新宮城は、喜多方市慶徳町新宮にある比高数㎡の平城です。この近くにある新宮熊野神社の拝殿である「長床」をまだ見たことがありませんでした。で、そのついでとはなんでしたが、新宮城をおとずれました。               訪城日:2021.10.18  晴れ

  城址へは、喜多方駅から県道16号を西に進み、約3km先の交差点で左折し、県道336号を南に約1,5km行くと城址です。駐車場(外郭)は主郭南側にあり、かなり広いです。

新宮城駐車場

城歴

 会津新宮城は、新宮荘の荘地頭としてこの地を領した新宮氏が築いたが、いつ築城されたかは定かではありません。1974年・2002~2006年の発掘調査からある程度のことが判明しているようです。

 その調査報告から飯村均氏は、「新宮城は新宮荘の荘地頭であった新宮氏の居館であり、13世紀後半には成立し、14世紀から堀・土塁が徐々に大規模に整備され、15世紀前葉に廃絶したと考えられる。」(『東北の名城を歩く 南東北編』)としています。

 奥州合戦の戦功により会津を与えられた三浦佐原義連が、六男時津に新宮(荘)を与えたことから新宮氏を名乗るようになったと伝えられています。ただ、三浦氏は、北条氏との抗争に敗れほぼ一族が滅亡する中で、佐原氏系は北条氏方に組みすることで生き残り、会津を領するようになったようです。ですので、佐原氏一族が会津に下向、土着していったのが鎌倉期後半とされるようです。新宮氏もこの流れの中で地頭職を有していた新宮に土着し居館を構えのでしょう。それが新宮城の地だあったかどうかは定かではありませが、鎌倉期末には、この地に居館を構えたようです。

 新宮氏は、会津盆地の北西部を領し、周辺の同族(北田氏・葦名氏・加納氏等)との争いの中で、さほど防御力のなかった居館を逐次改修・増強していたものと思われます。15世紀初頭前後に会津の支配をめぐり同族間の抗争が激しさを帯びてきます。応永九年(1402) に加納氏を滅ぼした新宮氏は、葦名氏との抗争の中で応永22年(1415)に葦名氏に新宮城を攻められ落城します。その後、新宮氏は越後に逃れ再起を図りましたが、越後小河荘の津山城攻めで金山氏(葦名方)に敗れ滅亡したとされています。

 その後、葦名氏が使った形跡もないようなので、廃城となったと思われます。

 主郭の東側中央に立つ城址碑です。お天気が良すぎて城址碑の文字が見えないの残念です。主郭の広さは、ほぼ方形で一辺約100ⅿ強で、土塁が全周していたようです。す。発掘で礎石建物跡があり持仏堂ないしは社殿のような宗教的な建物と考えられるようです。構造としては、かなり宗教性の強い居館と考えられるようです。  

 城址碑前の道路ですが、主郭東側の内堀でした。

 主郭北側と西側の内堀です。幅は、約15~20ⅿです。

 駐車場が、主郭南の内堀と外郭の一部のようです。駐車場の端に土盛があり、見たときはなんでこんなところに盛り土があるのか分かりませんでしたが、残存土塁でした。この土塁の左手下に南側の外堀のようです。残念ですが、確認していません。南側と北側(埋め立てられている)の外堀は、自然の谷を利用したもののようです。

 

 室町前期の平地居館の遺構が残る、珍しい城館です。近くの新宮熊野神社(こちらの方が有名)に行った際には、こちらもぜひ訪れてみてください。

 

参考文献

『東北の名城を歩く 南東北編』 飯村均・室野秀文編 吉川弘文館

『東北中世の城』 竹井秀文・齋藤慎一・中井均編 高志書院