千頭峯城は、浜松市浜名区三ヶ日町摩訶耶にある比高約70m(摩訶耶寺からは比高110m)の山城です。井伊谷城に続いて訪れました。  訪問日:2024.5.9  晴れ

 城址へは、東名三ケ日ICを降り国道362号、国301号を通り摩訶耶寺を目指します。お寺の先約800ⅿで右折して奥三河オレンジロードに入り、トンネルをぬけたすぐ先右側に駐車場があります。

 別ルートとして、東名三ケ日ICを降りて左折して約800ⅿ先の交差点で左折します。入った道が奥三河オレンジロードですので、約5km快適ドライブしますと、駐車場に着きます。このルートが分かりやすくお勧めです。

 ただ、摩訶耶寺の先にj紛らわしい説明版がありますので、ご注意ください。

 管理人は、この坂道の先700mとありましたので、行けども行けどもそれらしきものはなく、畑にいた方にも聞いても要領を得ませんでした。で、トンネルの先に駐車場があることを思い出して、ようやっと着いた次第です。くれぐれもご注意ください。

城歴

駐車場にある説明版からの抜粋です。

 千頭峯城は、大福寺の古い文書「瑠璃山年録編」によると、南北朝時代に後醍醐天皇の第八王子宗良親王を奉じて奮戦した井伊氏の西方、最大の拠点でした。

 南北朝時代の典型的な鶴翼型の山城で、曲輪,空堀、土塁などが今でも残っています。この城の周りには鯉山砦、中千頭砦、長岩砦、池田峠曲輪隠尾曲輪なども設けられ、一大砦群を形成していました。

 当時の守将は井伊氏一族の奥山朝藤といわれ、南朝方の廷臣や浜名神戸庄庄官県氏、大江氏をはじめ勤王の将兵数百名で籠城しましたが、北朝方の武将高師兼の大軍の攻撃に耐えかね、三ヶ月の攻防の末、暦応2年(1339)落城しました。

  この千頭峯城は、戦国時代に砦として再利用された形跡もありますが、長い間、詳細が解明されることはありませんでした。

近年になって、三ケ日町内の郷土史家や地元の千頭峯城史蹟保存会の会員の研究、保存活動のおかけで中世の代表的な城砦として、昭和56年(1981)、静岡県指定史跡に指定されました。

                静岡県教育委員会 浜松市教育委員会 千頭峯城史蹟保存会

 発掘調査が、昭和56・57年に行われ、出土遺物が16世紀初頭だったことから、16世紀前半頃に再利用されたことが推察される。その時期の永正8・9年(1511・12)頃、遠州に攻め込んだ今川勢と迎え撃つ斯波・井伊勢の戦いが井伊谷辺りを中心に行われています。この際に、どうも井伊氏内部の主導権争いもあったようです。斯波・井伊勢が立て籠もった三岳城は、再利用されたのは確かなようですが、その際に千頭峯城も再利用された可能性もあったと考えられます。

 さらに現在見られる遺構の特徴(注1)から、加藤理文氏は永禄年間後半から天正年間初頭(1568~1575年頃)の家康の遠江進攻以後に修築されたとみるのが妥当であると。千頭峯城は、東三河と浜名湖北岸を繋ぐ本坂峠・宇利峠越えの街道が合流する位置にあることから、地域の緊張が強まれば整備活用された城といえるようです。

 廃城は、武田氏が滅亡後ではないかと思われます。

注1

(静岡では)最高所から派生する各尾根筋上に階段状の曲輪を設け、堀切によって遮断し、重要曲輪には土塁を設ける特徴

※駐車場にある説明版の縄張図に加筆しています。

  駐車場横の道を下って少し進むと案内標識が見えてきます。

 13分ほどで城址東端の堀切1に着きました。上巾5ⅿ、深さ2~3ⅿほどでサボ大きい堀切ではありませんが、両端を竪堀で落しているため、尾根の遮断としてはかなり有効な備えといえます。で、どう進むか迷いました。東郭沿いに進み主郭に行こうか、それとも案内板の矢印に沿って井戸郭に行こうかと。矢印があるのでとりあえず井戸郭かなと。

 井戸郭で、堀切1から比高で約10ⅿ下にあります。素掘りで石積みは見られません。主郭や2郭から約30ⅿも下にあります。

  井戸郭から主郭に行けるようですが、この階段を上るのかと・・・で、ここからの水くみをした足軽などの苦労がひしひしと思われましたね。途中、東郭への案内があり、東郭へ。

  東郭は、3つの郭が階段状に尾根上に設けられています。段差は、約1ⅿほどですかな。藪に覆われていますので細部はよくわかりません。

  主郭への直登の階段に戻り二の曲輪(東)に向かいました。二の曲輪は、西と東に独立した腰郭です。縄張図がそのようになっていますので、それに準拠していますが、2郭と3郭としてもよいとは思うのですが。平虎口が設けられています。

 二の曲輪(東)から主郭への虎口。主郭東虎口でスロープのつく平入りの虎口です。

 主郭で、30×40ⅿほどの広さで、虎口は二ヵ所あります。中央西側に一段高い平場(方13ⅿ)がある。この背後西下に西虎口があるので、櫓台が建っていたのかもしれません。土塁は、見当たりません。

 西虎口で、正面に大きな石を使った手志垣があります。桝形虎口のようで、大手と思われます。この石垣の上が一段高い平場になっています。

  二の曲輪(西)と虎口です。坂虎口で、西曲輪に方向から入るものと思っていましたが、『名城を歩く』でこの城を担当した加藤氏は、南尾根からの道が大手と考えられるとしています。

そうしますと、大手道は南尾根を登って、主郭の壁を西側に沿って進み、この虎口に入り主郭西虎口に進むと、なりますか。妥当な見解のようです。

 二の曲輪(西)と西側の堀切2です。上巾6ⅿ、深さ3ⅿあまりです。

  西曲輪で、周囲を高1ⅿほどの土塁が取り巻いています。西下に数段の段郭があるようです。この西曲輪を中心とした曲輪群は、後から構築された感じがします。堀切2まであって増築されたと。この時期を加藤氏は、信玄の三河・遠江侵攻に備えて、元亀年間以降と考えています。 

 次に、南尾根の曲輪群に向かいました。

  かなりの急斜面にいくつかの曲輪がありますが、はっきりとした形としては見れません。西側の曲輪端に竪土塁が見られました。(右写真)

このあと、東尾根にある堀切1へ向かいましたが、明確な道は見られず、城の連絡路はこの方面にはなかったようです。

 

 駐車場へは手間取りましたが、その後はスムーズにまわれました。堀切、虎口、郭など意外によく残り、楽しく見てまいりました。車がないとちっと訪れにくい所にはありますが、お勧めの城址といえます。

 

 参考文献

『東海の名城を歩く 静岡編』 中井均・加藤理文編  吉川弘文館