近藤勇 | 大山格のブログ

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おもに歴史について綴っていきます。
実証を重んじます。妄想で歴史を論じようとする人はサヨウナラ。

近藤勇、名は昌宜、小字は勝太、天保五年、武藏調布上石原に生る。父を宮川久次といふ勇、劍を江戶試衞館の劍士近藤周齋に學び、後に周齋の養嗣となる。文久年間、幕府、有志の處士を簡募し、松平上總介に之れを督せしめた。勇、父の門下生と共に來り投ず。上總介罷め、鵜殿鳩翁之れに代る。淸川八郞其領袖と目された。將軍家茂上洛に先だち、浪士組は西上し、京都に入り、壬生に屯した。淸川、浪士新徵組を擧げて東歸するや、勇等は議合はずして、京都に留つた。淸川は江戶に於て暗殺され、京都に殘る芹澤鴨、近藤勇等は、新撰組を組織して、部伍を編んだ、來り集るもの數十百人、芹澤及び勇は其隊長となる。之れを通稱して壬生浪人といふ。新撰組は京都守護職松平容保の命に從ひ、京都警邏の任についたが、組長芹澤、放縱にして暴戾の行爲が多いから、隊士之れを惡んで斃し勇は全隊の帥領となり、土方歲三其副となつた。元治元年六月、三條池田屋に勤王有志者の集るを襲ひ、十數名を死傷せしめ、二十餘名を捕へた。之れよりして勇の名聲大に響いた。甲子兵燹の禁闕の變には、勇、新撰組を率ゐて、會藩兵と共に鬪ひ、又天王山に眞木和泉を殪した。更に長州を征討するべく、將軍親發の議をたてゝ、勇は江戶に抵り大に奔走した。慶應三年、幕府、勇の效を賞して、見廻組々頭格に陞した。然るに新撰組に內訌生じ、伊東甲子太郞の一派は去つて、高臺寺に分立した。勇、脆計を設けて伊東等を殺す慶應三年、將軍慶喜上表して軍職を辭し、京都を退て、大阪城に入る。勇をして留つて二條城を守らしめた。又勇を大阪に召し、伏見を鎭撫せしめた。時に永井玄蕃頭、二條城に在り、勇を招く。勇之れに應じて赴き。其歸途、伊東の殘黨のために襲はれ、伏見墨染に於て狙擊されて肩を傷ついた。之れが爲に伏見鳥羽の役に戰はなかつた。慶喜東走するや勇亦東に還り、甲府鎭撫を名として、新撰隊を率ゐて甲州に入つたが、官軍の爲に敗れて江戶に歸り、後に下總流山に黨を集めて屯した。官軍の召喚に應じて赴くと、佯りて捕へられ、明治元年四月二十五日、板橋驛に斬られ、首を京都に梟せられた。三十五歲。
 傳へて曰ふ、勇、十六歲の時、近藤周齋の家に賊數人が白刄を携へて侵入した。勇、衾を蹴つて起ち、刀を把つて縱橫賊と鬪ひ、之れを退けた。周齋、勇の俊秀を見て喜び、乞うて嗣子にしたと。一說に賊を退けたは、生家宮川氏の家ともいふ。
 勇の修得した劍道は、天然理心流である。其道場を試衞館といふ。他流試合の劍士の强剛なる者が來ると、九段練兵館の塾頭渡邊昇に應援を求めた事がある。其爲に、後年、渡邊が京都に於て、佐幕派の刺客に覗はれるや、勇は昔の好意に報ゆるため、陰に庇護してゐたとの插話もある。
 幕末に方り、諸藩浪士の跳躍は甚しきものがあり、幕府は其懷柔統制のために、弘く浪士を募集した。其數は約二百五十名に達した。淸川八郞等を以て領袖とし、之れを松平上總介(主稅介忠敏)に督せしめた。勇は、試衞館の劍士、山南敬助、土方歲三、沖田總司其他と共に之れに投じた。
 上總介罷めて、鵜殿鳩翁之れに代つた。文久三年、將軍家茂の上洛に先んじて、浪士組は前驅警衞として京都に入り、洛西壬生に屯した。勇は八木源之丞の家に宿泊することになつた。
 時に、攘夷の議論は蕩然として天下を風靡し、物情紛然たるものがある。加之、生麥事件の後件として、英艦數隻橫濱に至りて、幕府を脅して償金を迫り、人心甚だ騷擾した。淸川八郞等、這間に乘じ、江戶に於て事を擧げんとする。幕府、亦浪士間に陰謀祕策を行ふものあつて、幕府の節度を無視し、擾亂を試むるゝ輩があるから、是等を江戶に送還せしめんとした。茲に於て、淸川に從うて江戶に行く者多く、芹澤鴨、新見錦、近藤勇等二十餘名のみ、京都に殘留する事となつた。
 京都に留るものを、幕府は盡忠報國の浪士と呼んだ。彼等を京都守護職松平容保の配下に隸せしめ、乃ち壬生に館せしめた。之れを號して新撰組といふ。
 江戶に歸つた浪士組は新徵組である。淸川は江戶麻布に於て、幕府見廻組の士等に暗殺された。新撰組は一に壬生浪士と稱し、芹澤鴨と近藤勇とが其統卒を司り、四方の同志を募り、其隊を編成し、法を嚴にし、專ら膽を練らしめ、勵ますに誠實を以てし、誠字を用ひて其隊旗と爲した。
 文久三年八月の政變は、近世史上著名な事件である。さしも勢炎を擧げた長州藩及び攘夷の一黨か一掃され、三條實美等の朝參を停め、長州藩の堺町門警衞を解かれた。所謂七卿落の一齣のあつた大政變である。
 爾時、勇等の新撰組は、晝間仙洞御所前を警しめ、夜に入つて南門に堅めた。隊士は悉く袖口を山形に白くぬいた淺黃の羽織を着し。隊將である勇は、芹澤と共に、小具足に身を堅め、烏帽子を冠り、會津藩の合印なる黃襷をかけ、騎馬提燈には、上部へ赤く山形を表はし、誠忠の二文字あるものを符號とし、鐵扇を把つて隊員を指揮した。
 七卿落、長藩退京についで、盛んに失脚の志士の暗中飛躍か行はれた。之れがため京都に於ける警戒は頗る嚴重となつて、遂に新撰組に命じて京都市中の警邏を行はしめ、若し反抗する者があらば斬捨てゝも差支へなしと許された。之れが新撰組の浪士狩を始める動機であつた。
 新撰組の第一隊將芹澤鴨は、本名は木村繼次といひ、水戶系の尊攘論者であるか、悍强狂猛威權を恣にして、暴戾の行ひが屢々あつた。之れがために怨憎の念を抱く輩が頗る多い。勇はおのれの腹心である、土方、山南、沖田等と謀つて、不意に芹澤の寢室を襲うて、之れを斃した。芹澤死したる後は、勇は新撰組の唯一の隊長となり、土方、山南は其副となつて之れを扶け、壬生浪士は凡て勇の頥使に從ふ事となつた。
 幕府は、こゝに於て勇を以て、御番頭取の格に陞し、副長其他に夫々相當した格を與へた。然りながら、勇は素より榮達のために起つたのでない。攘夷の功を樹てんが其主要の目的であつたから、文久三年政變の後、十月十日、祇園一力の席上に於ても、勇は公武合體派の諸藩士が、徒らに豪語大言するを見て不滿を感じ、皇國一致外夷を攘ふべき事を强く主張した。
 勇の驍勇を世に喧傳せしめたは、三條池田屋襲擊の一擧である。元治元年六月、新撰隊の手で、古高俊太郞を捕へたが、それによつて幕府反對派に恐るべき計畫がある事が露はれた。勇乃ち其徒黨の掃攘を計るために、六月五日夜亥刻(午後十時)、隊を二つに分つて、其の集合處を襲つた。
 衆凡そ三十人、一隊を土方歲三に率ゐしめて、三條繩手四國屋へ向はしめ、勇は自ら他の隊を隨へて、三條小橋西入旅舍池田屋に向つた。會津、桑名の兵亦之れに加つて、池田屋の附近を包圍し、勇は、其平周平の外に、沖田總司、永倉新八、藤堂平助の四人と共に進んで屋內に入り、樓上に登つて、亂鬪力戰の末、七八を殺し、四五を傷つけ、逮捕二十餘名に及んだ。之れが世に有名なる池田屋騷動である。
 今に至る迄、名刀虎徹云々の名と共に喧傳せらるゝは此事件である。勇の書信にも、永倉の刀は折れ、沖田の刀は鋩子折れ、藤堂の刄は簓の如くなり。周平の槍は斬り折られたとある程の激烈な力鬪であつた。又、勇の刀は虎徹故に哉、無事に御座候、と記してあつた。
 周平は、勇の養子で、板倉周防守の臣谷某の子である。此際の活躍を見て、勇は好い養子を得たと滿足した。又、土方の隊は浪士の隻影をも見出さなかつたから、取つて返へして池田屋襲擊に援助したのであつた。
 同年七月、禁闕の事變には、勇は新撰組の兵を率ゐて、會藩兵と共に、竹田街道九條河原に陣し、藤杜方面の戰鬪起るや、馳せて敗走する長州兵を追擊して、墨染に至つた。時に砲聲御所に當つて響いたから、直に長驅して堺町御門に至り、越前兵と協力して鬪ひ、又公卿門をも守つた。
 長州軍全く敗れて、天王山に其敗殘兵若干、眞木和泉を主として集つてゐるとの報があつた勇は會桑兵等と之れを攻擊したが、眞木等は力盡きて營を焚いて自刄した。
 長州の敗退するや、幕府は、尾張侯を總督として征長の軍を起さんとした。勇以爲らく、將軍親ら麾を把つて、列侯を帥ゐて問罪の軍を發すべきである。然らずば何を以て天下に臨む事を得ると。この將軍親討の勸吿をなさんがため、九月一日、永倉、藤堂、武田、尾形の四士を從へて江戶に抵り、大に奔走したけれど、幕議之れを容れ得なかつた。
 慶應元年十一月、幕府、長藩訊問使として大目付永井玄蕃頭等を廣島へ派遣せしめた。勇はそれに從うて赴いた。此行に就いて、曾つて京獄に捕へられてゐた長藩士赤根武人と、久留米浪士淵上柳太郞とを放還して、長州の恭順諭に力を致さしめやうと謀つたのも、勇の盡力であつた。
 勇は會津藩に隸して新撰組を帥ゐ、幕府の爲に盡瘁する處が頗る多かつた故に、幕府は其功を錄して、慶應三年六月、勇を見廻組々頭格に陞し、土方を見廻組肝煎格に補した。之れより曩に、組の參謀伊東甲子太郞は、勇と議合はぬものがあつて、同志の隊士と共に新撰組を去つて、別に高臺寺に屯して、勤王を主唱した。今こゝに勇等に對して幕府の恩賞あるに及んで、幕府の品秩を受くるを屑とせぬ輩十名は、相携へて新撰組を出で、高臺寺黨に加つた。勇對甲子太郞の分立はこゝに於て愈々顯著たるものとなつた。
 勇、乃ち高臺寺黨掩殺を圖り、慶應三年十一月十八日、策を設けて、伊東を勇の寓居に呼びよせた。饗するに酒食を以てし、會宴多時、其歸る途上を擁して伊東を刺殺せしめた。伊東の死屍を七條油小路に橫たへ、其黨を誘ひ寄せ、伏四方に起つて悉く之れを斃した。
 土佐藩の後藤象次郞は、天下の形勢の王政復古に歸すべきを洞察して、同じく之れを行ふならば、寧ろ平和手段を取るべしと思惟し。それには將軍をして自發的に政權を奉還せしめるがよいと考へから、其腹案を樹てゝ、諸方に周旋してゐた。之れについて、新撰組の勢力を代表する勇との會見を欲してゐたが、一夕、永井玄蕃頭の寓に於て邂逅する事となつた。
 勇は豫てより、後藤の行動について疑念を抱いてゐるものである。それがため自ら外貌にも現はれ、雙眼炯々として對者の肺腑を刺すの狀があつた。後藤固より剛膽である。勇を一瞥して、足下の身邊にある其長いものが甚だ嫌ひである、それを除かれて後、安んじて語り交はさうでないかと、戲れながら挨拶した。勇、其洒脫の氣を愛して、大に意氣投合するものあり、相互に哄笑して大に時事を談じた。
 勇、ある時後藤に吿げて。天下の形勢殆んど手の下しやうがない、今にして時事に周旋するに當り、寧ろ貴藩に籍を置いた方が、活動がし易い。我境遇では全く手も足も出せず困難至極であるといふた。勇は畢竟強勇一方の者でもなかつたのである。
 伊東の残党は固より勇に含む處があつた。慶応三年十二月十八日、永井玄蕃頭の招きによつて、勇が伏見から京都二條城に赴いた。其帰り途。愚染を過ぎる時を窺つて、伊東の残党は、暗中、銃を以て狙撃した。弾丸勇の肩を貫いて重傷を負はす。勇創を忍んで馬を馳せて伏見に還り、医を招いて其療をうけた。
 創重くして、大阪城に入り、松本良順の治をうけたが、此為に伏見鳥羽の変には出陣する事ができぬ。土方歳三をして新撰隊を指揮せしめ。幕軍敗北、慶喜東走するや、勇も海を航して東に帰つた。
 新撰組の隊員は、伏見鳥羽に於て其多くを喪ひ、江戸に還つた者は八九十名に過ぎなかつた。勇は乃ち名を変じ、隊名をも鎮撫隊と改め、甲州に入りて事を挙げんとした。官軍既に甲府に進み、勇は戦ひに敗れて江戸に退いた。
 茲に會津に投ぜんとするの議が生じ、隊員多くは去つて東北に走つた。勇は土方と謀つて、下總流山に屯して、脱走兵を聚めて一勢力を作り、他の幕府軍と相協応せんと志した。
 明治元年四月、官軍早くも下總に入り、流山の營を包圍する。勇は官軍の參謀香川敬三の誘ふに任かせて、官軍の陣營に赴いたが、變名大久保大和は近藤勇なりと勘破され、官軍の計略に陷つて其捕縛する處となつた。遂に板橋驛に於て斬に處せられたが、死に臨んで從容、自ら髻をあげて、甘んじて刀を受けた。

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