第七章「冷戦という好機」を要約しての感想 | ひとときのときのひと

ひとときのときのひと

広告業界で鍛えたから、読み応えのある文が書ける。
外資系で英語を再開し、アラカンでも英検1級1発合格。
警備業界にいたから、この国の安全について語りたい。

そんな人間が、ためになる言葉を発信します。
だいたい毎日。



まずは英語から。

 日本研究の第一人者であるケネス・B・パイル氏。同氏の未邦訳「Japan Rising」の第七章「冷戦という好機」の要約をしました。(未読の方は↓ご一読願います)

 以下、感じたところを共有したいと思います。

 

1.東アジアのハチャメチャと米国のヤンチャ

 この章は、「先の大戦後の戦後処理において、米国が日本の根本的改革を試みたものの、冷戦という時代環境に影響され、徹底をあきらめ、また日本もこれを好機として利用した」というあらましになっていました。

 

 ここで、一度立ち戻って考えてみたいのです。

 

 そもそも米国は、国際自由主義(門戸開放、領土保全、機会均等)の原則をアジアに当てはめようとし、その「無理難題?」の極めつけが中国・仏印からの撤退等を求めるハルノート。日本がこれをいわば宣戦布告と受け取ったところから、先の大戦は始まったのでした。

 

 「真珠湾攻撃が米国に対する不意打ち狙いで、それが米国民を激怒させた」というところについ焦点が当たってしまいがちですが、開戦の真相は、明治維新以来「負け知らず」の新興国と第一次大戦後の新秩序構築をはかる新興国との間の、太平洋をはさんでの軋轢(あつれき)にあったのです。

 

 ところが、戦い終わってからはどうなったでしょうか?

 

 日本の敗戦によって、米国の理念、国際自由主義(門戸開放、領土保全、機会均等)はその通りにアジアでくまなく現実のものとなったでしょうか?


 確かにインド・東南アジア諸国の独立は実現しました。しかし、冷戦下の東アジア、すなわち中国大陸、朝鮮半島においでは、当の国際自由主義は一体どこに行ったのでしょうか?

 

 戦勝国が企図したのとは、むしろ反対といってもいいくらいのハチャメチャな展開となりました。これを受け、こんどは米国がヤンチャとでも形容したくなるような大胆な路線変更に走ります。

 

 具体的には日本占領後にいったんは軍国主義を排し、非武装化を推進したものの、数年後に冷戦による東側の日本への侵入危機を予見すると、たちまち再軍備を要請する。

 

 ハルノートを日本に突き付けた時の頑固さは一体どこへ消えたのでしょうか。それとも、倒せそうな帝国主義日本には強く当ったが、そうとは思えない敵がいるときには日本に対する態度を変えるということなのでしょうか。

 

 主義や理念をいっとき大きく振りかざした割には、しかしここまで無節操、無造作に方針を捨て去ってしまう。その有様には、これが大国のやり方かと目がくらむような思いがしてなりません。

 

2.吉田ドクトリンの哀しき限界

 この章では、吉田ドクトリンの生成過程が分析されています。

 

 吉田ドクトリンは「米国に安全保障を委ね、日本の経済復興を最優先する」ものと今まで理解してきました。しかし、そこに至るまでの背後に「戦争に負けて、外交で勝った歴史はある」という吉田なりの戦術があったことは初めて知りました。

 

 確かに冷戦は、吉田にとって利用しがいのある好機となりました。確かに、米国の無節操さ、上記で説明したハチャメチャさにただただ「受け身で」「ひっかきまわされた」わけではない事実は把握できました。

 

 しかし、経済重視、復興専念の方針で新たな国づくりを試みた結果、日本は、その後、どうなってしまったのか。

 

 吉田ドクトリンの哀しい、いや、痛々しいまでもの限界を感じずにはいられません。(この点については、次の章の感想で詳述します)。