番組ナビゲーター・古舘伊知郎さんのオープニングトークですが…
「僕は、この人を革命家だと思うんですよね
ロックを、聞き取れる…努めて聞き取れる日本語で対応して
ロックを聞かせる革命家だと思うんですよねぇ」との言葉から始まって
「新しい試みを次から次へとやる人なんですよ
考えてみると、あとで常識になってんですよ、それが…すべてがね
もう、ワイヤレスマイクをコンサートで使ったなんて、今や常識だし
それから、椅子のないコンサート…スタンディングなんて
今、当たり前ですけど、この人が草分けですよね
花園ラグビー場でもやりました!そしてね、1983年…思い出しますけどもね
新宿の、あの副都心の、まだ今ほどは高層ビル群でもなかった時代に、広大な空地がありまして
そこでドーン!とコンサートを白昼堂々やりましたね
よくああいうことが出来たなーと思うんですよね
今、その新宿の空地には、都庁舎が建ってます
色んなことをやって来たんですよ、この方々…甲斐バンドです」
…と、甲斐バンドが行って来た「初めてのこと」を簡潔に紹介なさったトコで
まずは名刺代わりの1曲目「ダイナマイトが150屯」
今や、甲斐バンドフリークの皆さんでも、小林旭さんのカバー曲だということを
忘れておられるんじゃないか?(笑)ってくらい甲斐バンドらしい1曲ですが
これまで著作権云々の問題で、ナカナカ保存版に収録されなかったこともあり
「なるほど『こだわりの選曲』だねぇ」と奥さん(笑)
ただ、甲斐さんの御髪がテレビ用に整えられているであろうことは想定内だったとはいえ
「フェイスラインが全開なんですけど~!」とダメ出し(苦笑)
ボクは、マイクスタンドをクルクルなさるパフォーマンスに
「甲斐さん、カッケー!」と惹き付けられる一方で
「ナンか、ちょっと声が出にくそうじゃね?」って感じが…?
曲が終わると、番組オープニングで…「豪華アーティストの多彩なライブパフォーマンスや
貴重なトークをお届けするオリジナル音楽レギュラー番組」…とナレーションされていた方の声で
「1970年代、フォークソングや歌謡曲が全盛だった日本の音楽シーンに
革命的なバンドが九州・博多で生まれる…甲斐バンド
ロック黎明期であった1974年にデビューした彼らは、瞬く間にスターダムを駆け上がり
日本ロック界の礎を築くことになる
中でも独特の存在感を放つ甲斐よしひろの歌声は、今なお多くのファンを魅了し続けている
今宵、刻まれて来た伝説の裏側、そして未来について、甲斐よしひろに問う」との紹介があり
「まさか、小林旭さんのアノ曲をカバーして
どう歌おうとは思わなかったんですか?」と古舘さん
甲斐さんが「あの…日本語の歌の中で、一番ナンかこう…ハードボイルドで
非常にロックな強い感じがするのって、僕、アレが一番最初なんですね」とお答えになった辺りで
「ダイナマイトが150屯の魅力」というクレジットが出て
「だから、映画スターが歌ってる歌っていうのが好きで…あの…日本だったらね
歌謡曲もすごい好きだったんですけど、それよりもナンか、その…たまに(テレビに)出る
映画スターが歌うと、ナンかブラウン管からハミ出してるじゃないですか
あの感じが、すっごいイイなと思ってて…
(『あっ!企画サイズにハマらない?』と古舘さん)
そうそう!そうそう!石原裕次郎の『錆びたナイフ』とか、小林旭の『黒い傷あとのブルース』とか
勝新が…勝新さんが出て『座頭市のテーマ』とか歌うと、スゴイなあ!みんな…みたいな
ナンか、ああいう感じのイメージなんです、僕、ロックミュージシャンって…
まっ、テレビにはほとんど出なかったんですけど
出る時は、ああいうハミ出した感じで出て行かないと面白くないなっていうのは
ナンか、自分のプランの中ではありましたよね」と話されると
古舘さんが「ロックはこういうもの、歌謡曲は日本のこういうもの
民謡はこういうものとか、すぐね、インデックスされちゃうけど
甲斐さんの頭ん中は全く違うと思ったのは、親父の影響かも知れないけど
ハリー・ベラフォンテ、普通に聴いて…小学校低学年で聴いて…」と水を向けられたトコで
「ハリー・ベラフォンテ:アメリカ合衆国の歌手、俳優、社会活動家
『バナナ・ボート』や『さらばジャマイカ』のヒットで空前のカリプソブームを作った
『ウィ・アー・ザ・ワールド』を生み出した
USA フォー アフリカの提唱者としても知られる」のクレジット
バックで「Jump In the Line」が流れる中
「小学校1年…小学校1年の終わりくらいですね
(『あと、島倉千代子とか?』)…そう!そう!
ホントに、その…歌謡曲もバリバリに聴いてたんですけど
洋楽の方がもう…ホントにいつもかかってるのは、そっちだった
ラジオから…(実家は)商売やってたんで、ラジオからは歌謡曲
で、僕、博多なんで、今考えると、その…FENもあったんです、その時…
(FEN:米軍極東放送網 1945年から始まった在日米軍向けラジオ放送)
基地文化をね…だから、4つくらい基地あったんで、福岡…
だから、そっからもう頻繁に…ナンて言うの?英語のね、歌が流れてた」とおっしゃって
「そういうのが全部、混ざり合った訳だ!」という古舘さんの言葉に
(幼少期からの音楽体験というクレジット)
「そう!オリジナルを作り始めた時に
『俺はナンなんだろ?』って、ちょっと思う訳じゃないですか
『俺は、どっから来て、どこに行こうとしてんのかな?』みたいなこと…その…大げさに言うと…
で、書き始めて判ったのは、ロックのグルーヴで、すごいアップに…アップになって高揚して
歌詞で泣く時は、日本語の歌詞で泣くっていう…
じゃ、これ、足せばいいじゃん!っていうのが、そもそもの…たぶん」
…と、皆さまよくご存知のエピソードを披露なさると
古舘さん曰く「はあ!じゃ、もう歌う和魂洋才だ!ホントにそういうことですよね」
それがお仕事とはいっても、おそらく?「はあ!」とおっしゃってる間に
最適なワードを選び出されたことにビックリしました(笑)
再び…「『ライブ喫茶 照和』日本を代表する数々のレジェンドアーティストを輩出した
この場所で、彼らの歴史も始まった」というナレーションが入り
「チューリップ、井上陽水、海援隊、長渕剛」というお名前が表示されたあと
古舘さんが「そもそもが博多で、ライブハウス喫茶『照和』ですか?」とお訊ねになると
「甲斐バンドデビュー前夜」というクレジットが出て
「『照和』で歌い出して、1年半くらいで、僕、プロになるんですけど
フォークコンテストで…まっ、グランプリだったんですよ、あの…全国大会…
それだけで、レコード会社ワッと来て、そっから僕、選べたんですけど
その時に、ソロ契約だったはずなんですよ
だけど、自分(の頭の中)で鳴ってるのが、バンドの音だったんで
もう結局、レコード会社と対面で、契約書を挟んだ時に
『バンドやりたいんだけど…』って言ったら
『えっ!?』ってなって…大変じゃないですか
『お前、ソロで契約しに来てんのに…』って…」と、これも有名なエピソードで返され
「いきなり、バンドか?と…」と驚かれる古舘さんに
「そうなんですよ」と他人事みたいな甲斐さん(笑)
イヤ、今では「ふーん、そうなんだ」と聞き流してしまいそうな話ですが
歌謡曲全盛期の音楽業界に、地方出身の新人がリクエスト出来る内容ではなかったんじゃないかと…?(苦笑)