伊地知正治 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

伊地知正治、通稱龍右衞門、文政十一年九月、鹿兒島加治屋町に生る。兵學を以て島津氏に仕へ、軍賦役となる。明治戊辰、東山道參謀として奧羽に出征、若松城を陷れて凱旋した。明治二年、永世祿千石を賜はる。同四年、中議官、同五年、大議官、同七年、議長、同八年、一等侍講、また修史局副總裁、同十年、修史館總裁、同十七年、伯爵を授けらる明治十九年五月二十三日、病に罹りて逝く。六十歲。
 正治、精悍の氣、奇醜の貌、足が跛で步む形狀おかしく、加ふるに眼を患うて眇目であつたから、見る人皆之れを侮つた。正治の母、常に誡めて曰ふ、跛の身でよく武士になれるかと。正治、卽ち奮つて文武の道を修め、大に勵精した。正治の師は鹿兒島の近鄕數里距つた土地にゐた故、正治、宵に家を出でゝ燈下に學び、更に夜を冒して歸りを急いだ。
 正治、少時、群少年のために橋上に要せられ、兩手を橋上に縛された。正治、從容として毫も騷がす、唯、止めよ〳〵といふのみで、平然として書籍を暗誦して、手の縛せらるゝを知らざる樣であつた。群少年、慙ぢて直に繩を解いて謝した。
 正治、年少にして其英才を以て知られ、種子島六郞、兒玉源之丞と共に、江戶遊學を命ぜられ、昌平黌に入つた。正治、身を持す事嚴にして、節儉時に吝嗇とまで評せられた。しかし、後に藩命によりて歸國する時、種子島、兒玉の二人は旅費のないのに苦しんで、之れを正治に謀ると。正治、襟にかけた財布を示して、かゝる時の用意にと思うて、豫てから心掛けてゐたのであると吿げた。二人こゝに於て始めて平常の吝なる所以を悟り得た。
 幕末の頃、京都に在る薩兵中、放縱なる者があつたから、正治之れに歸國する事を命じ、少許の旅費を給した。其兵士旅費の過小なるを以て國へ歸るには不足であると訴へる。正治曰く、我れ曾つてこれだけの金でよく國に歸り得た事があるから、汝も之れで充分歸へれる筈であると諭して、去らしめた。
 正治、眇目、跛足で、其步む姿勢は、宛も骨無き者の如くであつた。爲に部下の之れを侮る風があつたから、正治の發した軍令は殊に峻烈嚴肅のものであつた。曾つて、京都岡崎に於て、藩兵操練を司つた時、一隊の少し遲れて來たものがある。正治、令に違うを責めて、列に加ふるを許さず。之れを嘲つて、戰爭過ぎて、矢の根、刀の折を拾ひに來る輩に類するものと評した。
 官軍の諸將、幕軍を鳥羽伏見に擊つて破り、長軀江戶に赴かんとする際。此行、正治を除くがよい、彼は實に厄介者であると、口々に評してゐたけれど、誰あつて之れを正治に吿げるものがない。遂に西鄕隆盛を煩はした。西鄕、正治を見て曰く、諸將盡く江戶に向はゞ、京都を守る者がない、京都の守護は甚だ重責である、君やつてくれぬかと。正治激怒し、刀柄に手をかけて、吉モウ一度言つて見いとつめ寄る。西鄕驚いて逃れ歸つた。西鄕すら斯の如くでは、諸將遂に正治を說く事の不可能なるを悟つた。
 東北征討に對する大村益次郞の案は、先づ枝葉を斷つて、根本を孤立せしむる策であつたが正治、板垣退助と謀り、枝葉を刈るに空しく歲月を曠費してゐては、奔命に疲れて了ふ。寧ろ敵は其境を守る者が多くて、却つて中堅の虛しうなつてゐるに乘じ、驀進して若松城を衝き、其根蒂を動搖せしむるが最も策の得たるものである。之れに加ふるに、東北の地は漸く風雪の季節となるから、今の內に吾軍を進出せしめて勝を制しやうとて。乃ち母成口から殺倒して、遂に會津を陷落せしめた。
 正治の軍を督して若松拔を攻擊するや、城塞堅固なるに加へて、死士を以て之れを守つてゐるから、容易に拔く事かできぬ。正治は之れがため長圍の策を立てた。然るに部下の年少氣銳の諸將達は、從來の連捷に馴れて、攻擊を敢行すべき事を主張してやまぬ。正治乃ち聞かざるまねして、故らに其佩刀を脫し、目釘をぬき、之れを箱に納めて、橫臥して鼾聲雷を欺くの睡りに入つた。之れを見て、諸將止むを得ず、遂に鎭つた。
 正治、鹿兒島の自邸に在る時、西鄕隆盛の不軌を圖ると聞いて、大雨の中に傘を用ひず、衣を褰げ、倉皇として西鄕の閑居に往き、牆を隔てゝ、卒然聲をかけた。汝やァ謀反を企つるさうな。西鄕曰く、余やァ、甘藷を作るのが忙しいと。甘藷を作るとは、私學校生徒を養成するの意である。正治、之れを聞いて直に肯うて去つた。
 正治、曾つて軍隊に臨むや、令甚だ嚴にして毫も假借する處がない。しかし平時にあつては純情流露の人物で、其左院に議長たる時、部下を黜陟するに際して、必らず忍ぴざるの狀を現はした。止むを得ず免職すべき者があると、其辭令書を渡す日に限つて、病と稱して決して出なかつた。
 正治は榮達して、顯官となつた後でも、萬づ儉素を旨とし、其調度品の如きも凡て簡素質朴の物のみであつた。吉井友實、一日、正治の邸を訪づれて、議論數刻に亙つた。渴を受え、茶を乞ふと。正治俄に曰く、暫く持て、我れ朝來未だ飯を喫して居らぬ、失禮ながら喫飯の後に茶を呈せんと。卽ち書生を呼んで、食膳を運ばしめ、友實の面前に於て、頗る質素の食事を取つた。喫し終ると、再び書生を呼んで、食膳をひかす際に、おのれの用ひてゐた飯茶椀を指しこれを洗つて御客に茶を上げよ、と命ずる。友實驚いて、貴宅には茶吞茶碗はないのか。無論無い、飯茶碗は一つさへそれで結構だ、何人客かあるとて、吞み廻はしすれば、茶碗一つで事足りるでないかといつた。
 大久保利通、時の內務卿として威權赫々、廟堂を壓するの趣きがあつた。時人、大久保に向つて直言する者は一人もない。正治、一夕、內務卿を訪うて、糠慨して時事を痛論した。內務卿之れを迂遠の言として、唯默して聽いてゐた。終りに臨み、大喝、是れ乃公の知る處あらずと叱した。
 後に復た、正治內務卿を訪ふや。今度は、正治、初めから茄子や芋の話をのみして、一語も時事に觸れるものがなかつた。唯、談熱するや、鐵張りの大煙管を揮つて、銀緣の火桶を打つ事頻りである。之れが爲に凸凹の疵を生ずるとも、少しも意に介せぬ風であつた。之れには流石剛腹の內務卿も、應ずるの法がなく、眉を顰めて嘆息するのみであつた。正治益氣勢をあげて、鐵張煙管を以て、遠慮なく銀緣を敲く事、丁々幾數遍。
 征臺の役ありて、大久保利通、全權大臣として支那に赴き、使命を全うして還つて來た。正治、之れを訪うて其功を稱し、懷中より紙包み出して、恭々しく曰く。君の勞を慰めんため何か物を贈らうと思ふが、家に佳い品がないから、有り合せであるが持つて來た、乞ふ齎らす物を受けてくれよといひつゝ手交した。大久保深く謝して納め、後に至つて包みを披いて見ると、一箇の炭團が儼として在つた。

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