自分の単価を知らないことで生まれる弊害 | A Day In The Boy's Life

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とあるエンジニアのとある1日のつぶやき。

情報システム部門の要員は自分の単価を知っている人が少ない。

こう書くと、驚く人も多いのでしょうか。

人月ベースのコスト換算は害悪だと言う人も多いですが、自分の単価を知らないこともまた問題だなと感じることがあります。



自分の価値を知らない


生々しく自分の単価が書かれた請求書や見積書を見るというのはあまり気分の良いものではありません。

自分の単価を突きつけられるというのは、自分の生み出す存在価値というものを明確に突きつけられますし、モノのように売られていく印象に嫌悪感さえ覚えたりもします。


しかし、悪いところがあるにしろ数値化するというのは、人にとってわかりやすい部分もあります。

自分が生み出している価値の大きさを知ることもできますし、目標と言うものもわかりやすくなります。

その価値と言うものが知らないと言うのは、自分の生み出す効果の大きさや存在そのものを図る術も難しくなります。


情報システム部門は特に社内向けのシステム構築や運用などが中心になり、(企業によると思いますが)社内売りを立てないと、自分たちが作ったものがどれほどの効果をもたらしたのかを知ることもできません。

また、プロジェクトの多くは業務効率化を中心としたコスト削減効果を狙ったもので、会社の売上げに直接的に貢献するようなものは余りありません

そして、企画書に書かれたコスト削減効果というのは、その時の紙面に残されているだけで、多くは終ると次のプロジェクトへ、というように定常的に計測することは行われないことが多いのではないでしょうか。


情報システム部門の仕事は区切りなき仕事が多くあります。

システム化の企画や構築が終れば、保守・運用フェーズに入ります。

そして数年後にはリプレイスの企画が持ち上がったりします。

その一つ一つを外部のSIerに頼めば幾らかかるというその価値を、そのまま請け負っているにもかかわらず、それを知らず気づかせずに働いていたりするわけです。


そこに確かに価値を生み出しているのに、その価値を知らないと言うのは不当に低く扱われるリスクがあるのでは、と感じたりします。

それは、ビジネスにおける金銭感覚を養えていないから、と言えるかもしれません。

自分の単価と存在価値を知らないことで、他人と比べてどうなんだというその評価軸がわからなくなります。


自分が評価されていてもそれが高い分類なのか、低い分類なのかの判断がつきません。

そして、それは比べることの価値さえも失う状況になるのではと感じます。



誰がやっても同じと言う風習


自分たちの存在や作ったものがどれだけの価値があるものなのかを知らないと言うのは、どんなことをしても誰がしても生み出す価値は一緒、と言う競争の無い世界を生み出すことにもなります。

上級SEでも下級SEでもその人が動くことに、何ら疑問を持たなくもなったりします。


単純にもらっている給与で割って時間給を割り出して、幾分かの差があることはわかっても、それによって生み出さなくてはならない価値というのは、さらに数十倍の差があることを知らなかったりします。

年収300万円の人が生み出さなくてはならない価値は300万円であるはずはありません。


自分の価値、他人の価値がわからない状況だと、それを意識することなく「手が空いているようなので雑務を頼もう」という状況にもなりかねません。

本来的には、それ以上の価値を生み出さなくてはならない人が、それ以下の仕事を平然とさせられる状況にもなります。

自分の価値がわからない人が、果たしてそれ以上の価値を生み出すことができるのか、とも言えると思います。

そしてまた、そのような状況の中で切磋琢磨して自分の価値をあげていこうと考える人も少なくなっていくのではないでしょうか。


何も人月ベースで考えることのメリットを強調したいわけではありません。

結局のところ、自分の価値を知ったところでその本当の価値を決めるのは、お客さんです。

下記の記事にあるように、自分の価値はこれだけだから、それだけの価値を与えたんですよなんて独りよがりなことを言っても、不満をもたれるだけで納得してくれるはずもありません。


経産省が脱・人月を目指す「情報システムのPBCに関する調査研究」報告書を公開 @ ITpro


その価値と言うのはあなたの会社が与えた価値であって、世間一般で正当に評価されたものとは、また異なったものでしょう。

ただし、それでもその価値を知って働くと言うことと知らないとでは、働く上で大きな違いを生み出すものになるとも感じたりするわけです。