死んだ母親の傍で5歳児が一人で通夜をしたinドイツ
◎下記サイトから:http://www.spiegel.de/panorama/0,1518,681092,00.html★ 長い記事です。1/4くらいの抜粋を下記にカキコミます。この子が 40キロも離れた大学病院の児童精神科に入院したことが あったこと、それに 母親の亡くなった後、祖父母がこの子の養育をできない場合に 里親のところに行くだろうと 書かれていること、この子に後見人が付けられたことなどが 印象的でした。母親は 充分なケアを受けられなかったようですが、子どもは ケアを受けられて 良かったです。少なくとも 当地と比べて。遠い異国の この子の 無事を祈っています★★5歳の男児は 母親が死んでいくのを 傍でみていたし、2月17日に死んでからも傍にいた。近所の人が 彼の泣き声を聞いて 通報した。この悲劇は バーデンヴュルテムベルク州のハイデンハイムの町に衝撃を与えた。夜中の零時過ぎに近所の人が子どものかすかな泣き声を聞いて 警察に通報した。普通なら 珍しいことではないが その3階の部屋は何ヶ月もの間、空き家のはずだった。パトカーが来て、そのアパートの隣人も 子どもの泣き声を聞いたと警官に伝えた。警官は ドアをこじ開け、室内に入った。ゴミが散乱し、悪臭が漂っていた。居間に 残飯と汚物とガラクタの間に 女性が死んで横たわっていた。傍で 息子ルイースが泣いていた。40歳の母親は自然死だった。警察の来る48時間前に死んでいた。48時間 ルイースは遺体のそばに居た。彼は助けを呼ぶために 部屋を出ることもなかった。彼は脱水状態だっただけで、トラウマによる障害は 見られなかった。その後、彼はウルム大学付属病院の児童青少年精神科に入るように指示された。病院の医師も看護婦もルイースを知っていた。2009年11月24日から 2010年1月13日まで 彼は入院していたからだ。その時は 青少年局が 入院して検査を受けるように手配したのだった。3月1日に ルイースは母親と一緒に また入院することになっていた。ハイデンハイムへ母親とルイースが引越してきた時に 別の青少年局に 二人のファイルは移った。2008年3月19日からハイデンハイム少年局が 二人の管轄になった。アパートは母親の親の所有だった。休暇用のアパートのようなもので、暖房も給湯もなかった。青少年局は「社会教育・家庭支援サービス(SPFH)」に この家庭を引き受けるように依頼していた。ハイデンハイムでは このサービスは外部の企業によって行われている。2008年6月4日に職員が 母親と約束した時刻にドアベルを鳴らしたが 母親は出てこなかった。5日後に 彼女は役所に来て、病気だったと言った。これが嘘の始まりで、嘘の迷路の果てに 悲劇があったのだ。しかし この最初の対話では 彼女は 自分の問題を克服するために 週に7時間の支援を受けることに同意した。彼女はハルツVI(4)~失業保険~で生活していた。慢性の病気のために 職業安定所は彼女の就業能力を30%だと認定していた。彼女の息子の父は 誰だか分からないので 養育費は役所から出ていた。子どもの行ける幼稚園を探すのさえ彼女には手に負えない負担だった。2008年11月3日の記録によると、養育についての質問に彼女は詳しく答え、息子に暴力を振るっている様子もなかった。「子どもは良く守られ、栄養状態もよい」。第2部:母親は家庭支援サービスの職員(社会教育専門家)を避けた。母親は役所との約束を守り、家庭訪問の取り決めをしたが、いつも約束を直前に取り消した。母親は2008年9月1日に家庭訪問を受ける約束は取りやめにして、公共の場で会ってほしいと言ってきた。両親が役所の人に来られるのを嫌うのだと言うことだった。2009年2月11日に家庭支援サービスの職員は「子どもの衛生上の世話について問題がある」ということに気付いた。これは アパートの給湯と暖房の不備を言っている。役所の人を部屋に入れないという条件で 親は孫の母親にアパートを貸していたのだろう。母子は 経済的に 行き詰まり、役所は ハイデンハイムから10キロ離れたギーンゲンにアパートを見つけ 3月1日に二人は引越した。家庭支援サービスの職員二人が 引越しを手伝ったが 二人が着いた時には 母親は箱を家の前に出していて 鍵の引渡しは終わっていた。母親が どんな様子で生活していたかを見る機会は またも無くなった。2009年3月から8月まで 定期的な家庭訪問がされていた。「アパートは比較的、整理されていた」。ルイースには自分の部屋があり、給湯も暖房も無料になった。「ルイースは元気な可愛い子だった」。ルイースはギーンゲンの幼稚園に行くようになり、最初の頃は 周りの子どもとうまくやっていた。7月になってルイースはしばしば攻撃的になり 規則を守らなくなった。ルイースの行動が変わったのは 母親にボーイフレンドができたためだった かも知れない。10月22日に「支援計画面談」があったが、母親は来なかった。母親は嘘を言い続け、支援サービスの職員を避けるようになった。第3部 母親の病気は どれほど重かったのか息子を医学的・精神医学的な検査のために 40キロも離れたウルムの大学付属病院に入れることに 母親は同意していた。息子は8週間 入院した。母親が定期的に見舞いに来た。しかしギーンゲンのアパートに 少年局と支援サービスの職員は入れなかった。2010年1月13日に 支援サービスは 家庭訪問を迫った。母親は拒否した。家庭支援サービスは 家庭裁判所を介入させ、必要なら 家に強引に入ることを 青少年局に勧めた。2月2日に母親と息子は 少年局に現れた。ルイースは楽しそうにしていて、面倒みてもらっているような印象だった。それに反して、母親は「肉体的に ぐあい悪い印象」を受けたが 彼女は慢性の病気だから そういう記録も稀ではなかった。しかし支援サービスの職員の誰もが この母親が どれほど重病だったかを なぜ記録しなかったのだろう?1月31日に母親は幼稚園に退園届を出した。幾日か後に 少年局は そのことを知った。母親は手術のため入院するので 家庭訪問を延期してほしいと2月9日にSMSで知らせてきた。実際は 手術はなかった。2月16日に支援サービスと少年局は アパートに入るために 家庭裁判所が介入するように求めることに決めた。その1日後に 母親は 子どものそばで死んだ。2月20日に警察は少年局に知らせた。母親は 息子と一緒に元のハイデンハイムのアパート(母の両親の休暇用アパート)に戻り、長い間 泊まっていたに違いないことも 分かった。近所の人は1月から ずっと母子を見かけたし、母親と話した人もいた。母親が死んだ後は 少年局が息子の後見人になっている。息子が祖父母のところで養育されない場合は 里親のところに里子として行くだろう。なぜ5歳児が荒れ果てたアパートから出て行かなかったのか、あるいは 自分が困っていることを他人に伝えなかったのかは 児童精神科医が明らかにするだろう。母親が息子に誰が来ても ドアを開けるなと言い聞かせていたのかも知れない。母親が息子と一緒に精神科へ検査に行けるように準備が整っていた。できることは していたと当局は言っている。しかし 隣人の一人はそう思っていない。母親があまり支援を受けられなかったと その人は少年局を非難している。おしまい