ほどの階段の道で、左手は法楽寺跡や屋敷地跡を通るハイキングコースでなだらかな道です。

 わたしは、往路に階段の道で復路にハイキングコースの道で行きました。階段をあまた登るはきつかったですが、この選択がどうもベストと思われます。これから登城される方にお勧めです。

城歴

 文明12年(1480)に安保吉兼が南北朝初めごろに長井斉藤別当実永が築いた城を再築したものと伝わりますが、あまり定かではないようです。

 文明12年頃のこの地域は、かなり緊張した状況だったようです。長く続いた享徳の乱が、ようやっと終末を迎えようとした天明11年に長尾景春が児玉郡で再蜂起して長井六郎の要害に入り、さらに秩父に入っています。そのため、太田道灌は、長井要害の攻略の陣所として金谷談所を予定していた。

 この長井要害の場所が不明ですが、一般的には深谷市の西城ではないかといわれることが多いようですか。ただ、金鑚御嶽城という説もあり、わたしとしてこちらに組みしたいと思うのです。それは、景春が長井要害のあと秩父に入っていますが、金鑚御嶽城のすぐ南に秩父かあり、道灌が陣所とした金谷談所は金鑚御嶽城から北東約3kmほどです。

 このことが、金鑚御嶽城は、15世紀後半の享徳の乱の頃には、存在し長井六郎が城主だったと考えられます。ただ、この時期は城といっても砦程度のもので山上に立て籠もる程度のものだったと思われます。その後、この地域は安保氏が治め、金鑚御嶽城も安保氏が領有して思われます。

 当城が、上武国境境目の城として激しい争奪戦を迎えるのが16世紀の後半です。

①天文21年(1552)1~3月の金鑚御嶽城合戦

関東管領上杉方の安保泰広の守る御嶽城を北条氏康が攻め、攻略した。 安保氏は、北条方の城主として引き続き在城していたと思われます。その後、越後上杉氏に備えた城の改修が北条氏によってなされ、北条氏の番城となり城主平沢政実(城将か?)がおかれていたようです。

②永禄12年(1569)~元亀元年(1570)

 永禄12年の信玄の金鑚御嶽城攻めは、武蔵の氏邦の鉢形城・氏照の滝山城を攻めたのち、相模の北条氏本城の小田原城を包囲して、北条氏を挑発した一連の作戦のもとに起こされ者といえます。なので、落城を目指したものではなかったと。

 元亀元年6月に城主の平沢氏を調略して攻略し、城兵千人を入れて普請を行った。永禄10年に北条・武田両氏が上武国境付近の国分け協定が行われ神流川を境としたので、金鑚御嶽城が武田方になることによって神流川を越えて武蔵に拠点ができたことは、武田にとて重要な戦略的意義があったと考えられます。

③元亀2年12月に甲相同盟がなり、武蔵が北条領となり、金鑚御嶽城が北条方に引き渡された。

 廃城は、定かではありませんが、天正18年の小田原合戦で北条氏が滅んだ後頃ではないかと思われます。

 拝殿から左手の方向に少し進むと道が二手に分かれます。

右手・・・階段の道で鏡岩を見て東郭に至る

左手・・・法楽寺跡を見て東郭に至る

わたしは、右手に進み、主郭に至って、左手の道から帰ってきました。

初めてのコースでしたが、この順路がよかったと思います。

 御嶽の鏡岩で、二股の別れから石碑や石仏を見ながら15分ほどで着きました。

  鏡岩からすぐ上が東郭に着きます。二股から法楽寺跡を通る道もここに至ります。物見の郭といえます。奥に岩山があり、奥宮が鎮座していますいますが、上の主郭を先にしましたので、後程ご紹介します。

  御嶽山山頂の主郭へ向かいます。

 「男坂」「女坂」の表示板があり、連れがあり「女坂」を進みました。「男坂」は、主郭直下の壁がかなりきついようです。ただ、堀切2があり見損ねましたので、帰りにみてきました。

堀切2からの主郭へ登る切岸。きつそうです。

 主郭で、あまり広くはなく、物見所として使ったのではないかと思います。

周囲は急崖で下が見通せませんが、北側が少し良さそうなので、連れを置いて行ってみました。

 急坂を下り少し進むと幅6ⅿ、深さ4ⅿの堀切3があります。

 堀切2の先が2郭ですが、籔っていて内部の様子は定かではありません。ただ、先端部に土塁と虎口があるとのことなので、言ってみました。

  土塁は、ある程度確認できましたが、北東部に降りる虎口はよくわかりませんで、少し窪んだところがそれなのかと思い、写真を撮ってきました。

 帰り際、石積みがこの郭の東に延びる尾根にあることを思い出し行ってみました。

 ありましたね。大きな石を数段積んだ石積みです。長さ10ⅿ以上にわたって見られました。いゃあ~、思い出しよかったです。

 この後、主郭に戻り大手筋と思われる西尾根に行こうとしましたが、落ち込みそうな急崖と藪でこりゃあとてもではない感じて、やめにしました。まぁ~連れもいたこともありましたので。

帰りに東郭先端部にある岩山に寄りました。

 ここに金鑚神社の奥宮の社が祀られていました。

  岩山からの景色は良かったのですが、お天気が良く無くかすんでいたのが残念でした。

振り返ると金鑚御嶽城の御嶽山が見れました。

 

帰りは、法楽寺跡方面の道を下りました。

 道沿いに平場が見られ、宿坊跡の平場が数段見られます。法楽寺は、明治5年の

修験道廃止令により廃寺になりました。

 

 かっては金毘羅山の階段をあまり苦労せずに登りましたが、年を取りましたので、ここはきつかったですね。遺構はあまり見られませんでしたが、主郭まで行かれ、さらに立派な石積を見ただけでも良しとします。

 

参考文献

『関東の名城を歩く 南関東編』 峰岸純夫・齋藤慎一編 吉川弘文館

『古河公方と伊勢宗瑞』 則竹雄一著 吉川弘文館

『享徳の乱』 峰岸純夫著 講談社選書メチエ

『太田道灌と武蔵・相模』 伊藤一美著 戎光祥出版

『信玄の戦略』 柴辻俊六著 中公新書

『武田信玄』 笹本正治著 ミネルヴァ書房

『武田氏年表』 武田氏研究会編 高志書院