自分が望んでいるお客様だけを引き寄せるコツを教えます!! 顧客開拓請負人 大阪の弁理士 福永正也のブログ -29ページ目

ハロー効果

ハロー効果ってご存知ですか?

たまたまテレビで出てきてたんですけど、例えば社長なりの肩書があれば勝手に人格者だと思い込む、あるいはテレビに出ていたり本を出していれば優秀な方だと思い込む、などの心理効果です。これを狙って、やれメディアに取り上げられたいだの、本を出したいなどという、いわゆる力もないのに英雄気取りになりたがる似非(えせ)な輩(やから)が跋扈(ばっこ)するんですが・・・ww

 

例えば、今、私はラジオのパーソナリティをしているんですが、口が上手いのと、会話が上手いのとは、全く異なるということを認識している方、意外と少ないです。パーソナリティもいろいろいらっしゃいますが、テレビに出ていれば会話が上手い?とんでもないです。私の周りではむしろ・・・

 

どうしてそんなことになるのかというと、テレビとかはシナリオ通り。まして、その方の冠番組でもない限り、話す内容は制限されます(話しても編集でカットされます)。つまり、会話じゃあないんですよ。そういう方が自力構成で時間を調整必須なラジオのパーソナリティはできないわけです。

 

同じことはインタビューでも言えますね。これだって、本当は時間厳守。だって、ゲストの方々って、時間を割いて来ていただいてるんですから。

 

ところが、会話ができない輩(やから)がインタビューすると、まあ話の内容の薄いこと薄いこと。ゲストの経歴を丸読みしているに等しい内容でどんどん時間をつぶされます。聞くべき内容があればいいんですけど、まあ、ゲストの格や信用まで落ちかねないような感じで・・・

 

そのうえ、時間の観念もありません。というよりコントロールする術(すべ)を知らないんでしょうね、経験も知識もないから。ゲストにとってはいい迷惑。私なら「時間泥棒」とののしるかも。

 

そもそも、そういう方々は、インタビューする自分が、つまり著名人と話している自分が一番で、ゲストは自分のブランディング(なるのかなあ・・・ww)のための糧(かて)にしか考えていないんでしょう。だから、時間を延ばしても失礼だとは考えないし、ゲストの方々の隠れた良さなんて絶対に引き出せない(そもそもそんな気もないですから。自分中心。)。

 

本来、ラジオのゲストや、インタビューのゲストなどは、その方々が主役で、パーソナリティやインタビュワーは黒子です。その本分をわきまえない方々には、自らご退席いただきたいものですね。少しはイライラが解消できますのでww

 

客は選ぶもの

まあ、タイトルにこんなことを書くと、なんてやつだと思う方も一部いらっしゃるでしょう。ただ、冷静に考えてほしいんですけど、他人に雇われて従業員として働く自分と、独立開業する自分。一番大きな違いは?

 

こう問われると、やっぱり私は「お客様を選べること」と答えます。従業員の立場じゃ選べませんよね。

 

また、普段の生活を考えてみてください。あなたは、外食する飲食店、自分で選びますよね?買い物するスーパー、選びますよね?散髪する理髪店、選びますよね?つまり、普段の生活そのものも選択の連続だということがわかるはずです。

 

なら、仕事をする相手、もっと広く考えれば付き合う相手だって選ぶのが当然であって、選べない環境の方が窮屈で異常だと思えてきませんか?

私は親から「他人の好き嫌いはしない」という教育を受けてきた昭和の人間です。ただ、子供のころから、それは少し違うんじゃないかとずーーーと感じていました。まあ、その時点で企業人には不向きで、根っからの起業家だったんでしょう。

 

人も時間が経てば変わります。以前、仲良かった方でも、頭のネジが外れた方とは遠慮なく距離を置くか、関係を切るか、遠慮なくさせていただいてます。もちろん、警告はしてるんですが、特にのぼせ上がっている方々には寝耳に水のようですけどね。それだけに、今現在お付き合いのある方々には心から感謝です!

 

結論としては、お客様は神様じゃないということ。相互理解のもとに互いの利益を拡大させるのが、いわゆるパートナーじゃないんでしょうか。そういう考えの方々と私はこれからも仕事をしていきたいです。

少しお堅い話(音楽クリエータ向け)

先日、盗作疑惑のミュージシャンの話をしたら、何か盗作か否かの目安ってあるんですか、と聞かれました。厳密にはあるようでないんですけど、一応の目安としては記念樹事件(一審・東京地判平成12・2・18、控訴審・東京高判平成14・9・6)の控訴審判決(以下「判決」といいます)で示された基準が用いられるんじゃないかと考えられています。

記念樹事件って、1992年に発表されテレビ番組のエンディング・テーマとして放送されていた楽曲「記念樹」が、1966年にCMソングとして発表された既存楽曲の盗作であるとして、この既存楽曲の作曲者と著作権者である音楽出版社が、「記念樹」の作曲家に対して損害賠償を請求する訴訟を提起した事件です。まあ、判決って賛否両論ありますし、最高裁判決でもないので強制力はないんですが、参考までに覚えておいて損はないと思います。
 

まず面白いのは、いわゆる「パクリ」を法的に定義したこと。判決では、「既存の著作物である楽曲に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が原曲の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物である楽曲を創作する行為をいう」としています。(さすがに「パクリ」とは書けないので判決文では「編曲」としているところがかわいいww)

つまり、「パクリ」かどうかは、表現上の本質的な特徴が同一であるか(要は類似しているかどうか)、といわゆる依拠性があるか(誰かの楽曲を参考にしているか)、の2つを具備していれば「パクリ」となります。

まず、「表現上の本質的な特徴」の同一性って、いろんな要素がありますよね。旋律(メロディー)、和声(ハーモニー)、リズム・テンポ、形式(フォーム)等が考えられますが、やはり一番影響が大きいのは旋律です。判決では、


(1) 両楽曲間で、比較対照するフレーズ(類似性が争われているフレーズ)を抽出する
(2) 比較対照するフレーズの長さが同じになるように調整した楽譜を並べる
(3) 音の高さの一致する程度を数量的に計測する

という基本的な判断に加えて、

(4) 両楽曲の旋律の相違部分を抽出し、相違部分が両楽曲の表現上の本質的な同一性を損なうか否か検討する
(5) 和声の相違部分を抽出し、相違部分が両楽曲の表現上の本質的な同一性を損なうか否か検討する
(6) リズム・テンポの相違部分を抽出し、相違部分が両楽曲の表現上の本質的な同一性を損なうか否か検討する
(7) 楽曲全体の形式(フォーム)の相違部分を抽出し、相違部分が両楽曲の表現上の本質的な同一性を損なうか否か検討する

という手順で行われています。ただし、譜割りが異なるだけである場合、両楽曲の旋律は実質的には一致すると考えられる可能性が高いと考えられています。

つまり、「パクリ」が疑われている楽曲がその一部にもとになる原曲にはない創作的な表現を含んでいたとしても、(1)旋律の相当部分は実質的に同一といい得るものである、(2)旋律全体の組み立てにかかる構成において類似している、の2点から、「パクリ」が疑われている楽曲に接する者がもとになる原曲の表現上の本質的な特徴を直接感得することができる」、すなわち一部違った表現(旋律)があっても「パクリ」になるんだよ、と結論付けされました。

どちらかと言えば定量的な判断と言えるかもしれませんが、裁判所の事情も考えれば致し方ないのかなあ、と。この裁判では、両楽曲の旋律の高さの一致の程度が格段に高い」という事実(判決では一致率は72パーセント)は看過できないとされています。

 

つまり、旋律が一致していなくても、旋律の高さの約7割が似てるんじゃないのと判断されたら「類似」と判断されるわけで、いつだったか「曲の7割は最近のヒット曲に似せて残り3割が創作」なんて自分の作曲方法を広く公開していたおバカミュージシャンなどは自作の楽曲のすべてが確実に「アウト」ということになります。(本人は「盗作ではなく研究」などと言ってましたが、法的には「パクリ」です。無知っておそろしい・・・)

また、いわゆる「依拠性」は、新しい楽曲を制作するにあたって、制作者が既存の楽曲に依拠していない、つまりは聞いてないとか、知らないとか、そういう場合には両楽曲が全く同一であっても、著作権侵害は成立しないことになります。

しかし、著名な楽曲に似ている場合に、顕著な類似性が偶然の一致によって生じたものと考えることは著しく不自然かつ不合理である、とされる可能性は極めて高く、まあ似ていたら「アウト」と考える方が妥当でしょうね。前述のおバカミュージシャンは依拠していることを自白してますから問題外ですがww

その他細かいこともあるんですが、音楽クリエータが新規に作曲する場合、少なくともこの裁判と同様の数量的な判断手法に従って類似性がないことを確認したうえで発表するべきでしょうね。なお、判決は72%だから70%なら大丈夫だなんて理屈は通らないのであしからずww