第九章「東アジアにおける冷戦後の小休止」を要約しての感想 | ひとときのときのひと

ひとときのときのひと

広告業界で鍛えたから、読み応えのある文が書ける。
外資系で英語を再開し、アラカンでも英検1級1発合格。
警備業界にいたから、この国の安全について語りたい。

そんな人間が、ためになる言葉を発信します。
だいたい毎日。



まずは英語から。

 日本研究の第一人者であるケネス・B・パイル氏。同氏の未邦訳「Japan Rising」の第九章「東アジアにおける冷戦後の一休止」の要約をしました。

 

(未読の方は↓ご一読願います)

 

1.「普通の国」議論に対する疑問

 本章では、湾岸戦争を転換点として、日本がいよいよ吉田ドクトリンに終止符を打ち、具体的には海外に自衛隊を派遣する経緯が描かれています。

 

 経緯においてクローズアップされ、今もときどき使われるのが、「普通の国」というキーワードです。すなわち、

 

 日本は憲法9条を盾に避けてばかりいた(それが吉田ドクトリン)。しかし、これからは、せめて「普通の国」並みに、それにふさわしい国際的な役割は果たすし、そのための軍事的貢献を厭わない

 

という意味で使われたと見ています。

 

 前章の感想で、日本人が「平和国家、日本」と聞くと、老いも若きも誰もが催眠術にでもかかったように思考停止してしまう傾向、その奇妙さを指摘しましたが、このキーワードも実態に片目をつぶった、いわば「まやかしに満ちている意味で罪作りなコトバ」であると考えます。

 

 なぜか。

 

 日本は、どうみても「普通の国」以上の国力を有しているからです。また、それを薄々、国民のだれもが知っているからです。だから、ごまかしていると言わざるを得ないのです。

 

 そもそも、人口が世界約150か国中第11位、対外純資産世界このところ2年連続1位の国のどこが普通なのでしょうか?

 

 また、世界の通貨量割合で1位は米ドルで44.8%、2位はユーロで15.6%、そして3位は円で10.8%なのです(この比率は近年の数字ですが、湾岸戦争時から激変していると聞いたことがありません)。

 

 ちなみにGDP世界2位の中華人民共和国は、この通貨量割合については現在8位以下の一団の中にあり、どんなに高く見ても2%程度しかありません。

 

 にもかかわらず、なぜ、こんな「普通の国並みになってもいいではないか」といった、たとえるなら「せめて偏差値50程度の学校には行きたい」みたいな言い方に終始してしまうのでしょうか。

 

 だいたい「普通」とは何でしょうか。わかったような、わからないような言葉ですが。

 

 「普通の〇〇」は、かつてキャンディーズという女性アイドル3人組が全盛期に引退しようとするとき、「(こんな特別扱いの毎日はもういいから)普通の女の子になりたい」を思い出させます。

 

 しかし、この「普通の女の子」のような普通の国は、どこにあるのでしょうか?

 

 世界地図からアットランダムに挙げていきましょう。

 

 マラウイは普通の国でしょうか?

   スリナムは普通の国でしょうか?

 グリーンランドは普通の国でしょうか?

 

 「普通の国、日本」はただただ耳障りがいいだけで、実態が見えてきません。

 

 ところが、そんな実態の見えない空疎な言葉をもとに国の在り方を決めてしまおうとする人が少なからずいる。そこに、大きな違和感を抱かざるを得ません。

 

2.アジアをヨーロッパのように位置付けて思考することへの違和感

 本書の著者、パイル氏は、本書の中でたびたびアジア・オセアニア諸国間における集団安全保障構想の有効性を示唆していますが、これには異議を唱えざるを得ません。

 

 パイル氏の思想の根底には、ヨーロッパにおけるNATOの有効性が強烈に刻印されているようです。

 

 しかし、どう見ても陸続きで歴史・文化を相当共有してきた、ほとんどがかつての帝国であったヨーロッパ圏と広大な太平洋やインド洋をはさんで分散して位置するアジア諸国、しかもその多くは植民地であったわけで、同列に論じられるわけがありません。

 

 そこに「普遍的価値」をベースとした関係の構築こそ最強と信ずる、米国人らしい実利的思考の限界を感じます。

 

 もちろん、パイル氏自身、本章の別の個所できちんと「アジアには共通の価値観が無い」と述べてはいるのですが。