「表現ツールの多様化、ブログに代わるもの 」の中でも少し書いたことなのですが、昔なら書けたネタがかけなくなってきてるなって最近良く感じます。
それは、書いても反応が薄いだろうな、と思うところがある一方で、自分以上にうまく書ける人の存在を知ってしまったが故にかけなくなったものもあるな、と思います。
自分以上にうまく書ける人、というのは自分以上に知識が豊富で専門的な見解を述べられる人、と言うことです。
ネットをしてると、本当この人すごいな、って思う人がごろごろいます。
そういう人を真似て自分なりの意見をブログに書いてみても、自分としてかなり見劣りして感じられてしまうんですよね。
そういう記事を自分が書くより先に見つけてしまうとなおさら。
例えば、最近話題になった下記の記事。
SMTPに置き換わるものといきまくこのサービスの紹介記事を見れば、過去に電子メールの問題やそれに変わるサービスとは何か、見たいなことを書いているところからも食いつきたくもなるのですが、ネット上で他の人の書いている関連するエントリを読んだら、それ以上は何もいえない、となってしまいました。
エントリを書けることは書けると思うんですけどね。
(無いと思いますけど)もしこれが本当にメールに置き換わって、プロトコルとしてデファクトになってしまったら、Googleってとんでもないサービス基盤を形成することになるんだろねとか、コミュニケーションがシームレスにするには、一つの統一したサービス基盤を作るしかないんだろなとか、インターネットのオープンな環境であればこれでいいけど、企業内はどうするんだとか。
ただ、なんかそれ以上に具体的に突っ込んで書くことができないと言うところから止めてしまいました。
単にWebサービスを分析すると言うだけであれば、個人的な意見を書くだけでよいのかもしれません。
自分の場合、エンジニア視点で書こうとしているところがいけないのかもしれませんが。
逆に言えば、そう書きたいと言う願望があったりもします。
そして、自分以上の視点で書いている人を見ると、それだけでお腹いっぱいになってしまうところと、自分の考えが随分と貧相に見えてしまったりもします。
なんとも情けないところですが、どこかで否定されることを怖がっているのかもしれません。
ネットって自分の可能性を広げられる場所だと思いますが、一方で、自分の力量をさらけ出される場所でもあるなと、感じたりします。
それまで自分にとって当たり前のことがそうでなかったり、身の回りの小さな世界のレベル感がとんでもなく低いものであると感じられたり。(もちろん逆の場合もありますが)
ネットの世界にいてそれが楽しくて明るく振舞っていられる人は、とんでもなくタフな人か、鈍感な人かのどちらかなのかなと言う思いもあります。
昔は、そういう人の存在をあまり知らなかったが故に、どんどんとエントリをかけていけたりしました。
気にしていなかったというか、周りが見えていなかったと言うか、鈍感だった故の強さと言うものが合ったように思えます。
ただ、そういうところって大事なのかもな、って思ったりもしています。
怪我をしてからじゃ遅いって時もありますけど、怪我をしなければわからないこともあったりするわけで、向こう見ずに突き進んでいく勇気を持っているというのは強さだとも思います。
もっと、食いつけるところには食いついておけ、という積極性っているなと今の自分には感じたりします。