教育ルネサンス
公 営 塾
と呼ばれる、子供たちの学力向上などを支援する行政サービスが広がっている。若者や子育て世代の流出に歯止めをかけたり、将来の産業振興や地域の活性化を担う人材育成につなげたりする狙い。地方創生で、教育に目を向けた各地の取り組み。
民間塾が生徒や保護者の私的なニーズに応えるのに対し、公営塾は地域社会に不可欠な地元高校の存続という公的な目的も併せ持つ。高校設置者ではない市町村が主導できる支援策として広がってきた。
高校と公営塾は生徒を中心に据えてよりよい教育に向けた展望の共有と連携がカギになる。生徒の進路指導では高校と公営塾との相互理解が重要。
全国の公立高校は1987年度の4191校をピークに統廃合が相次ぎ、2021年度は3521校となった。
地元高校の存続に取り組む自治体のモデルとなったのが、島根県隠岐諸島の3町村と県立隠岐島前高校が連携して08年から開始した「高校魅力化プロジェクト」。
他に、新潟県立阿賀黎明(れいめい)高校、栃木県立茂木高校 等の例を記してます。
(2022・4・12 讀賣新聞から)
川端康成
1899~1972年 日本初のノーベル文学賞受賞者 没後50年
1歳で父、2歳で母を亡くす。10歳までに祖母と姉とも死別。
日本近代文学館(東京) 特別展 6月11日まで 開催。
初公開の手紙を中心に川端の素顔をたどる。
「大阪の茨木中学時代や上京後の第一高等学校時代に、姉のように慕った年上の従姉・平田花枝との文通が川端の心を育んだ原点」(早稲田大学名誉教授;中島国彦・同館理事長)
一高卒業前の20年5月、川端は花枝宛ての手紙で<結局は家庭なき孤り者にて、涙とどめあへず>と嘆く。その思いに寄り添い、花枝は卒業時の同7月、<ほんとになき父母さまに一言きかしてあげたい><おじいさんおばあさんたちにも>と手紙の中で祝った。川端は花枝の愛情に包まれて育つ。
ともに新感覚派の騎手として活躍、無二の友人だった横光利一との最晩年の往復書簡からも深い絆が読み取れる。病ゆえに<一番手紙を書かなければならぬ人へ、一番書けなかった>と胸中を吐露した横光に、川端は<例のオゾンの注射は高血圧肩のこり等には頗(すこぶ)る良い(中略)試みては如何>と友の体を案じている。
横光に「発掘の名人」と言わしめた川端は、岡本かの子ら新しい才能を世に送り出した。ハンセン病患者の北条民雄を差別せずその才能を見抜き、往復で90通に及ぶ文通で支えたことはとつに有名。35年12月の手紙では北条の原稿を<この心を成長させていけば、第一流の文学になります>と激賞し、「いのちの初夜」という題名を提案。同作は翌年の芥川賞候補となった。
<僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく>。47年末に没した横光に、川端が寄せた弔辞の結び。作家仲間が死ぬとその遺作を読み込み、亡き人への思いを込めて弔辞を読んだ。その準備のため体がやつれる程だったという。
「川端はもらった手紙にこまめに返事を書いた。手紙で人との繋がりを大事に保持したのだろう。弔辞でも全力投球で故人の思いを受けとめた。早くに家族を亡くしたがゆえに人との関係を大切にした」(中島理事長)
三島の衝撃的な割腹自殺の2年後川端も仕事部屋で自殺した.
ノーベル文学賞受賞の4年後。動機は今も謎のまま。「日本 を代表する作家として社会的な活動も熱心に行った。 過労死という面もあったのでは」(十重田裕一・早稲田大教授)
48~65年に日本ペンクラブ会長を務めた川端は、57年に日本で開かれた国際ペン大会を成功に導く。63年の日本近代文学館設立にも尽力。日本文学を世界と未来に伝えるため骨身を惜しまなかった。
「『人のために』が川端の原点だった」(中島理事長)。 「自分の作品を書く時間を削ってでも時間と労力を人のた めに割いた。自分の世界を守るために色々なことを排除するのではなく、その全てを引き受けた人だった」
(2020・4・12 讀賣新聞 文化欄から)
カタバミ 繁殖しますがカワイイ♡ですね