大事件の手ざわりの冷たさ
主人公(父の分身)は、物語の前半ではB29の空襲に遭遇するし、物語の後半では徴兵されることになる。歴史的なうねりの中で自らの生死にかかわる体験が描かれている。
しかし、絵画にたとえるなら、それらはあたかも遠景のような描き方がされている。
もちろん、年老いてからの作品だから、そしてあの戦争を辛くも生き延びてしまったから、切迫感や悲壮感といった感情を生々しくは描けなかったのかもしれない。
しかし、歴史的大事件とは意外と手ざわりが冷たいのではあるまいか。
父の戦争体験には遠く及ばないが、自分にもそれに近い経験がないわけではない。
たとえば、地下鉄サリン事件だ。
後から思えば、被害者にあやうくなりかけたということなのだろう。事件が発生したタイミングからわずかにしか経過していない時間帯に、都心を走る地下鉄の車両に乗りあわせていた。
そのとき、こんな奇妙なアナウンスが車両内に流れたのだ。
「ただいま××駅で『爆破』が起きたとの情報が入りましたので、当電車はそのXX駅に停車せず通過し、その次の〇〇駅で停車いたします」
車掌の手元にあった非常時放送マニュアルに、爆破に関するアナウンス文章しかなく殺人ガス云々は記載されていなかったのだろう。
窓越しに見てみると、車両が通過する××駅プラットホームには、火も煙も上がっていない。通勤時間帯にもかかわらず、誰もいない。倒れている人もいないし、消防士も警察官も駅員もいなかった。
そして、さほど混雑していなかった車両内の乗客も、あわてふためくところが少しもなかった。
乗客全員がこんな「地下鉄急行」に乗った経験などないのに、ただおとなしくこの奇妙な運行に付き従っていた。〇〇駅で乗客は全員降車を促され、乗り換えはできなかった。
仕方なく地上に出る。目的地までは歩くしかない。そこかしこでパトカーや救急車のサイレンが聞こえていた。
あの時、自分は確かに歴史が動く時の、そしてごくわずかにかもしれないが、生死を脅かされる際にいたのだ。
しかし、この大事件の感触は、そのときもこの今のイマも、ずっとひんやりとしている。父が小説で描いたように。