ネットで悪口を書くのとその反論を書く行為はどちらも変わらないことかも | A Day In The Boy's Life

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とあるエンジニアのとある1日のつぶやき。

しばしばネットで誰か個人の悪口をぶつけて炎上したりすることがあります。

例えば、ブログで一方的な強烈な意見をぶつけ、それへの反論として大量のコメントがついたりという具合に。

そういった行為は、炎上が炎上を呼ぶ格好となりなかば「みんな反論しろ!」というような祭り状態になりますが、書くほうも書くほうでやってることは変わらないのかなと思ったりしました。



インターネットという公共性


ネットでそのような悪口を書いたりすることがダメとされる一つの理由には、インターネットの公共性があったりします。

多くの人が目にするインターネット上で、そのような偏重した意見を述べること自体が間違っているというものです。


しかし、インターネットの公共性って本当なのでしょうか?

確かにインターネットって誰でも目にしようと思えば目にすることはできたりしますが、何かしらの能動的な行動を取らなければ目にすることはできません

部屋でテレビをつけた場合、そこで流される情報は見ている限り勝手に頭に入ってきますが、インターネットではその情報を選び、そして読むという行為があるため、テレビほど情報が入ってくる敷居というのは低くないと感じます。


まず、その話題となっている情報をどこかで知る必要があります。

これは、致し方なく目にするところも多かったりします。

自分がよく巡回するニュースサイトなんかで取り上げられたりしますし、はてブなどソーシャルブックマーク上で押し上げられることがあったりもするからです。


次に、その情報を知った場合、そのサイトを訪問するという判断に迫られます。

ここで、それを回避することも十分できます。

炎上具合を知りたければ、そのサイトを尋ねてもざっと斜め読みするぐらいで深く読まなければなんとなくのイメージをつかめたりして、その話題に感情を移入することなく怒りなどを起こさない方法を取れるでしょう。

何れにせよインターネット上で嫌な気分を味わいたくなければ、そういったものに近づかないという選択を取るのが一番ではないでしょうか。


また、多くの人の目に届く場でそのようなことを書くことがいけないといっても、結局それによって気分を害されるのは本人だけだったりします。

そのエントリを読んで気分を害されたのは自分自身であって、多くの人はその記事を他の人が目にすることに怒りを感じている、ということは無いと思います。


これは、例えば街中の喫茶店で隣の席で悪口を言い合ってる人たちがいて、その会話が聞こえることによって苦痛を受けている状況と大差は無いわけです。

どちらかというと、こっちの方が不可避の場合もあったりしますので、そういう場面ほど注意すべき場ではないでしょうか。



ネットの利便性の悪用


もちろん私はネットで悪口を書くのも個性の一つだとして認めているわけではありません。

そういったことは書いてほしくありませんし、炎上している様子も含め、目にしたくもありません。


しかし、そのように悪口や極端な意見を書いてしまうのは、ネットがより簡単に情報を発信できてしまう、その利便性を悪い方に活用してしまえるからだと感じます。

そして、匿名性の高さから誰しもあるであろう内なる声というものを、簡単に表現できる雰囲気が作られてしまうこともあるかもしれません。


ただ、そのような意見に対して反論をするのもまた、ネットの利便性を悪い方向に活用している例ではないでしょうか。

それが極端な反論である場合、それを目にした人の気分を害することもあることだと思います。

結局のところ、お互いが悪い活用の仕方をしてしまって、より悪い結果を作ってしまっているのかなと。


それがどうすれば解決していくのか、私自身あまりはっきりとした答えを持っていませんが、ネットでよく言われるそんな意見は無視するというのが今のところ一番良い方法かもしれません。

反応が欲しくてそういったことを書いているということもあるので、反応そのものが零に近ければ、書き手の落胆も大きいでしょう。


何れにせよ、情報をスルーできる選択肢というものを持っているわけですし、悪い活用方法に悪い活用方法で対抗するというのは、あまり大差が無い行為だなと感じたりします。